暗中飛躍(後編)





「それで、どうしたいって言ってんの。うちの倅は。」

病院の廊下に備え付けてある長椅子に座った隆平の父親である勇治が呟いた。
辺りはすでに薄暗くなっていて、西日の入る廊下が鈍い光を放っている。
勇治の問いに、康高は学ランのポケットから一枚の切れ端を取り出して勇治に差し出した。






二週間前と同じ手はずで隆平を病院へ送った康高は、今度は始終その治療に付き添った。
隆平は頭を強打したため、一応精密検査を受けることになった為だ。
家族の代表で勇治が仕事を切り上げて病院に姿を見せたが、彼はひどくあっけらかんとした様子で、康高の姿を見つけると片手をあげて軽い口調で訪ねてきた。

「よ、今度はデコだって?こりないな~。」

「勇治さん…。」

「で、今回はどう?勝った?」

「…。」

「あ、なんだよ!あからさまに溜息つくな!!馬鹿にしやがって!」

「…違いますよ。」

はあ、と肩の力を抜いて、また小さく溜息をついた康高の顔をみた勇治は、彼の表情が幾分青ざめていることに気が付いて、小さく苦笑いをしてみせた。
いつもは大人びている彼が時折見せる年相応の表情に勇治は弱い。
その固い表情が勇治の登場により少し緩み、さきほどの溜息が安堵のために漏れたのだと知れた。

「…お前が気負うことじゃない。隆平のケンカだろ。うちにはお前を責める人間なんか居やしないよ。」

勇治の言葉に間をおいてから康高は小さく頷いた。
おそらく彼は自分のせいで隆平が怪我を負ったのだと考えているのだろう。
勇治に一発殴られる覚悟だったのかもしれない。それでも康高は固く握った拳を解こうとはせず、項垂れるように小さく頭を下げて、「すみません」と呟いた。

「千葉さーん、こちらです。」

女性の声が聞こえ、勇治が康高の巨体からひょこ、と顔を出して廊下の奥を見ると、診療室から看護師が呼びかけている。

「はいはい。」

勇治は腕にかけていた上着と鞄を持ち直すと、廊下に突っ立ったままの康高の脇に出た。
そして通り抜けざまに、自分よりも背の大きな康高の頭をガシガシと乱暴に撫でつけながら「心配すんな。」と零して廊下の奥の診察室に消えた。

康高は乱れた髪を直そうともせず、しばらくそのままの格好で廊下に立ちつくしていた。






「異常無し。倒れたのは貧血のせいみたいだ。」

ほれ、と不意に缶コーヒーを放られたが、康高は難なくそれを受け取った。

勇治は5分ほどで診察室から出てきた。
精密検査の結果、強打した隆平の頭には全く異常はなかったらしく、今は貧血療養の点滴を受けていて、あと小一時間はかかるという。
勇治はその間暇だろうと、康高を院内の売店に誘い、康高は大人しくその背中に続いた。

自動販売機が整然と並ぶ中、お年寄りや子供たちで混雑しているベンチで、通路を挟んで両端に空きのある一角を見つけた二人はそこに収まった。

勇治の隣にはパジャマ姿の老人が数人並んで座っていた。手をぷるぷるさせながら各々の紙パックにストローを差そうとしているところだったが、各々がてんで目標外れのところにストローの先をコツコツと当てている。

「先生が笑ってたよ。すんげえ石頭だってな。」

誰に似たんだか、とどこか嬉しそうな勇治の言葉に、康高は渡された缶コーヒーのフタを開けた。だが口は付けず、フタの中に淀む黒い液体を黙って眺めている。

「ありがとうな。」

「…はい?」

「お前、あいつのこと守ってやってんだろ。」

「…きちんと守ってるんなら、怪我なんか…。」

「ばか。そういうことじゃねぇよ。」

唇を尖らせた勇治に、康高は押し黙る。勇治はごくごくとコーラを飲んでいる。
ただし、最近佳織にうるさく言われているらしく、ゼロカロリーのものをチョイスしていて、ときどき「まずい」と文句を言っているのが聞こえた。

「で、どんな奴なの?」

不意に声をかけられて、康高が顔をあげると、勇治は「隆平の相手だよ」と続けた。

「強い?」

「…まあ。」

言葉を濁して曖昧に頷く康高に、勇治は「ふーん」と頷いた。

「だいぶ強い奴と見た。」

「…。」

「それで?勝てそうなのか?」

「…。」

「勝ち目はない、と。」

「勝手に話しを進めないで貰えますか。」

「なんだよ、違うのか。」

勇治の問いに康高はぐ、と言葉を詰まらせる。図星だ。
相手は北工一の伝説とまで謳われている不良で、一般庶民かつ非力な隆平がまともに対峙して勝てる相手ではない。が、当の勇治はのんきなものだ。

「すげえな。そんな奴と戦ってんの。うちの倅。」

隣から聞こえたのんびりとした口調に、康高は不謹慎だと言わんばかりに顔を向けた。

「本気で言ってるんですか。」

「何が?」

「ひどい怪我をしてる息子の親とは思えない台詞ですよ。」

康高の言葉に、勇治はキョトンとした顔をした。
その横に並んでいた老人たちも、紙パックにストローを差すのを止めて、何事かと勇治の肩越しから康高を眺めている。

「心配じゃないんですか。」

詰問するような口調に、勇治は隆平とそっくりな目で康高の顔をまじまじと見ると、「うーん」と言って空になった缶を両手で遊ばせながら「0」という文字を指で辿った。

「どっちかっていうと、俺はお前の方が心配なんだけど。」

「…。」

「お前は自ら貧乏くじを引くタイプだから。」

無理してんじゃないかなって、と続けた勇治に康高は黙ってうつむいた。
そんな少年を見た勇治は心の中でやっぱりな、と思いながらも口にはせずに、急に明るい声を出した。

「いや〜敵がいればこそだよな~男って。」

勇治の言葉に、彼の後から顔を覗かせていた老人たちが一斉に頷いた。

「俺がお前らぐらいの頃は、北工はもっとひどくてさ。喧嘩はたしなみ、みたいなもんだったよ。鼻だってクラスの男子の半分くらいは折ったことがあったし、喧嘩してデコから血が出てるのに気が付かないまま授業を受けてた奴もいて…。」

「…。」

「そらただの馬鹿だろ、とか思ってんのが顔に出てるぞ…そういう時代だったんだよ。荒れてたんだ。まぁでもさ、無差別に誰とでも喧嘩してたわけじゃない。俺らはみんな馬鹿だったけど、それぞれにルールがあった。」

「ルール?」

康高が前髪に隠れた目を細めると、勇治は前のベンチにコトンと音を立てて、空の缶を置いた。

「人にはそれぞれ許せないことってあるだろ?俺は当時『オカマ野郎』って言われるのが死ぬほど許せなかった。ま、それが女みてーになよなよしてる腰抜け野郎って意味で…だからその言葉を吐いた奴だけは絶対一発ぶん殴ってやることにしてた。」

「…。」

「腰ぬけってのはさ、そういう風に自分で絶対許せないことを言った相手に立ち向かえない奴のことだと俺は思うんだ。勝ち負けじゃない。」

勇治は懐かしそうに目を細めて笑った。「今はもうそんな時代じゃねーんだろうけど」と、続けるその目じりに出来た深いシワを眺めながら、康高は黙って勇治の話しを聞いている。
勇治の後の老人達は少年のように目をキラキラさせながら頷いていた。

「隆平自身が今の状況から逃げ出したくて、助けてほしいと思ってるなら、俺はあいつの親として、持てる分の大人の権力を駆使して助けてやるつもりだけど。」

「…。」

「もし、隆平が腰抜けになりたくなくて、抗っている最中なら…俺は北工のOBとして、応援したいね。」

それで、と勇治は顔を康高に向けた。

「どうしたいって言ってんの。うちの倅。」
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