屋上事変
「傷付くなぁ。」
閉じられたドアを眺めて和仁は溜め息をつく。呟いた言葉とは裏腹に、ニヤけた表情の和仁は、康高の端整な顔を思い出した。
「そうだね。やっぱりオレ、苦手だわ。」
似た者同士なんだね、オレ達、と和仁は自分も帰ろうとドアに近づいた。
思いがけず楽しみが一つ増えてしまったことに気持ちが逸るようだ。
(九条、千葉君、オレ。そして、比企康高。まぁ、暇つぶしに必要な最低限の役者が揃った…、かな。)
そう考えて、誰もいない屋上を眺めてから、和仁はゆっくりとドアを閉めた。
五時間後。
所変わって、こちらは閑静な私立病院。
そこに、恐ろしい断末魔が響いた。
「いってぇえええ!!!!」
「我慢しなさい!男でしょうが!」
バシーっと母親に頭を殴られて、隆平は更に悲鳴をあげながら防衛体制を取ると、ベッドの上を逃げるように這いずりまわる。
「いいぞ母さん!もっとやっちゃえ!」
隣で隆平の父親が母に声援を送る。その父親をギロっと睨みながら隆平は涙目で訴えた。
「何がもっとだ!虐待だ!とめろ!」
「お父さんになんて口きくのこの不良息子!」
「すいやせん!」
学校で倒れてから、隆平が次に目を覚ましたのは、見覚えのない白い天井だった。
隆平はぼんやりとその純白の天井を眺めてから、おぼろげな意識でポツリと呟いた。
「…天国?」
「そんなわけありますか。」
パチーンと小気味のよい音がして、隆平の頭に痛みが走る。声も出せずに悶絶すると、そこには見慣れた母親の姿。
天国には綺麗なお姉さんが相場である。
確かに天国ではなさそうだ。
「アンタ今失礼な事考えたわね。」
「すいやせん!」
反射的に謝り、隆平は部屋を見回した。
そこには隆平の両親。そして双子の妹、紗希の姿があった。
「なんで病院?」
隆平が聞くと、母親ははあ?と眉を吊り上げた。
「こ、れ、よっ!」
怒った母親が遠慮なく隆平の鼻を突いて、冒頭の断末魔に至る。
あまりの痛さに隆平は悶絶しながら、鼻に施された治療にそっと触れた。
折れている。
「やっぱ夢じゃなかったんだ…。」
「学校からお父さんのケータイに電話が来たの。隆ちゃんが鼻を折られて病院に搬送されましたって。それを聞いて皆慌てて駆けつけたんだよ。」
「我が息子ながらダセーわ。」
紗希が丁寧に説明してくれる横で、最後にしれっと付け加えた父親に、隆平は怒鳴る気にもなれない。
しかしその顔はいつもより元気がないようで隆平は少々申し訳ない気持ちになって俯いてしまう。
何だかんだ言って駈け付けてくれた家族だ。
余程心配をかけたに違いない。
己の軽率さを恥じた隆平は、勢いよく家族に頭を下げた。
「ごめんなさい!迷惑かけました!」
「お前な、母さんも紗希も泣いて心配したんだぞ。心から反省しろ。」
「はい。」
「あと鼻血で貧血で搬送ってお前。なんか笑っちゃうだろ。どうすんだよ、この感情。」
ぐふ、と声を噛み殺して吹き出した父親に言葉に隆平はぐうの音も出ない。
もちろん父親も心配してくれたのだろうが、面白さの方が先立ってしまったようだ。
そんな兄を見かねたのか、紗希が優しく笑いかけてくる。
「でも隆ちゃんが無事で良かった。助けてくれた人に感謝だね。」
ニコ、と笑う妹の顔を見て「お前だけだあ、おれの味方は」と隆平がクゥーーと男泣きをしたのと同時に、ハッとして顔をあげる。
「助けてくれた人?」
「そうだよ、廊下で倒れてた隆ちゃんを保健室まで運んで、保健の先生に連絡してくれた人がいたんだって。誰かは分からないけど…」
それを聞いた隆平は、倒れる瞬間に感じた温もりを思い出した。
通りすがりの誰かだろうか…あんな地獄のような学校にも良心のある素晴らしい生徒がいる…世の中捨てたもんじゃないな、と隆平は感激した。
「それに比べて康高めぇえ…結局助けにも来なかったなぁあ…」
隆平が一人ぷんすかと怒っていると、紗希が不安げな顔で覗き込んできた。
「ねぇイジメられたの?それが心配だよ…」
妹の一言に、さきほどまでニヤニヤとしていた両親の顔もどこか真剣になる。
その心配そうな顔に、隆平は優しく微笑んだ。
「ちげーよ。ただの喧嘩。」
安心させる様に隆平は妹の頭を撫でると、紗希は少しだけ笑って見せた。その横で母親が深いため息をつく。
「どちらにせよ相手の親御さんとも話さないといけないし。近々先生との面談もあるから。あんたも何か言いたいことがあったら教えてちょうだい。」
「え、いいよそんな大ごとにしなくても。ただのガキ同士の喧嘩だよ。相手はおれのパンチなんか屁でもないと思うし。」
「あんたは良くても大人はそうはいかないもんなのよ。」
「…ごめん。」
大人の事情は隆平にはよく分からないが、心配をかけた上に迷惑もかけてしまったことにようやく気が付いた隆平はバツが悪そうに再度謝罪を口にした。
「いいのよ。それよりあんた、その喧嘩相手とは仲直りできそうなの?」
「…。」
黙り込んでしまった隆平に、両親は顔を見合わせて困ったようにため息を吐く。子供ながら事情は色々と複雑そうだ、と悟って、それ以上の言及は避けた。
「ところで、先生からは目が覚めたら帰って良いって言われているけど、明日も学校に行くつもり?」
「別に休んでもいいのよ」と続けた母親に、隆平は少し考えてから首を横にふった。
「喧嘩したやつに言いたい事があるから。」
隆平は未だに痛みに引くことのない鼻を撫でながら、九条の顔を思い出した。
(待ってろよ、あの野郎。)
こうなったら意地でもその喉元に喰らい付いて一泡吹かせてやる、と隆平は密かな決意を胸にしっかりと前を見据えた。
弱者には弱者の矜持がある。
(おれを馬鹿にしたこと、ぜってーに後悔させてやる。)
つづく