杞憂の日
校内は未だ興奮冷めやらぬまま、生徒たちは帰る気配もない。
自習時間と、清掃が終わり、いざ担任を迎えてのHRが始まると、生徒達は何かしら事件の詳細について発言があるのではないか、と期待していた。
しかし実際は、今週から学園祭準備の為明日から話し合いを行う、という旨が告げられ、それらしきプリントが配布されただけだった。
そして康高は学園祭実行委員の集まりへ。
三浦は悪いお友達に拉致されてしまった。
残された隆平はというと、学園祭や、九条の事で盛り上がっていたグループには入らず、しばらく教室内でぽつんと座って考え事をしていたが、やがて人知れず教室を後にした。
ぼんやりと階段を下りながら考えていると、何やら階下の職員室前に物凄い人だかりが出来ている。
なんとなく嫌な予感がした。
その人垣の隙間から僅かに見える掲示板を、よくよく目を凝らして見た隆平は、「やっぱり。」と予感的中に顔をしかめてみせた。
『以下の者、暴力行為につき、3日間の停学へ処する。二年 九条大雅。』
簡潔な文章の張り紙を見た隆平は、人ごみから抜け出すと、そそくさと玄関へと向かった。
それから外履きを持って、二年の靴箱を覗いたかと思うと、裸足のまま玄関とは反対の体育館裏の昇降口へと向かう。
ペタペタと間抜けな足音を立てながら長い廊下を渡り終え、小さな体育館裏の昇降口に辿り着いた。
「ここに来んの、いつぶりだっけ…。」
呟いて、一つ深呼吸をする。
新鮮な空気を一杯に詰め込んだ隆平は、肺を満たす冷たい匂いに、なぜだか少し泣きそうになった。
しかしゆっくりと息を吐くと、静かな昇降口から外履きを突っかけて、体育館裏へ一目散に走った。
数時間前。
「…それだけか?」
康高の言葉に、隆平はうん、と頷いた。
その瞳がゆらゆらと覚束なく泳いでいるのを見た康高は、隆平に気が付かれないように小さく息を吐いて「成程。」と呟いただけだった。
「お前がそれで納得しているなら、それで構わないと思うが。」
これ以上の面倒に巻き込まれるのは御免だ、と康高はパソコンに視線をうつした。
「聖和代」、「九条の一件」と続いて、隆平の「学園祭」の話題に焦点が移り、隆平はどうしたものかと頭を捻った。
実際、康高の知恵を借りたいと思っていたのが、九条の一件がそこまで大事になっているとは思わなかった。
当初は、和仁に捕まってから一時間半ほどかけて「世界のSM百選」について、知りたくもない知識を植え込まれ、それがいかに恐ろしかったかを愚痴る予定だった。
「暇があれば学園祭の企画展で展示物として提出したいなあって!もしそうなったら二人にモデルをお願いしちゃうかもね!ね!」
と熱弁され、和田と同様に、顔色が土気色になった際、運良く二人を探していた教師に見付かり、事なきを得たのだ。
しかし、重要なのはそこではない。本題である「大事な話」は別だ。
ただ、「世界のSM百選」に一時間以上も時間を割かれたにも関わらず、当の本題は十分とかからなかったので、どうも影が薄い。
康高に心配をかけてしまうので、九条の事件の際、自分がそこへ居合わせていた事は話さない事にした隆平は、和仁から言われた「大事な話」の内容を簡潔に告げた。
その結果の康高の反応がこれだ。
モヤモヤとしながら隆平が両手の指先をグルグル回していると、「しかし、」と康高が呟いた。
「大江の意見が珍しくまともで、不気味だ。」
「オレもそう思う。」
黙って話を聞いていた三浦が、椅子の背もたれに顎を乗せながら口をへの字にして、康高に同意してみせた。双方、目が据わっている。
同じ虎組からそう言われるようでは、信用も何もあったものではない。
しかし、それもそのはずだ。
「だって、大江センパイの口から千葉隆平にむかってさ、学園祭は巻き込まれないよーに、だなんて、すっげえアヤシイ。」
そうなのだ。
九条の一件後、和仁と和田に拉致され、隆平が聞かされた「大事なお話」とはこれだった。
和仁の言葉を引用すると、こうだ。
『いいかい、千葉くん。よ~く聞いてね~~。これから学園祭に向かって、オレ達の周りは少し賑やかになると思うんだよねぇ。オレや和田チャンみたいな幹部の周りは特に。だから万が一、知らない奴に虎組と千葉くんの関係を聞かれても、知らぬ存ぜぬを決め込んで欲しいのね。
たぶんそれがオレ達の為にも、千葉くんの為にもなると思うから。オレ達も学園祭までは、あんまり千葉くんに接触しないようには気を付けるつもり。もし余計な事に巻き込まれて、これ以上ケガが増えちゃうのも可哀想だし。ね?』
そこまで聞いて、康高が物凄く怪訝な顔をした。
『それから、校内に他の学校のスパイが居るかもだから、虎組と接触を持つときは気を付けてね~。』
そこで、三浦が真っ青な顔をして勢いよく立ちあがり、辺りをキョロキョロと見回した。
「…お前、虎組幹部じゃないただの下っ端なんだから、そこまでマークはされてないだろ…。」
「あ、そっか。」
康高のツッコミに三浦がハッとして、また大人しく椅子に座った。
で、と続きを促した康高に「これだけ。」と隆平はつぶやいた。
「そういうことなんだけど。…どう思う?」
二人の表情を窺うように首を傾げた隆平に対して、康高は逆に、と口を開いた。
「お前はどう思う。」
「…いや、妥当、だとは思うけど…。」
以前康高から聞いた北工の学園祭の状況を考えれば、余所者は首を突っ込まない方が賢明、というのは、いかにも筋が通っている。
そして隆平の顔を見た康高が「それだけか?」と問いかけてきて、冒頭へ戻る。
康高もそうだが、三浦も微妙な顔付きで何やら思案しているようだったが、隆平はあえて聞かないことにした。
そうこうしているうちに、チャイムが鳴ったのだ。
「…。」
昇降口の、少し埃っぽい空気の匂いを嗅ぎながら、隆平は走る。
本当を言うと、「それだけ」ではなかった。
和仁の言葉には、続きがあったのだが、隆平はあえて言わなかった。
『でもね。』
沢山の粗大ごみと、ガラクタがひしめく場所で、隆平は足を止めた。
『でも強制じゃねえよ?忠告って言ったら良いのかなぁ。もちろん、自分の身が危険にさらされて、やむを得なく虎組の情報を売んなきゃなんない時とかもあるかもしれないしねぇ。それに、巻き込まれてでも譲れないものがある時は…。』
そして日当たりのよい一角に置かれた大きな古びた教卓の影から、投げ出された長い足を見つけた隆平は、もう一つ大きな深呼吸をした。
『その時は、千葉くんの考えを尊重して、君の判断に委ねるよ。』