杞憂の日
週の始まりとは総じて憂鬱なものだ。
仕事、勉強、人間関係。
プライベートから社会に戻るときの気重な感覚は、夢から現実に引き戻される瞬間とよく似ている。
だが、そんな月曜日の鬱々とした気分をさらに増長させる事態に直面した比企康高は、もはや憂鬱を通り越して「その原因」に殺意さえ覚えていた。
「それじゃあ次の問題を…問い①は比企、問い②は…えー…大江。」
プルプルとした手で黒板に問題を書き終えた数学教師はゆっくりと振り返り教室を見渡して、これまたプルプルと定まらない指で後ろの席を指さした。
「えぇええ!!!タマちゃん、オレが数学苦手なの知ってるでしょおお!!」
ガタン、と席を立って不満げに抗議したのは大江和仁。ちなみにタマちゃんと呼ばれた数学教師は「
「おまえ…一年前にやっとるから分かるだろ。」
「いえ、ボク、お腹が痛くてこの授業休んでると思います。」
「じゃあ、前に出て解いてね。五分したら答え合わせするから。」
「あ~ん!!タマちゃんのいじわるぅうううう!!!!」
問答無用で回答者に抜擢された康高と和仁は二人仲良く黒板並んで数式で埋めてゆく羽目となった。
「…ねぇ、やっくん、これどこに代入すんの?」
こそこそと隣で聞いてくる一年上の先輩に、康高は完全な無視を決め込んでいた。
しかし「ねーねーねーヒントちょーだい。」としつこく問われ、最後の答えを黒板に書いた瞬間、パキン、と康高のチョークが真っ二つに折れてしまったのは実に仕方の無いことだった。
「やっぱ数学は外すべきだった。」
「ぜんっぜん分かんなかった…。」と項垂れる和仁を目の前にして、康高の眉間の皺はもはや三本になろうかという所だったが、生憎外からでは前髪に隠れて見えない。
2年である大江和仁が1年3組の授業に紛れ込むようになってからしばらく。
先週は色々と事件が重なり、あまり顔を出すことはなく平和な日々が続いていたが、災難は忘れた頃にやってくるのがセオリーだ。
罰ゲーム開始から3週目の月曜日、大江和仁は始業のチャイムと同時に当たり前のように1年3組の教室のドアを開け、当たり前のように康高の隣…つまりは隆平の席に座った。
康高の苦虫を噛み潰したような顔を全く気にせず、我がもの顔で机の中から数学の教科書を引っぱり出した和仁は、それはもう非の打ちどころがないほど無邪気な顔で、にっこりと笑ったのであった。
「まずい状況になっちゃった。」
こん、と和仁がラクガキだらけのノートを鉛筆で打つ。
康高は聞いているのかいないのか、黙って片肘をつきながら黙々とノートを取っている。
「九条が千葉くんをサポートする存在に気が付いた。」
「…。」
「小山を金縛りにしたらしいじゃん。一体どんな魔法をかけたのかなぁ~。」
周囲には聞こえないように小さな声で囁く和仁に、康高は正面を見たまま小さな溜息をついた。
「九条にバレた…?どうせ密告したんでしょう、先輩が。」
「まさか!」
きょとんとした顔で和仁が心持ち大きな声を出した。
しかし周囲の生徒はビクリと肩を揺らしこそするが、誰も振り返る者はいない。
和仁が現れてから、康高の底知れない機嫌の悪さが生徒達に「見ざる、聞かざる、言わざる」を自然と強要させている。
もちろん和仁は康高の機嫌などはどこ吹く風で、あいかわらずマイペースかつ自由奔放に独自の理論を展開することに忙しく、その空気の読めなさが一層周囲の温度を下げていた。
「オレはいつだって自分の欲望には正直に生きることにしてるんだよ⁉ゲームを楽しむための材料を自らダメにするなんて、そんな勿体ないことするわけないじゃん!事態が面白い方向にむかうなら命を懸けたっていいね、オレは。」
康高はチラ、と和仁の顔を見て少し思案をしたようだったが、やがて納得して「確かに」と呟いた。
いかにも和仁らしい理由だ。
「問題は、九条から直々に排除命令が出たってことだよ。九条は『そいつ』を消したがってるんだ。」
「理由は?」
「うーん…邪魔だからだろうねぇ~。」
ストレートな和仁の言葉に康高は視線を戻すと指先で顎を撫でた。
教室では、タマちゃんこと土肥先生が、さきほどの問題の解説をしながら康高の導いた答えに大きなマルを付けているところだ。
「(もっともだな。だが矛盾している。)」
九条の言い分はよくわかる。
自分の思い通りに事が運ばないのが気に食わないのだとすれば、当然その原因を排除するが定石。
隆平とのゲームに姿の見えない部外者の干渉が許せないのだろう。
しかしそれは言いかえれば…
「まるでガキの我儘だな。」
「…否定はしねぇよ。」
こん、と鉛筆で机を叩いた和仁は呆れたように頷いた。
隆平側の干渉は認めないくせに、自分では手駒を自由に使う。これが子供の我儘でなく、なんというのだろう。
隆平を不利にするために和田と自分を屋上から追い出したのが良い例だ、と和仁は思う。
九条本人が罰ゲームの恋人をどういう扱いにしたいのか。
それは和仁も、勿論康高もおおよそ見当もつかないが、何らかの形で九条が千葉隆平という人物に傾倒していっているのは確かだ。
それが良い方向なのか悪い方向なのかは分からないが。
コンコンと鉛筆で机を叩き続ける和仁に、康高は「それで。」と問う。
「うん?」
「先輩はここに何をしに来たんです。」
「何って。」
「先輩はここに来てから情報提供と数学の問題を一問解いただけ。…九条先輩の大事な命令を忘れたようには見えませんけど。」
黒板を向いたままの康高の発言に、和仁は彼の顔を覗き込みながら囁くように呟いた。
「…誘ってるの?やっくん…。」
「不気味な表現をしないでください。」
康高が本当に嫌そうな顔をして反吐をはく様に言葉を返すと、和仁は唇を尖らせて「あいかわらずお堅いのね~。」と言いながら姿勢を戻した。
「…まぁ詰まるところ、オレが今ここでやっくんをビョーイン送りにすれば話しは早いわよね、ってことでしょ。」
「そうです。」
「何を勿体ぶっているんですか」と康高が問う。
至って冷静な態度に和仁は思わず笑ってしまう。
「やっくんって、意外とMなの?」
「…念のために言っておきますけど、殴られて悦ぶような趣味はない。」
「いやぁねぇ。言ったでしょ?そんな勿体ないことはしないって。」
和議の申し入れさ、と和仁はにんまりと笑った。
「どうだろう、ここはひとつお互いのメリットのために協力するっていうのは。」
和仁の言葉に、康高はやはり表情を変えず、正面を向いたまま黒板を眺めていた。
土肥はチョークを持った手をぷるぷるとさせながら、和仁の解いた問題の解説をしている。
全然分からなかった、と和仁が零していた問題はスムーズに展開されているようだ。
「(…タヌキめ。)」
康高が小さく舌打ちを零したのと、土肥が和仁の導きだした答えに丸を付けたのはほとんど同時だった。
ねぇ、やっくん、という言葉を無視しながら、康高は赤ペンを握る。
「オレと手を組まない?」
和仁の言葉に返事をせず、康高は自分のノートの問い②にペケをつけた。