杞憂の日

「そうですね、せっかくご足労いただいたんで、本題に入りましょう。」

「思ってもねえクセによ…。」

ため息を吐いた和田を他所に、康高はペンを走らせていた手を止めると、机の上にあったシャチハタに手を伸ばして、ポンと書類に押印した。
そしてその書類と手に持つと、和田に向けて差し出した。

「どうぞ。」

「なんだ?」

和田は律儀にソファから立ち上がると、その書類を康高から受け取った。そしてぼんやりと内容に目を通し、「え?」と呟いて一度顔をあげる。

「…。」

「…。」


無表情の康高の顔を見て、和田は今度こそ書類を両手で持ち直すと、バッと勢いよく内容を見返した。

そこには紛れもなく和田宗一郎の名と、見出しには「任命書」の文字。
そして。
「下記の者を学園祭実行委員長補佐に任命する。」と記載されていた。

「お、俺が…委員長補佐…⁉」

「私が…プリキュア⁉みたいな言い方止めてもらっていいですか?」

「お、おめえ、こ、ここれはどういう…⁉」

「ハンコあります?認印で良いんですけど。」

「も、持ち歩くか…そんなもん!」

「じゃあ血判にしますか。」

どこまでも真顔の康高の言葉に、和田は書類を胸に抱いたまま、意識が遠のいて行くのを感じた。










「謹慎三日って、何やってるんだよ。」

「…。」

「三日だと、火、水、木は学校に来ちゃいけないってことか?じゃあ次に会うのは金曜日⁉はぁ⁉それでまた週末じゃん‼」

「…。」

「罰ゲームなんだろうが⁉真面目に取り組めや!っていうか毎日学校来いやヴォケ!」

「…黙れ。」

「独り言ですっ!」

後ろでブツブツ喋る隆平に、九条が人を射殺すような視線を向けると、隆平はフンッと明後日の方向に顔を向ける。

隆平の「恋人なので一緒に帰りましょう」という宣言後、九条は当然ながら苦虫を噛み潰したような顔をした。
よもや聞き間違いかと思ったが、目を細めて隆平を見やった九条に向かって「聞こえてねぇようだな!」と隆平が全く同じことを繰り返したので、どうやら間違いは無いようだ。
九条本人としては、このまま無視を決め込んでも構わなかったのだが、この少年のクソデカボイスが教師の耳に届くと厄介だ。
その上、「あんたが帰るまで、何回でも同じことを言い続けるからな‼」と隆平が言い出した為、九条は深いため息を吐くのと同時に、重い腰を上げる他なかった。



そこから冒頭の隆平による「独り言」が始まった。

「もっとメインプレーヤーとしての自覚を持てよな!中途半端に投げ出してんじゃねえ!お前1人でゲームしてるわけじゃねえんだぞ!」

野球観戦中のオッサンのような隆平の野次に、九条は額に青筋を浮かばせながら、無言のままドス黒いオーラを周囲に撒き散らす。
そのオーラに気圧されたのか、散歩していた柴犬が無茶苦茶に吠えてくるが、それも仕方の無い事だ。
柴犬が顔の肉をギュッと中心に集め、飼い主に引きずられていくのを憐れみを込めた目で眺めた隆平が「かわいそうにな、わんこ…こえーよな。」と呟くのと同時だった。
隆平は正面から九条の腕が伸びてくるのが見え、思わず声をあげた。

「うおっ」

「黙れ、っつてんだよ。」

ガッと乱暴に胸ぐらを捕まれた隆平は驚きこそしたものの、動揺する素振りは見せず、九条の目を真っ直ぐに見据えた。

「独り言ですってば。」

「なんでも良い。喋るな。耳障りなんだよ、クソ野郎が。」

「そりゃ障りの良い話をしてるわけじゃないですからね。特に先輩にとっては。」

「…。」

隆平の胸倉を掴む九条の手に、力が籠る。
その反応を肯定と捉えた隆平は鼻をフン、と鳴らした。

「クソ野郎と付き合うっていう、この不愉快さが罰ゲームの醍醐味じゃないですか。もしもおれが耳障りが良い事しか言わないような、優しい女の子だったら意味ねーだろーが。」

「こっちは捨て身で罰ゲームしとんじゃボケ!」と隆平が吐き捨てると、九条は鼻で笑って、掴んでいた彼の胸倉を放り投げるように拘束を解く。突き飛ばされた格好となった隆平は、後方によろめいた。

「てめぇが女なら、だと?」

九条の言葉に隆平は一瞬何を言われたか理解できず、キョトンとして見せた。そこからしばし考え、ようやく先ほどの己の言葉を指していることに気が付いた。

「え?…あ、いや、まあ。」

まさかこの会話の流れでその部分を拾われると思っていなかった隆平は、そっぽを向きながら口の中でゴニョニョと決まりが悪そうにつぶやいた。

「いや、まあ、そもそも…えーと、おれが女の子なら散々遊ばれて捨てられるだけなんでしょうけど…?」

突然のことで、一体自分が何を言っているのか分からず、隆平が落ち着きなく皺が寄った襟元を整えていると、九条が忌々しげに「自惚れんなよ。」と低い声を出した。

「てめぇが女だとしたら、死ぬほどブスに決まってんだろ。遊びもしねぇわ。」

「気色悪ぃ。」と吐き捨てた九条に、顔を顰めた隆平は思わず「うわあ」と引き気味に後退した。

「その、ブスとか、女の子には絶対に言わない方がいいですよ。」

刺されますよ、マジで、と真剣な顔をして進言する隆平を前に、九条は侮蔑するように笑って、隆平の顔を見下ろした。

「てめぇがそれを言うのかよ。偽善者が。」

煽るような九条の言葉に、隆平はぴく、と表情を強張らせた。
しかしそれも一瞬のことで、彼は目を伏せて深いため息をはく。
そんな隆平へ追い打ちをかけるように、九条は目を細めて静かに言い放った。

「裏では女を泣かせた大悪党のくせによ。」

「…。」

うなだれるように黙り込んだ隆平の後頭部を眺めながら、九条はスーッとと感情が冷えてゆくのを感じた。

こいつは、女のことになるとこれだ。

まるで波が引いてゆくように、九条の胸中にはなんの感慨も沸かなくなる。
今こうして過ごす時間が、何もかもが、九条には全く意味のないものに思えて止まない。
この目の前の男ともども、どこかにぐしゃぐしゃに丸めて投げ捨ててしまいたいような暗い気持が芽生えてくる。

だが、押し寄せてくる薄暗い九条の思いとは裏腹に、「分かってますよ。」とハッキリとした声が彼の耳に届いた。
そこにはしっかりと顔をあげて九条を見据える隆平の姿があった。

「そもそも最初から、こんなクソみてーな罰ゲームに正義なんかあるわけないんだ。おれは勿論、あんたにも。」

隆平の言葉に、今度は九条が眉根を寄せて目を細める番だった。
九条の想像では、隆平の反応は自分に対する憎々しげな表情と態度が常だ。だがこれまでと全く違った反応と、予想外の言葉が彼の口から出た事に、多少なりの驚きが九条にはあった。
そんな彼の心の内も知らないまま、隆平は淡々と言葉をつなぐ。

「それが分かるまで散々苦労しました。だけど、色んな人の協力があって、今ようやくスタートラインに立てたんです。」

「今日は、それを伝えたかったんだ。」と隆平が九条から目を逸らさず、真正面から見据えた。

「悪党同士、おれ達にはクソまみれの泥仕合がお似合いだ。」

「…。」

「おれはもう引かねぇぞ。あんたがどんな手を使おうが、泥の中に沈ずめられようが、誰がなんと言おうが関係ねぇ。最後には絶対にあんたの喉笛に噛みついてやる。」

「だから、改めてよろしく。」と、隆平が手を差し出してくるのを、九条はただ唖然と眺めていた。
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