暗中飛躍(後編)
隆平が目を覚ましたのは、それから30分後。
ぼんやりとした視界で、一番に目に飛び込んできたのはいつも通りの冴えない顔をした親父の顔。
「起きたか。」
ベッドの横の丸椅子に座って隆平の様子を覗きこむような仕草をした勇治に、当の息子は途端に顔をしかめて見せた。
「明らかにがっかりした顔してんじゃねぇよ。」
がっかりするだろう。寝起きで親父の顔が一番に見えれば。
心の中でそう呟いた隆平はゆっくりと辺りを見回した。
鼻を折った時と酷似した状況に、また病院に運ばれたのだと気が付く。オマケに腕から伸びた細い管が目に入り、以前よりも状況が悪化していることに「うわぁ…」と声が漏れた。
「まだ点滴中だから寝てろ。もうちょっとで終わる。」
「…うん。」
覚束ない頭で隆平が返事をすると、勇治は頷いて、手にしていた書類に目を落とした。
それから何やらカリカリとその紙に書き込みながら目を細めて「なんじゃこら」と一人ごちた。
「…親父。」
「んー?」
「怒ってる?」
「……んー。」
「親父。」
「…んー。」
「ごめん。」
隆平の謝罪に勇治のペンが止まる。
病室に持ち込んだ仕事に彼がどれほど忙しい身であるか、乱れたネクタイに職場からどれほど急いで駆け付けたか。無理を言って早退してきたか。
それが分からないほど隆平が子供ではない。
最近は本当に親に迷惑や心配をかけている。それが本人も痛いほどよくわかっているぶん、ひどく反省をしているようだ。
か細い声を耳にした勇治は書類から息子の顔に視線を移すと意地悪っぽくニヤ、と笑うとペンの先でコツン、と包帯が巻かれた隆平の額を叩いた。
「い゛っ!!」
痛さにギョッとして目を見開いた隆平に、勇治はゲラゲラと笑い転げながらベッドの端をバシバシと叩いた。
「あひゃひゃひゃ!!だせぇ~!!ダメだこりゃ!!これじゃあ勝てねぇわ!!」
「てめぇ~~~!!」
怒った隆平が、針の刺さった左腕を動かさないまま見事な蹴りを勇治の脳天に決めたのはその直後であった。
勇治は構わずゲラゲラと笑い続けていた。
勇治の問いかけに、康高が学ランのポケットから小さな紙を取り出したのは30分前。
それから康高は隆平の目覚めを待たずに、1人帰路へついた。
『隆平は腰ぬけなんかじゃない。』
紙きれを手渡した康高は、空になった空き缶をゴミ箱へ捨てると勇治に軽く会釈してからその場を去って行った。
それを見送った勇治は、カサカサと小さな紙切れをひらく。
そこには几帳面な文字で「で、屋上は?」と書かれていた。
勇治は首を傾げながら、その紙を天井の電灯に透かすと、何やら裏に文字が書いているのを見つけ、紙を裏返しにしてみた。
それから康高の言いたい事がようやく理解できて、勇治は思わず笑ってしまった。
「言っとくけどな隆平。今から家に付くまでトータルで30分くらいなんだけど。」
「それがどうしたクソ親父!!」
左腕を固定したまま、両足で親父の首を締め上げていた隆平が吼えると勇治がやれやれと溜息をついた。
「俺に謝る暇があるなら気の利いた言い訳のひとつでも考えなくちゃなぁ。知ってるか?家には俺よりも怒ってる奴が二人もいるんだぞ。」
「…っ!!」
ビクッと身体を震わせた隆平が、おそるおそる視線を勇治に向けると、彼はニタニタとして、隆平に首をホールドされたまま、床に散らばった書類を集め始めた。
「鼻を折って病院送りにされ、門限破って夜遊びをし、学校を無断でお休み…挙句、頭をかち割って再び病院送りって聞いたら、お母さんと紗希…どんな顔するかな。」
「あわ、あわわわわわ。」
みるみるうちに顔を青くした隆平を余所に、シャッ、と仕切りのカーテンが開いた。
「はい。点滴終了です。お疲れ様でした。」
看護師が至って事務的に隆平の腕から針を抜くのを見た勇治が「あちゃ~」とのんびりと声をあげた。
「会計に10分。家まで車で15分。25分しかねぇわ。」
「うわあああああん!!!おとうさぁあああん!!!」
ぎゃおぎゃおと勇治に縋りつく隆平は必死になって首を横に振った。
もはやこの二週間で認定されつつある隆平の素行の悪さに佳織もそろそろ限界のようだ。
仏の顔も三度まで。
それは、勇治も隆平もおそろしいほどよく分かってる。
そんな息子の様子を見ながら、勇治は書類を整理し終わって腰をあげると、「さあ!早く帰らないと!!」と笑顔で言い放った。
「そんじゃな、隆平。服着たら待合室まで来いよ。」
そう言いながら治療室から退出すると、後ろから「薄情者ぉおおおおお!!」という憐れな遠吠えが聞こえた。その言葉に「知ってるよ」と勇治は答えた。
「それでもお前、逃げないんだろ」
勇治は先ほど康高から受け取った小さな紙切れを眺めた。
そこには息子の見慣れた汚い字で、たった一言。
逃げない
と、明記されていた。
◆ ◆ ◆
ブー、ブー、というバイブレーダーの重低音が部屋にひびく。
数秒ほど振動を続けていたケータイ電話を手に取り点滅するランプを辿ると、新着メールの表示が画面に出た。
慣れた手つきで受信ボックスを開けると、そこには一言『聖和代高校文化祭。』の文字
男はそのメールに「オッケー」と返信をしてケータイをベッドに放った。
「いよいよだ。」
ニヤける口元を押さえながら男は静かに呟いた。
「ようやく会えるね。」
呟いた男の視線の先にはベッドの上の散らばった書類。
細かく区分けのされた名簿が数十枚散らばっている。それぞれに神代北工業高校、神代南商業高校。
そして聖和代学院高等学校の文字が見える。
その中に目立つように赤でマーカーされた名前が二つ。
一つは神代北工業高校の一年電子科、出席番号18番「千葉隆平」。
そしてもう一つは聖和代学院高等学校の一年普通科、出席番号16番。
「千葉紗希」
部屋に低い笑い声が響く。
また光りはじめたケータイの赤い点滅に、二人の名前が不気味に照らし出されたのを、男は眺めていた。
つづく。