杞憂の日
授業終了のチャイムが鳴ったのはそれからすぐだ。
職員室のざわめきは落ち着く気配がない。
連絡を受けた保健医があわただしく生徒指導室に入ってゆき、すぐに数人の男性教諭の手により生徒指導室から寺田が外に運び出された。
彼は意識こそ戻ったようだが、九条から受けた怪我と精神的ショックで立てないらしい。
「まずいな、生徒が集まりはじめた。…どれ…」
同じく九条の手により負傷した「のり」が、腫れた頬に氷嚢を当てながら顔をしかめる。
「のり!!その顔で出るのは逆効果だって!」
廊下の生徒を教室に戻そうと立ち上がった「のり」の背広を隆平が引っ張ると、彼はハッと気が付いて慌てて机の影にしゃがみこんだ。
隆平の言うとおりだ。
「なんでもないから教室に戻りなさい。」という教師の頬が二倍にふくれあがっている様はあまりにも説得力がない。
「あーうっかりしていた。千葉、お前もむやみに外に出るんじゃないぞ。次の授業も遅刻して…ってお前、今私のことをなんか変な名前で…。」
「なんでもないです先生。」
「ほんとか?」
「うん。」
いや、確かになんか違う名前で…、ほんとに?と呟く「のり」だったが、隆平の表情を見て、彼は口をつぐんだ。
彼と同じように机の影に隠れた隆平の顔はぶすっと膨れており、怒っているようで、だが、どこか思い詰めているような顔だった。
「のり」はその様子を見ると、どこか気まずげにソワソワとしていたが、やがて卓上のペンと紙を手さぐりで引き寄せながら、独り言のように小さく呟いた。
「…お前ら、一体どういう関係なんだ。」
「…」
「前から思ってたが、友達という感じではないし…。」
「…」
「なんと言ったら良いか…いじめ?とも違うような…。」
さきほど書いた遅刻届の時間に二重線を引き、訂正印を押した「のり」の横で、コンパクトに身体を畳んで座っていた隆平は、しばらく黙り込んでいたが、やがて小さく口を開いた。
「先生は…。」
「ん?」
「先生は、おれ達がどう見える?」
「どうって…。」
思いがけず真面目に問われたが、まるで接点の無い二人が一体どんな関係か、「のり」には全く想像もつかない。
「…それが分からんから聞いてるんだ。」
「…そうだよな。」
「…。」
「分かんないよな。」
呟いた隆平の声に、「のり」は少し戸惑ったように頭をかいた。
しかし当の本人はそんな「のり」を気にするでもなく、小さな溜息を吐きながら抱えていた荷物に頭を乗せながら不貞腐れたような顔をした。
「…おれにも分かんねぇや。」
そんな隆平に「のり」が声をかけようとすると、廊下の外が急に騒がしくなった。
「のり」と隆平が顔を見合わせて勢いよく立ちあがると、そこには先程とおなじく緊張した面持ちの教師陣が職員室の扉の前で左右に割れ、花道を作っているところだった。
廊下からは騒々しいバタバタという足音と、遠ざかる悲鳴に、生徒が一斉に逃げ出した様子が分かる。
「げ…」
その原因が今まさに職員室へ入ってくるのを見止めた「のり」が恐怖のため一歩後ずさりをした。
九条に負けず劣らずの強面が職員室の空気を凍らせる。
これ以上の危害を生徒に加えられない、と「のり」が隆平を逃がすため、慌てて彼の肩を掴もうとしたときだった。
「和田せんぱいっ。」
すっとんきょうな声をあげて、その強面の名前を呼んだ隆平に、誰もがギョっとした顔をした。
そして、当の九条に負けず劣らずの強面も、隆平を見つけると、まるですっとんきょうな間の抜けた声で「なにやってんだよ、千葉。」と当たり前のように返した。
その声色に隆平が安心したように「眼鏡かけてるから違う人かと思いました。」と言いながら、遠慮がちに近づくと、和田が優しく笑う。
「授業中はな。席が一番後ろで黒板が見えねぇのなんの…っておめーはなにやってんだよ。荷物持ったまんまで。」
「その…遅刻して…。」
「あー、病院か?傷はどうだ?」
「大丈夫です!」
「どれ、見せてみ…って…オイ。」
隆平の額の包帯に血が滲んでいるのに気が付いた和田はとたんにその目付きを訝しげなものに変えた。
「…なんで病院行って傷が開いてんだよ。」
「あー…えー…。」
口をもごもごとさせた隆平に、和田は首を傾げながら職員室を見渡す。
荒れた机や床に散らばる書類。恐怖に怯えた教師陣、開かれたままの生徒指導室、そして一年学年主任である「のり」の腫れた顔を見て、状況を察した和田は頭を掻きながら溜息をついた。
「…なるほど…。」
和田は、はぁ、と大きな溜息を吐いた。
「九条だろ。」