杞憂の日
「さーきっ」
後ろから声をかけられ、登校途中だった千葉紗希が反射的に振り返る。
すると後方から勢いよく走ってくるジャージ姿の少女が目に飛び込んできて、「あ」と声を上げる間もなく、紗希は捕まった。
「わっ」
少女の突撃を受け止めきれなかった紗希が重力にさからえず、そのまま横転すると、一緒に地面に転がりながら少女がケラケラと楽しそうに笑って見せた。
「おはよう!紗希!」
その全く悪びれることのない清々しい笑顔を見て、地面に転がりながらキョトンとしていた紗希は怒るのも忘れて、思わず一緒に笑ってしまった。
「(ねむい…。)」
ふあ、と無意識に出たあくびに紗希はハッとして、慌てて開いた口を手で押さえた。
隣を歩いていたジャージ姿にスカートという出で立ちの少女が、紗希よりもずっと高い背を屈めて顔を覗き込みながらニヤニヤとしていたからだ。
10月3週目。
聖和代学院高等学校は文化祭を週末に控え、急ピッチで準備を進めている。
卒業を控えた3年生を筆頭に、全校がまさに一丸となって迎えた追い込みのラスト1週間。
生徒は1時間も早く登校し、文化祭の準備をするのが暗黙の了解となっていた。
…正確には、3年のお姉さま方から義務づけられているといった方が正しいのだが…。
そんなわけで朝には強いはずの紗希も連日の早起きが祟り、最後の週の月曜日には大きなあくびが目立つようになっていた。
「もう、見ないでよ…」
「いいじゃん、サキはどんなに大口開けてたってかわいいよ。」
「そうやってすぐからかう!」
「からかってないよ。久しぶりに見てほんとにそう思ってんだって。」
「だって
ぷう、と頬を膨らませる紗希を見て「滋」と呼ばれたジャージの少女はショートカットの黒髪を揺らして「うひゃひゃタコだタコ!」と楽しそうに笑った。
少女は名を
紗希と同じ中学からスポーツ推薦で聖和代に上がって来た1人だ。
中学時代、紗季と滋は互いに面識はあったが特別に仲が良いわけではなかった。しかし同中ということで話す機会が多くなり、今では軽口を叩くほど親しくなった。
「でも…久しぶりっていうのはそうだよね。滋はずっと大会だったから…。あ!優勝おめでとうございます!学校新聞でみたよ!」
「やー、どーもどーも。」
「すごいね!私も行きたかったなぁ。みんな強かった?」
「うん。すごい奴が居たよ。男子だから戦えなかったのが残念だったな…。無愛想な奴だったけど。」
「そっかぁ。今度は近くで大会があるといいね。」
「残念。次は九州。」
「えー」
がっかりとした紗希の横で滋はまたニヤニヤと笑った。
「来りゃいいじゃん。荷物で一緒に持ってってやるよ。紗希ぐらいちっちゃかったら余裕だね。」
「もうっ!」
「ほら、ここに入んな。」
滋が肩から下げていた大きなボストンバックを叩きながら笑うと、紗希はこれ以上なく頬を膨らませた。
それを見た滋がヒィヒィ言いながら「フグだフグ」と笑い転げ、通学中の生徒の注目を浴びたのは仕方のないことだった。
「そういやさ、紗季はもう文化祭の入場チケット誰に渡すかきめた?」
外履きを脱ぎながら訊ねてきた滋に、紗希は「うん」と、下駄箱を開けて頷いた。
「決めたよ。お母さんと祐美子ちゃんとマキちゃんと…あ、中学の時の友達でね…滋は同じクラスになったことなかったよね?」
「知ってるよ。紗希と同じ吹奏楽部だったっけ?」
滋の答えに紗希は嬉しそうに頷きながら「そうそう!」と笑った。
「それから?あとの2枚は?」
「隆ちゃんとやっちゃんにあげようと思ったんだけど…。」
「おお、三中名物の凸凹コンビか。懐かしいな。」
滋が楽しそうに下駄箱を開けると、中から数枚のラブレターがヒラヒラと落ちる。
それを無言で拾ってそっと鞄に入れた滋を見た紗希が「モテモテだね」と呟くと、滋はげっそりとした顔で「いいから」と答えた。
「で、あげようと思ったんだけど、ってことは?」
「それがね、やっちゃんが忙しくて来れないみたいで…。」
残念そうにシュン、となる紗希を横目にふーん、と滋は生返事をする。
中学時代、優秀な比企康高と鼻たれ小僧の千葉隆平のコンビは有名だった。康高が来れないとなると隆平が1人で来ることになるのだろうが、彼が1人で女子の花園へ訪問できる度胸があるような男には到底見えない。
「…1人じゃ来ないだろうなぁ…紗希の兄ちゃん…。」
「うん。でも隆ちゃんには絶対来てほしいから、他の友達を誘ってもいいよって言ったの。」
「ほー。」
内履きを履いて、紗希と並んで廊下に出た滋は歩きながら「ん?」と首を傾げて足を止めた。
「そういや、ヤッさんと千葉兄、北工じゃなかったっけ?」
「そうだよ。」
「…。」
滋の言葉に紗希は滋を見上げながら不思議そうにきょとんとした顔をして首を傾げた。
北工といえば不良の巣窟。
右を見ても不良、左をみても不良。古今東西数百種に及ぶ自然の不良がそのまま野放しで飼われている不良サファリパーク、ないし不良博物館、不良の生産地と言っても過言ではない。
そんなところに入学した隆平に果たしてまともな友人がいるのだろうか。
「(ヤバい奴連れてこなきゃいいけど…。)」
が、滋は十秒で考えるのをやめた。
いくら考えても、あの取り立てて目立つところのない地味な少年が不良どもと仲良くしている姿が想像できなかったのだ。
滋ははぁ、と小さな溜息をついて1人廊下を歩きだした。
「杞憂にもほどがあるわ。」
「え?何?」
後ろからちょこちょこと駆けてきて隣にならんだ紗希の頭を撫でながら、滋は「べつに」と呟いた。
「空が崩れ落ちることを心配するなんてバカらしいなぁ~って言ったのさ。」
眉を潜める紗希をよそに、滋は中庭を眺めながら「いい天気だな」とのんきに零したのだった。