宣戦布告
屋上での一騒動があった翌日。
ざわめく教室の中、比企康高は自分の耳を疑った。
「お前、それマジで言っているのか。」
静かに問う康高に、鼻に小さなガーゼを施した千葉隆平は、こっくりと深く頷いたのだった。
事件の翌日。
隆平は校内でちょっとした有名人になっていた。
前日の昼休みに、九条の機嫌を損ねて半殺しにされた哀れな少年として噂話の格好の的となっている。
噂では肋骨を三本折られたとか、歯を全部折られたとか、手足の骨を折られて失神するまで殴られた、とか。
事の真相には程遠い、本人には不名誉な噂ばかりであった。
もちろん、骨を折られたことに変わりはないのだが、肋骨や手足と言われると、鼻の上にこじんまりと乗ったガーゼだけでは些か都合が悪かった。
そんな好奇の目を向けられながら登校する間、やはり精神を磨り減らした隆平は教室に入るなり倒れ、同情を買った優しいクラスメイト達に昨日より丁寧に机まで運んでもらった。
女子が異常に優しかったのも、昨日教室から連れ出されて、とうとう帰って来なかった隆平に対する最大限の労りと言えた。
そして鼻を付けない様に顔を横にして机に凭れ掛かった隆平は、いつもの様に隣でノートパソコンを操っている幼馴染みを見るなり勢いよく立ち上がった。
「康高てめえええ!」
「おはよう隆平。ずいぶん面白いツラになったな。」
パソコン画面から目を離さず、口の端だけ持ち上げた康高を見て、隆平は彼にヘッドロックをかけた。
「お前おれのピンチに助けに来るんじゃなかったのかよおお!薄情にもほどがあるぞ!見ろこの哀れな姿を!」
「悪かった。忙しくてな。」
「へええええ!親友のピンチより優先させることがあるんだぁ!」
「ああ。ネット上で第89回きのこたけのこ戦争が勃発していてな。チョコレート混合主義の豚どもを黙らせる手段を昨日遂に実行した。『たけのこ派』と書くと自動的に『きのこ派』へ強制変換されるウイルスをバラまいていたんだ。」
「すっげえ暇じゃんね!」
きのこ過激派の康高の言葉にヘッドロックの圧を強めると「きゅう」と彼の喉から空気が漏れたのを聞いて、隆平が「あ、やべ」と気が付き腕の力を緩めた瞬間だった。
康高がすかさず腕をあげて隆平の鼻を軽く弾くと、隆平は「おおおおん」と面白いほど飛び上がって転げまわった。
床でシャチホコのようにのけぞり悶える隆平を尻目に康高はふん、と鼻を鳴らす。
「まあこれに懲りたらもう虎組には関わらないことだな。安心しろ。後の処理は俺に任せておけ。」
康高がパソコンに向き直って何やら作業をしようとすると、シャチホコから人間に戻った隆平が鼻を押さえながら涙目のまま首を傾げた。
「え?おれ、九条と別れるつもりないよ。」
ブッと音がしたかと思うと、途端に康高のパソコンの画面が真っ暗になる。
「あ」
そのパソコン画面を見て青ざめた隆平は、ボソっとエラーだ、と呟いた。康高は固まったまま身動き一つしない。
そのまま何やら尋常ではない警戒音が教室中に鳴り響く。
怪しげな英数字の羅列が猛スピードで画面に表示されるのを無視して、康高は壊れた人形のようにゆっくりと隆平の方を向いた。
「…別れない?」
「あの…康高さん、なんかヤバい事になってますけど。」
けたたましいエラー音は、聞いた事もない音を発している。
如何にも「緊急事態」という様な音だ。しかしパソコンには見向きもせずに、康高は隆平の目の前に立つと、黒いオーラを放出していた。
まさしくこちらも「緊急事態」である。
隆平が青ざめると、珍しく本気で怒った風の康高が地を這うような声で呟いた。
「お前、それマジで言っているのか。」
静かに問う康高に、鼻に小さなガーゼを施した千葉隆平は、康高の顔を見て戸惑い気味に、だがしっかりと深く頷いた。
「お前はそれで良いのか?」
「う、うん。」
隆平は再び頷く。
良いわけがないだろう、と康高は隆平をじっと見つめた。
とりわけ目を見る。低い声を出す康高を前に隆平はしっかりと康高を見据えていた。
「…何か、考えがあるのか」
隆平は鼻にガーゼを付けたまま神妙な顔で俯き、肯定も否定もしなかった。具体的な考えはないようだ。
「無策のまま何をするつもりだ。浅はかにもほどがあるぞ。」
康高の言葉に隆平は「だって」と言いかけて顔をあげた。
「嫌じゃねえか。こんだけ馬鹿にされてさ。聞いてただろ?九条の言い分。このまま引き下がれないよ。確かに考えがあるわけじゃないけど、俺だって一矢報いたいんだ。」
「だから、別れないのか」
うん、と隆平は頷く。
「おれのちっぽけなプライドを守るために、断固として戦いたい。」
真っ直ぐな目をした隆平を見て、康高はため息をついた。
なぜあんな見勝手な不良のために隆平がこんな目に遭わなくてはならないのだろうか、と思わず頭を抱えて唸る。
しかし下手に反対をすれば、康高に迷惑をかけないように、と隆平が1人きりで危ない選択をすることは容易に想像できる。
虎組との付き合いを断固反対したい己の中の最大派閥を一旦脇に置いた康高は、地を這うような声で「わかった」と承諾した。
「ただし、一人で無茶するのはやめろ。逐一俺に相談してくれ。」
「や、康高~!」
親友の厚い友情に隆平が感涙して抱き着こうとするのを片手で阻止した康高は、深いため息を吐く。
「…くそ、アホだアホだと思っていたが、こうも手に負えない程のアホだと次から給料を貰わなければやってられん。」
「え!?有料なの!?」
「病院は…予約しておいてやる。」
「お、折られること前提で話すな!!」
「好きにしろ。」
ぶすっとした顔をしてパソコンの警戒音を止めた康高を、目を丸くして見た隆平は嬉しそうに笑った。
「お前なら絶対そう言ってくれると思った‼」
隆平の顔をまともに見れず、康高はマリアナ海溝より深いため息を返事がわりとした。
止めたはずのパソコンの警戒音が、康高の耳にやけに響いて残った。