杞憂の日










「じゃあ改めてよろしくお願いします。」

「ドッキリじゃねえのかよ…。」

差し出された康高の手を見て、和田は己の額に両手を当てて消え入りそうな声で呟いた。


康高に学園祭実行委員長補佐に任命され、和田はあまりのことにソファに卒倒した。「夢だ、これは夢だ」と繰り返し、しばらくしてそっと目をあけてみると、康高が彼を覗き込んで、「気が済みましたか?」と問いかけてきた。
部屋の蛍光灯の明かりが逆光となり、和田から見える康高のシルエットの暗さが恐怖感を増長させていて、さながらホラー映画の一場面のようだ。

「…おめぇよう…、勉強ばっかで少しおかしくなっちまったんじゃねえか…?」

げっそりとした顔で和田が問えば、康高は「今更ですか」と呆れたような声色で返答する。

「まともなら、そもそもこの学校には居ません。」

「…確かにな。」

「ただ、まともだった時よりも、今の方が気に入ってますね。」

「毎日飽きないんで。」と付け加えた康高を前に、なんとも言えない感情ではぁ~と口から抜けるような声を発した和田は、その巨躯をゆっくりとソファから起こして座り直すと、再び片手を頭に添えた。
そして一度机に放った任命書を改めて見直すと「目的はなんだ。」と静かに呟いた。

「自分で言うのもなんだけどよ、俺を補佐にするメリットなんかねぇぞ。前代未聞じゃねぇか、こんな起用は。」

和田の発言に、康高は「言いたいことはわかります。」と返答した。
そもそも“健全な”学園祭の運営を目指す実行委員会と、学園祭を“北工潰し”の会場として喧嘩を受ける不良達の目的は正反対であり、相容れない存在のはずだ。
しかも「補佐」とは、委員長不在時には全ての決定権が委ねられる重要なポストである。
歴代の学園祭実行委員会が死守してきた大事な権限を、この男はあろうことか不良に、それも虎組という神代地区一の不良グループの幹部にあっさりと委ねようと言うのだ。
和田が疑うのも無理はない。
しかし、康高本人の考えは違うようだ。

「俺からすれば、メリットしかないんですがね。」

「メリットしかない、だと?」

「はい。まず誤解しないでほしいのは、俺は北工潰しに異議を唱える気はありません。」

「は?」

康高の言葉に和田がぎょっとした顔をする。これは“健全な”学園祭の運営を目指す実行委員会のトップが、自らそれを放棄するようなものだ。しかしそんな和田の困惑を他所に、康高は話を進める。

「思うに、今までに学園祭で生じたトラブルは、こちらとそちらの意思疎通が十分でなかった為に起きているようです。そもそも“北工潰し”という名前が物語っているように、おたく等が先陣切って主催をしているわけじゃない。向こうが勝手に「打倒北工」の御旗を掲げて進軍してくるわけです。」

「それは、まあ、そうだな。」

「それを防ごう、というのが間違いなんですよ。無理に決まっている。それなのに、何か策は講じなければならない。しかも、通常の学園祭も滞りなく行うことは大前提で。」

「そんなん無茶苦茶じゃねえか。」

「そこで、先輩に協力をお願いしたいんです。」

「…。」

康高の言葉に、和田は眉根の皺を深く刻んで、心底胡散くさそうな顔付きになる。無理もない。康高の話からはまだ核心が見えてこない。そんな和田を他所に、康高は話を続ける。

「実は今日、大江先輩に手を組まないか、と誘われました。」

「は?和仁に?」

「はい。丁重にお断りしましたが。」

「…丁重に?」

康高の言葉に和田は胡乱な目をする。
数時間前に職員室の前で会った和仁の制服や頭から白いものがパラパラと落ちているのを発見した。それはよくよく見ればそれは荒塩。塩⁉と思い、和仁に訊ねると、「やっくんに投げられた」と話していたため、こいつはとうとう比企に祓われるほど邪悪な存在になったのか、と和田は遠い目をしたことを思い出した。まさか裏にそんな事情があったとは。
だが話の論点はそこではない。

「いや、それよりも、なんで断ったんだ。俺より和仁の方が虎組や他の不良連中への影響はでかいぞ。」

「大江先輩はあくまで“罰ゲーム”に関して手を組まないか、と提案してきたんですよ。九条先輩が隆平を援護する存在に気が付いて、そいつを消したがっている、と。だがどうもそれは大江先輩の本意じゃないようで。」

「なるほど…和仁は千葉側の戦力を削りたくねぇわけだ。」

「そうです、大江先輩の目的は罰ゲームをいかに長く継続させるかに尽きる。そしてあわよくば、学園祭や“北工潰し”に隆平を組み込めないか企んでいる有様だ。」

「…確かにな…。お前があいつに塩を投げたくなる気持ちが分かるぜ…。」

呆れたような顔をして頬杖をついた和田に向かって、康高は「それに」と付け加えた。

「あんな奴と手を組むなんて、生理的に受け付けない。」

「それで俺の出番ってわけか?」

自嘲気味に和田が笑う。和仁の次点という事に妙に納得はしつつも、「やっぱりな」という感情の方が大きい。だが康高は首を振って「違います。」と静かに答えた。

「これは、あんたにしか頼めないことだ。」

正面から言い切った康高を見て、和田は面食らった。正直なところ、そんなことを言われるとは想像してもいなかった。彼はそんな和田の考えを見透かしたように「意外ですか?」と問うた。

「さっきも言った通り“北工潰し”は他校連中を受け入れる他に、こちら側の選択肢はない。事実、『外部からの侵入者が暴力沙汰を起こしている』というのが学校側の見解だ。このまま例年通りに進めてしまえば、今年も生徒や一般客に被害が及ぶのは目に見えている。」

康高の言葉に和田は苦い顔をする。
確かにその通りだ。

和田自身、喧嘩は大好きだ。だが関係の無い一般客や女性子供が巻き込まれるのは正直心苦しい。昨年もその事が発端で生徒会と校内の不良が揉めに揉めて、現生徒会長、副会長ともに不登校となる事態となった。

「…何か案があるのか?」

「はい。そうならないために、切り離すんです。学園祭と北工潰しという行事を。」

「切り離す?」

「そうです。学園祭が表の祭りなら、北工潰しは裏の祭りだ。表の仕切りは俺だけでもどうにかなる。他にもクラスメイトの助けを借りて開催には漕ぎつけられるだろう。」

康高の言葉に偽りはない。
実行委員は正直かなり手薄の状態だ。しかし例年の実績を踏襲すれば難しいことはない。
だが問題は裏の祭りだ。康高を含めて一般の生徒には、当然だが不良同士の抗争には縁が無い。

「“北工潰し”は流石に前回参照、というわけにもいかないでしょう。俺を含め、ほとんどの一般生徒にはノウハウどころか基本もわからない状態だ。委員長補佐に先輩を選んだのはこれが理由です。」

だからお願いします、と康高は真剣な声色で和田に向けて口を開いた。

「裏を、あんたに取り仕切ってほしい。」












よろしく、と差し出された隆平の手を凝視した九条は考えるよりも先に、反射的に己の手を出していた。
そして彼の手を掴もうとした、その瞬間。
差し出された手が大きく横に移動したかと思うと、隆平の腕がギュン、としなって

バチィィィン!

と九条の手が弾かれた。

「い゛っつ‼」

九条は突然手に走った激痛に、痛みで声にならない呻き声をあげながら何が起きたのかと、己の掌を確認した。
なんだこれは、と思う間もなかった。とてつもなくするどい痛みが皮膚の表面にダイレクトに伝わり、あまりの痛さに九条の口から思わず声が漏れる。
未だ痛みが引かずビリビリと痺れる九条の掌には、彼よりも一回り小さい掌の跡がハッキリと残っていた。一瞬考えがまとまらず、頭に?マークを浮かべた九条の眼前で、その手の跡の主が「みたか!コラァ!」と腕を組んで仁王立ちをしていた。

「今更握手なんかするか、ブァカ‼それはこの間の仕返しだ!小山と組んで何がしたかったか知らねぇけど、高みの見物決め込みやがって!」

「こ…んのクソガキ…!」

「そっちが約束破ったんだからな!これで恨みっこなしだ!」

ざまーみろ‼と笑う隆平の手もよく見ると小刻みに震えている。物凄い勢いをつけて渾身の一発を九条にくれてやったのだ。彼にも多少なりにダメージがあるようだ。
てめぇも痛いんじゃねぇかよ、と九条は思わず胸中でツッコミを入れてしまったが、九条の掌は燃えるような痛みをまだ引きずっている。

「もうあんたには期待しない!別に今までもしてたわけじゃないけど、再確認できてせいせいしたわ!てめぇこそ自惚れんなよ!おれが例え女子だろうがなんだろうが、おれだってお前のことなんか大っっっ嫌いなんだよ!」
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