杞憂の日


割れた窓ガラスをおおっている青いビニールシートがなんとも退廃的な長い廊下。
北工を象徴するには雄弁すぎる廊下だ。


そんな場所にまったく不釣り合いな浮かれ調子の鼻歌が響く。

るんるんとスキップしながら職員室に向かうのは、頭に包帯を巻いた千葉隆平。
遅刻届をもらいにいく最中なのだが、その足取りはなんとも軽やかだ。

「(受け取ってくれたぜぇえええ!!)」

手元のチケットを見て顔をほころばせながら、隆平はうきうきとした気分で職員室へ向かっている。
彼は心底浮かれていた。

「(思えば長い1週間だった…。)」

もちろん「たった一週間」といえばそれまでなのだが、短い期間に隆平はずいぶんと色々なことを考え、行動し、それによって様々な傷を負い、苦しんだ。
それでも傷の代価で得たものは大きかった。
思い浮かべるのは人好きする無邪気な笑顔。

「(三浦君、笑ってた。)」

たかだか一週間のあいだに、それまで面識のなかった人間とどれほどの交友関係が築けるかと問われたら、それはひどく薄っぺらく表面上だけのものがほとんどだろう。
実際、隆平自身も三浦とそれほど深い付き合いをし、理解し合えたとは思っていないし、当然、三浦もそうなのだろうと思っている。
それまで自分をよく思っていなかった相手なら尚更だ。

しかし確実に前進している。
こうして自主的に誰かと二人きりで出掛けたいと思うのは康高や紗希以外には珍しい、と隆平は自分でも少し驚いている。
あまり自覚はないが、隆平の中で三浦の存在が大きくなっていることは確かだった。

「(まだ心配がないっていえば嘘になるけど…スタート地点には立てたよな。)」

うん、と頷いて隆平はチケットを大事に鞄の中へしまい込んだ。

もちろん収穫は味方ばかりではない。
自分を敵対する連中の境がはっきり見えたし、自分を敵対する中にも内容に違いがあることを知った。

「(…不思議だよな。)」

ある人間からは煙たがられ、嫌悪され、ゴミのように扱われる。
その一方で、ある人間からは信頼され、好かれ、宝石のように守られている。

いったい何が違ったのだろう。
「罰ゲーム」は至ってシンプルなはずだった。
それが立ち位置や観点が違うだけで様々な感情が生まれ、「罰ゲーム」をとりまく状況がどんどん複雑化してゆき、まるで難解なパズルのようになってしまった。

「(でも、一番難解なのは多分…。)」

思い浮かべた「恋人」の姿に、隆平の顔から笑みが引く。

「やめよう。テンション下がる。おれの『顔すら思い浮かべたくない嫌な奴ランキング』堂々の第一位。不動の一位。殿堂入り。」

ため息をついて隆平がふと顔をあげると、そこはもう職員室の目の前だった。
いつのまにか下を向いて考え込んでいたようで、随分と進み過ぎたらしく、もう数歩で隣の生徒指導室に差しかかるところだった。
隆平が慌てて踵を返そうとするとその瞬間。

ガンっ!!と凄まじい音が生徒指導室から聞こえた。

「ぎゃっ」

反射的に隆平がそこから飛び退くと、今度は怒鳴り声が複数聞こえ、同時に、生徒指導室のドアが激しい音とともに揺れた。

どうやら、かなりはげしい指導が中で行われているらしいが、不良の多い北工ではよくあることだ。

隆平は巻き込まれないように、こそこそと壁伝いでその場を離れると、生徒指導室から一番離れた職員室の端っこにあるドアを開けた。

「失礼しま~す…。」

カラカラと控え目に扉を開けたが、隆平の挨拶に言葉を返すものは誰もいない。
いくら授業中だからといっても誰か居るだろうと踏んでいたのだが、これはどういうことだろう。
所狭しと並ぶ教員用のデスクがことごとく空っぽなのだ。
隆平がおかしいな、ときょろきょろと辺りを見回すと、さきほど退避してきた生徒指導室側の方に教職員が集まっているのが目に入った。
職員室は扉を一つ隔てて内部から直接生徒指導室へ行ける構造になっている。
どうやらそこに人だかりができるらしい。

「…なんだ?」

隆平が怪訝な顔をしながらそちらへ近づき、一番後ろにいた男に「先生」と呼びかけると、特徴的な丸眼鏡をかけた中年の教師が、強張った顔をしたまま振り返った。

「な、なんだ千葉か。びっくりさせるんじゃない。」

教師は、神経質そうにそわそわとしながら、ずれた眼鏡をあげた。
丸眼鏡をかけた幸薄そうな容貌が桃屋の「ごはんですよ」の三木のり平に酷似している。
そんな理由から、生徒からは密かに「のり」というあだ名で呼ばれていた。

「何してんの、みんなして。」

「なんでもない。…というか、なんだお前また怪我か!最近鼻が治ったばっかりだったろ!!何やってんだお前!!」

「いやその、これは…まあ、そういうわけで病院に行ってまして…。」

「遅刻届か。…ちょっと待ってなさい。そっちに座ってろ。」

隆平が首を傾げると「のり」はまずそうな顔をして、隆平を人垣から離すように追いたてると、てきとうな所へ座るように命じた。それから小走りで自分のデスクから小さな用紙を持ってくると隆平の前に置く。
やけに焦っている教師の姿に、隆平は生徒指導室でよっぽどのことが起こっているのだと察知して、声を潜めながらこそこそと「のり」に訊ねる。

「…そんなにやばい奴?」

「いいからはやく書いて教室に行きなさい。教頭先生のハンコは後で貰え。」

チラチラと人垣の方を気にしながら「のり」はまだ隆平の名前すら書いていない遅刻届の『学年主任』の欄に自分のハンコを押した。これはマジだ、と察した隆平は慌てて必要項目に名前を書き入れた。

その瞬間だった。
一際大きく「ドンっ!!」という音がして、職員室がシン、と水を打ったように静かになり、眼鏡のレンズと同じくらい目を見開いた「のり」は顔を青くさせた。
隆平もペンを握りしめたまま人垣の方を凝視していると、静まり返った職員室の奥からキィ、とドアの開く音が。

瞬間、「きゃあ!」という女性教師の声を合図に、人垣が扉の前から引きはじめる。
それにハッとした「のり」が血の気の引いた顔で、隆平の腕を掴んだ。

「千葉、はやく教室に…!!」

無理矢理立たせられ、隆平はペンと紙を握ったまま唖然とした。
人垣の引いた扉から出てきた姿に、隆平のテンションはだだ下がり。


そこに居たのは隆平の「顔すら思い浮かべたくない嫌な奴ランキング」の堂々一位に輝いた、北工最強最悪の不良…


もとい、隆平の「恋人」が立っていたのである。
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