杞憂の日
「…先輩。」
自分の声が思ったほど震えず、隆平はホッとした。
だが、呼びかけるには少々ボリュームが小さかったようだ。
それでも静かな体育館裏には十分な響きを持って、その声は確かに届いたらしい。
大きな粗大ゴミの影から見える二本の足が僅かに反応を見せた。
しかし、隆平はそこから動こうとはしなかった。
十分に距離を保った状態で、そこからどうしても進むことができなかったのだ。
その代わり、もう一度深呼吸して、声帯を震わせる。
「先輩。」
今度は、はっきりと言い切った。
呼びかけに少し間を置いて、投げ出された二本の足が、緩慢とした動作でズルズルと粗大ゴミの影へ消えたかと思うと、黒い塊がそこからヌッと現れた。
それは紛れもなく、今現在学校中を騒がせている、渦中の人物であった。
「…民主主義って言葉ぁ、知ってっか?」
思わず口を付いて出た言葉に、言われた本人は「勿論」と頷いて、全く気にした様子もなかった。
「暫定政権という言葉はご存知ですか。」
逆に返されて、和田は苦い顔をする。
虎組という荒れた組織の中にも民主主義は存在するのに(約2名ほどを除いて)規律を重んじる学校側に独裁政権を横行させて良いのか、とブツブツと文句を言っていると「暫定ですってば。」と康高にしては珍しく呆れたように言われた。
話がある、と和田のケータイに連絡が入ったのは約10分前ほど前だ。
虎組幹部を追い回すのを諦めたらしい教師陣が、一斉に職員室へ戻ったのを見計らい、和仁、小山、和田の三人は方々へ散った。
そういえば今日は学園祭の実行委員の集まりがある、と言っていた気がする。
それどころでもない気がするが、生徒一人のために学園祭の日付を伸ばすわけにもいかないのだろう。和田はこっそりと教室へ戻り、カバンを手にして、今日はこのまま帰った方が良さそうだ、とわざわざ職員室から反対側の方向から玄関へと向かった。
その矢先、康高から連絡が来たのである。
メールで「どこに居る」と問えば、「進路指導室の横です」と簡潔な返信。
大体自分の方が年上なのに、なぜこちらから出向かなければならないのだろう、と不満が頭をよぎったが、足だけはもくもくと進路指導室を目指すものだから自分の人の良さに呆れてしまう。
「あー…進路指導室の横…よこ…っと。」
そう呟きながら見慣れた進路指導室のプレートを過ぎ、隣の小さな部屋の前にたどり着いた和田は言葉を失った。
“生徒会室”
木目の大きな立て看板に、力強い毛筆で書かれたその肩書きに目を丸くした和田は、一瞬間違えたのかと辺りをキョロキョロ見回した。しかし進路指導室の横の部屋はここだけだ。
一気に怪訝な顔になった和田を前に、当の生徒会室の中からノックもしていないのに「どうぞ」と声が聞こえ、和田が再度慌てて辺りをキョロキョロと見回したのは仕方のない話だった。
「カメラでも仕掛けてんのか?」
「人聞きの悪い。」
そして、生徒会室に足を踏み入れた瞬間、開口一番に問いかけた和田に対し、生徒会長のデスクに座った康高が眉を潜めたのも仕方のない話だった。
「…ほんとに居た。」
「…は?」
不機嫌そうに呟いた九条の目はやや虚ろだった。
「(あ、寝癖ついてる!こいつ、この騒ぎの中寝てやがったな…!!)」
寝起きの九条の顔を見てぐぎぎ、と歯ぎしりをした隆平だったが、この男がここにいた事には、正直驚きだった。
件の騒動の中、九条を見付けられない教師陣を尻目に、隆平が思い出したのは、罰ゲームが始まってから約一週間ほど、一緒に下校するために待ち合わせたこの体育館裏のガラクタ置き場だった。
滅多に人の来ない場所だし、追い詰められても裏門が近いし逃げ場を確保しやすい。さらに、日当たりも良いので昼寝をするにもぴったりだ。
…それでも隆平は半信半疑だったのだが…。
「先輩。」
もう一回呼べば、九条は頭をガリガリとかきながら欠伸を零しているところだった。
それから気だるげに眼を細めると、隆平の方を向く。
九条の方も段々と覚醒してきたのか、隆平の存在を改めて意識したらしく、いつもより殊更機嫌が悪いように見える。
当たり前だ、隆平とは今回の騒動で多少接触があったし、それがどう見ても良好とは言い難いものだったからだ。
「消えろ。」
それが当たり前であるかのように、九条が紡いだ言葉は、明らかな拒絶だった。
「顔が声が存在が。全部が不快だ。吐き気がする。気色悪い。消えろ。」
低い声で言い切って、蔑むような視線を送ってきた九条に対し、隆平はぐう、と唇を噛みしめた。予想はしていたが改めて言われると唇が震えた。
だが、今更こんな事で引き下がるわけにはいかない。
…お前ら、一体どういう関係なんだ?
隆平の耳に、「のり」の声が聞こえたような気がした。
「(おれだって、わかんねぇよ「のり」。でも、今言えるなら…。)」
ぎり、と歯を食いしばった隆平は、額に青筋を浮かばせたまま顔を上げた。
また包帯にじわりと血が滲んだ気がしたが、正直もうどうでもよかった。
「わあ奇遇!!やっぱりおれ達気が合うんですね!! おれも先輩の顔が声が存在が、全部が不快です!!」
空気が震えるような怒号で隆平が叫んだ。
端から見れば、隆平の凄味は勢いでかめはめ波が出せるのでは無いかと疑うくらいの覇気である。ビリビリと空気が振動し、そこらの木々から鳥が一斉に飛び立つぐらいには威力があった。
「でも残念ながら!!おれ達付き合っているので!!それらしい事をしないといけないんですよねっっ!!」
だから!!!と隆平はビシっと人差し指で九条を指した。
「あなたの恋人が迎えに来ましたよ!!」
「一緒に帰りましょう!!」と笑顔の欠片ひとつ見えない、凄味さえ見える「恋人」の表情は、苛烈な台詞が…例えば「気円斬」とか「魔貫光殺砲」とか「どどん波」とか必殺技の名前などが入るのが妥当であり、間違っても「共に下校を…」と誘うそれではなかった。
九条が豆鉄砲を食らったような顔をしたのは、本当に仕方のない事だった。
「学園祭実行委員長?」
「そうです。前年までは生徒会長が兼任していたみたいですけど、現状の生徒会が事実上崩壊しているんで。ここも学園祭準備の仕事場として貸し出されているだけで、暫定です。」
「ああ~…。」
頷いた和田は会長デスクの脇にある一人掛けようのボロボロのソファに腰かけ、目を泳がせる。
現生徒会長と副会長は現在登校拒否中だ。
「崩壊原因は虎組だそうですね。」
「黙秘権を発動する。」
「別に責める気はないですよ。ただ、誰かさんのせいで学園祭とは関係無い仕事まで任せられて少し辟易してるだけで。」
「責めてるじゃねぇか!!」
「内定のために今からでも立候補すれば良いんじゃないですか。鞄無しで、地盤と看板さえあればいいんですから。」
「ほんと、ヤな高校生だよ、おめぇは…。」
苦い顔をした和田は「でも俺のせいじゃねぇ」と一言添えたが、康高は特に追及することなく、淡々と仕事をこなしている。
そんな康高を横目で見た和田はカリカリと康高がペンを走らせる音を聞きながら、小さく息を吐いた。
「よお…。世間話するために呼んだのか?」
和田の言葉に、康高はピタリと手を止めた。
それからゆっくりと顔をあげて、和田の方を見据えた。
自分の声が思ったほど震えず、隆平はホッとした。
だが、呼びかけるには少々ボリュームが小さかったようだ。
それでも静かな体育館裏には十分な響きを持って、その声は確かに届いたらしい。
大きな粗大ゴミの影から見える二本の足が僅かに反応を見せた。
しかし、隆平はそこから動こうとはしなかった。
十分に距離を保った状態で、そこからどうしても進むことができなかったのだ。
その代わり、もう一度深呼吸して、声帯を震わせる。
「先輩。」
今度は、はっきりと言い切った。
呼びかけに少し間を置いて、投げ出された二本の足が、緩慢とした動作でズルズルと粗大ゴミの影へ消えたかと思うと、黒い塊がそこからヌッと現れた。
それは紛れもなく、今現在学校中を騒がせている、渦中の人物であった。
「…民主主義って言葉ぁ、知ってっか?」
思わず口を付いて出た言葉に、言われた本人は「勿論」と頷いて、全く気にした様子もなかった。
「暫定政権という言葉はご存知ですか。」
逆に返されて、和田は苦い顔をする。
虎組という荒れた組織の中にも民主主義は存在するのに(約2名ほどを除いて)規律を重んじる学校側に独裁政権を横行させて良いのか、とブツブツと文句を言っていると「暫定ですってば。」と康高にしては珍しく呆れたように言われた。
話がある、と和田のケータイに連絡が入ったのは約10分前ほど前だ。
虎組幹部を追い回すのを諦めたらしい教師陣が、一斉に職員室へ戻ったのを見計らい、和仁、小山、和田の三人は方々へ散った。
そういえば今日は学園祭の実行委員の集まりがある、と言っていた気がする。
それどころでもない気がするが、生徒一人のために学園祭の日付を伸ばすわけにもいかないのだろう。和田はこっそりと教室へ戻り、カバンを手にして、今日はこのまま帰った方が良さそうだ、とわざわざ職員室から反対側の方向から玄関へと向かった。
その矢先、康高から連絡が来たのである。
メールで「どこに居る」と問えば、「進路指導室の横です」と簡潔な返信。
大体自分の方が年上なのに、なぜこちらから出向かなければならないのだろう、と不満が頭をよぎったが、足だけはもくもくと進路指導室を目指すものだから自分の人の良さに呆れてしまう。
「あー…進路指導室の横…よこ…っと。」
そう呟きながら見慣れた進路指導室のプレートを過ぎ、隣の小さな部屋の前にたどり着いた和田は言葉を失った。
“生徒会室”
木目の大きな立て看板に、力強い毛筆で書かれたその肩書きに目を丸くした和田は、一瞬間違えたのかと辺りをキョロキョロ見回した。しかし進路指導室の横の部屋はここだけだ。
一気に怪訝な顔になった和田を前に、当の生徒会室の中からノックもしていないのに「どうぞ」と声が聞こえ、和田が再度慌てて辺りをキョロキョロと見回したのは仕方のない話だった。
「カメラでも仕掛けてんのか?」
「人聞きの悪い。」
そして、生徒会室に足を踏み入れた瞬間、開口一番に問いかけた和田に対し、生徒会長のデスクに座った康高が眉を潜めたのも仕方のない話だった。
「…ほんとに居た。」
「…は?」
不機嫌そうに呟いた九条の目はやや虚ろだった。
「(あ、寝癖ついてる!こいつ、この騒ぎの中寝てやがったな…!!)」
寝起きの九条の顔を見てぐぎぎ、と歯ぎしりをした隆平だったが、この男がここにいた事には、正直驚きだった。
件の騒動の中、九条を見付けられない教師陣を尻目に、隆平が思い出したのは、罰ゲームが始まってから約一週間ほど、一緒に下校するために待ち合わせたこの体育館裏のガラクタ置き場だった。
滅多に人の来ない場所だし、追い詰められても裏門が近いし逃げ場を確保しやすい。さらに、日当たりも良いので昼寝をするにもぴったりだ。
…それでも隆平は半信半疑だったのだが…。
「先輩。」
もう一回呼べば、九条は頭をガリガリとかきながら欠伸を零しているところだった。
それから気だるげに眼を細めると、隆平の方を向く。
九条の方も段々と覚醒してきたのか、隆平の存在を改めて意識したらしく、いつもより殊更機嫌が悪いように見える。
当たり前だ、隆平とは今回の騒動で多少接触があったし、それがどう見ても良好とは言い難いものだったからだ。
「消えろ。」
それが当たり前であるかのように、九条が紡いだ言葉は、明らかな拒絶だった。
「顔が声が存在が。全部が不快だ。吐き気がする。気色悪い。消えろ。」
低い声で言い切って、蔑むような視線を送ってきた九条に対し、隆平はぐう、と唇を噛みしめた。予想はしていたが改めて言われると唇が震えた。
だが、今更こんな事で引き下がるわけにはいかない。
…お前ら、一体どういう関係なんだ?
隆平の耳に、「のり」の声が聞こえたような気がした。
「(おれだって、わかんねぇよ「のり」。でも、今言えるなら…。)」
ぎり、と歯を食いしばった隆平は、額に青筋を浮かばせたまま顔を上げた。
また包帯にじわりと血が滲んだ気がしたが、正直もうどうでもよかった。
「わあ奇遇!!やっぱりおれ達気が合うんですね!! おれも先輩の顔が声が存在が、全部が不快です!!」
空気が震えるような怒号で隆平が叫んだ。
端から見れば、隆平の凄味は勢いでかめはめ波が出せるのでは無いかと疑うくらいの覇気である。ビリビリと空気が振動し、そこらの木々から鳥が一斉に飛び立つぐらいには威力があった。
「でも残念ながら!!おれ達付き合っているので!!それらしい事をしないといけないんですよねっっ!!」
だから!!!と隆平はビシっと人差し指で九条を指した。
「あなたの恋人が迎えに来ましたよ!!」
「一緒に帰りましょう!!」と笑顔の欠片ひとつ見えない、凄味さえ見える「恋人」の表情は、苛烈な台詞が…例えば「気円斬」とか「魔貫光殺砲」とか「どどん波」とか必殺技の名前などが入るのが妥当であり、間違っても「共に下校を…」と誘うそれではなかった。
九条が豆鉄砲を食らったような顔をしたのは、本当に仕方のない事だった。
「学園祭実行委員長?」
「そうです。前年までは生徒会長が兼任していたみたいですけど、現状の生徒会が事実上崩壊しているんで。ここも学園祭準備の仕事場として貸し出されているだけで、暫定です。」
「ああ~…。」
頷いた和田は会長デスクの脇にある一人掛けようのボロボロのソファに腰かけ、目を泳がせる。
現生徒会長と副会長は現在登校拒否中だ。
「崩壊原因は虎組だそうですね。」
「黙秘権を発動する。」
「別に責める気はないですよ。ただ、誰かさんのせいで学園祭とは関係無い仕事まで任せられて少し辟易してるだけで。」
「責めてるじゃねぇか!!」
「内定のために今からでも立候補すれば良いんじゃないですか。鞄無しで、地盤と看板さえあればいいんですから。」
「ほんと、ヤな高校生だよ、おめぇは…。」
苦い顔をした和田は「でも俺のせいじゃねぇ」と一言添えたが、康高は特に追及することなく、淡々と仕事をこなしている。
そんな康高を横目で見た和田はカリカリと康高がペンを走らせる音を聞きながら、小さく息を吐いた。
「よお…。世間話するために呼んだのか?」
和田の言葉に、康高はピタリと手を止めた。
それからゆっくりと顔をあげて、和田の方を見据えた。