杞憂の日







「やっほ~~~!お話は済んだ?」

「…。」

玄関前の下駄箱の前に座り込んで、和田に向かって手を挙げてにっこりと笑った和仁の姿に、和田は己の口元がひく、と痙攣したのが分かった。

「おめぇ、まだ残ってたんか。こんな所に居て大丈夫なのか?」

「だいじょ~ぶ!先生たち、臨時の職員会議の真っ最中だから、今はだ~れも居ないよ。」

「九条は?」

「さあ。靴はまだあったけど、流石にもう帰ったんじゃない?上履きで。」

和仁の反応に、和田はやれやれと頭を振った。それから彼の横を通り過ぎて自分の下駄箱から外靴を取り出して引っ掛けて玄関を後にする。
それに続くように和仁が自分の靴を取り出し、ついでに九条の靴も回収した。

玄関を出ると、外には夕焼け空が広がっていた。
玄関へ続く階段を西日が照らしている。和田がその眩しさに目を細めると、隣で夕焼けのような髪の毛の男がふっと笑う気配がした。

「浮かない顔だねえ。それで条約は?締結?決裂?」

「…何を、どこまで知ってんだ、おめぇは。」

深いため息を吐いて階段を下りながら和田がいつもの通り煙草を取り出すと、横からスッと安っぽいライターが差し出された。和田はそこでようやく己の火元を紛失していることを思い出して、和仁の方に視線を移す。
彼は不敵な笑みを浮かべながら「さあね」と呟いた。


康高の提案を、和田が苦悶の表情を浮かべながら渋々と引き受けたのはつい数分前だ。

生徒会室を後にしてから早計だったかと和田は一瞬悩んだが、どこか霞みのかかった頭ではメリットしか見えてこない。

何より、和田は根っからの兄貴肌だ。
それをあの・・比企康高に「あんたしか居ない」と言われて断れる筈がない。



そんな和田の性分をよく知っている和仁は、事前に康高とどんなやり取りをしたかを明かさず、ただニヤニヤとするばかりだ。

「オレはな~んも知らねえよ。オレが相手だと交渉のテーブルにも付かせてくれないからねえ、やっくんは。」

「ああ、まあ塩も投げられているしな、おめえは。」

「そーーーーなのよ‼ひどいよね‼」

別に祓わなくても良くない⁉と唇を尖らせる和仁の手から有難くライターを頂戴した和田は、数時間ぶりに味わう煙草を肺いっぱいに吸い込んで、ゆっくりと白煙を吐いた。
「生き返る…」と和田が感慨にふけっていると、「おー、おーキマってんねえ。」と若干呆れたような口ぶりで和仁が揶揄った。

「ど?数時間ぶりのニコチンは。」

「うめ~~~~~。体中に染み渡るわ…。」

「はは、こえ~な。オレにはわかんねえ世界だわ。」

ジジ、と煙草が焼かれて短くなっていく様を眺めながら、珍しく苦笑してみせた和仁は、和田が吸い終わるのをのんびりと待っているようだ。
そんな和仁に感謝しながら、和田はたっぷりと時間をかけて一本を喫みきると、携帯灰皿に吸い殻を押し込んだ。身体に栄養素が行き渡った和田は、ようやく霞が晴れてきたように視界がクリアになってきたように感じて安堵の息を吐く。
それから校門を抜けて校外へと歩き出す。

「…とりあえず締結した、とだけ言っておく。」

「へえ!」

そう聞くなり、和仁が嬉しそうな声を出した。そこから興味津々です、と言わんばかりに和田の隣に立つとキラキラとした表情で顔を覗き込んでくる。

「内容はどんなかんじ?条件はある?」

「言わねぇわ。比企にも釘は刺しといたけどな、俺はどっちのスパイもする気はねぇんだよ。…強いて言えばそれが条件だ。」

和田の言葉を聞いた和仁は「あ~ん、失敗した。」と眉毛を下げた。

「ニコチン摂取前の萎れた和田チャンに聞いとくべきだったなあ。」

はは、と乾いた笑いを浮かべる和仁を横目に、和田は閉口する。
彼が黙ってがニコチンを摂取させてくれたのは康高との詳細を聞くためだったのだと分かって、和田は内心ぞっとした。

「ま、和田チャンがそんなんだから、やっくんに選ばれたんだろうけどね。」

九条の靴をぶらぶらと揺らしながら歩く和仁を横目に、和田は背中のむず痒さを払うように咳払いをする。

「いや、まあ利用されてる感が否めねぇけどな。だがこっちにもメリットがあるんなら悪くねえかと思ってよ。…それにおめえは面白れーと思ったら、約束なんて破ってソッコーで裏切るだろうからな。」

「信用ないよねえ。まあ実際そうなんだけど。」

和仁が肩をすくめると、和田は胡乱な顔をしてみせながら、「だから塩を投げられるんだよ。」と呟いた。

「いずれにしても、オレと和田チャンとは交渉のレベルも内容も違うと思うし、詮索は…したかったけど無理そうだねえ…。まあそっちはそっちでうまいことやりなよ。」

「期待してるね~!」と言い残し、和仁は和田に手を振って、住宅街の方へスキップしながら姿を消した。
その後ろ姿を見ながら和田は「期待してる」という彼の言葉を反芻しながらノロノロと夕焼けの街中を、駅に向かって歩き出した。

鮮烈な西日を正面に受け、和田は目を細めながら一人悶々と考える。

「(学園祭の表と裏の祭りをそれぞれ比企と俺で分担する、か。)」

確かに最初から棲み分けをハッキリとしてしまえば、一般客が不良同士の抗争に巻き込まれることはグッと減るに違いない。それは学校にとっては勿論、康高にとっても仕事が減って助かるのだろう。
さらに言えば、千葉隆平が裏の祭りに巻き込まれる可能性も低くなる。これが康高の本当に目的なのだとしたら、それはそれで納得だ、と和田は一人頷いた。
こちらとしてもその方がシンプルでやりやすい。それは確かだ。

確か、なのだが。

和田は無意識に煙草を取り出していた。
だが、すぐにここが校外であることを思い出し、慌てて煙草を鞄にしまった。
学生服で、校外で煙草だなんて、捕まえて下さいと言っているようなものだ。この大事な時期に警察の厄介になるのは避けたい。
和田は仕方なくズボンのポケットから飴を取り出して口に放り込んだ。そしてその飴をガリガリと嚙み砕きながら眉根に皺を寄せる。

どこか釈然としない。

それが一体何なのか分からず、腑に落ちない何かを探し当てることができないまま、和田は駅に到着した。

太陽は今にも西へ沈みそうで、空はピンク色と青のコントラストが東の紺色へ続いている。
ガリ、と和田は大きな飴の欠片を嚙み砕いた。

「杞憂で終われば、それに越したことはねぇんだけどよ…。」

そう小さく呟いて、和田は改札を抜けた。
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