屋上事変
「いい趣味ですね、大江先輩。」
後ろから聞こえた声に振り返り、声の主を確認した和仁は、一瞬目をまるくした。
九条が去った屋上のドアに一人の男が立っていた。
見覚えのある細身の体格に、前髪でよく見えない顔、そして眼鏡。
「(比企康高…。)」
今朝見たばかりの苦手な相手がそこに立っていたのである。
厄介な奴に見つかってしまった、と和仁は苦笑した。
「あ、今朝はど~も~。」
わざとらしく笑うと、康高は意外そうに首を傾げてみせた。
「俺のこと知っているんですか。」
「勿論。北工じゃ知らない人はいないでしょ。」
「それはどうも。」
「で?どうしたの?オレになんか用?」
理由はなんとなく察しが付いていたが、敢えて触れず、和仁がニコニコして問い掛けると、長い前髪のせいで口許しか分からない康高も、にこ、と笑った。
「うちのがお世話になったみたいなので。そのお礼を言いに。」
口調は柔らかいが多分目は笑ってないのだろう。
やはり、と思いながらも和仁は態度には表さない。
康高の明らかな皮肉に「ああ!」と今気が付きました、といわんばかりの素振りをしてみせる。
「千葉君、大変だったみたいだね。大丈夫だった?」
「さっき廊下で回収しましたよ。鼻血撒き散らして貧血でぶっ倒れました。」
「そっか、早く良くなるといいね。」
わざとらしく眉を下げて気の毒そうな顔をすると、康高は一瞬にこ、と口角を上げた。
そのまま僅かに顔を伏せると、メガネのブリッジを押し上げながら、フーーーー、と長く息を吐いた。
「よくもうちの可愛いアホを泣かせてくれましたね。」
康高の声色に、和仁は思わずゾッと気圧されるような感覚に陥った。
抑揚がなく、とても単調に聞こえる語気とは裏腹に、確かな狂気を感じる。懸命に押し殺しているが、それは明確な殺意だ。
和仁はゾクゾクとする感覚に今すぐ笑い出したいような衝動を必死で我慢しながら、肩を竦めておどけてみせた。
「いや、泣かせたのはオレじゃないし。」
「元凶はアンタでしょ。」
調べさせて貰いましたよ、と康高は全く躊躇せず和仁に歩み寄ってくる。
その足取りに迷いはない。
そして和仁のすぐ側まで近寄った康高は、前髪で隠れた瞳を真っ直ぐに向けて口を開いた。
「申し訳ないんですけど、この趣味の悪いゲーム、止めてもらえませんか。」
悪びれない物言いだったが、圧力をかける様な言い方だ。
よくもまぁ物怖じもせずに近付けるものだと、和仁は感心した。
そんな康高にどこか吸い寄せられるようにして、凭れていたフェンスから離れると、和仁は自分から康高の方へ歩み寄る。
自分より大分上背のある康高を見上げるまで近付いて、和仁はふと気が付いた。
よくよく見ると、康高は形の綺麗な口に、筋の通った鼻をしている。
へえ、と意味ありげな笑みを零すと和仁は彼の前髪を上げて眼鏡を外した。
康高からの抵抗はない。
サラッと前髪が流れ、端正な顔が現われる。
「ねぇ、すげぇ綺麗な顔してんのになんで隠してんの?」
和仁は康高の髪をゆっくりと梳くと首を傾げた。
康高はそんな和仁の行為には構わずに、表情ひとつ変えず「お前には関係ない。」と吐き捨てると、和仁の手から眼鏡を奪い返し、手慣れた様子でかけ直した。
「それでどうなんだ。止めるのか?」
「いや~難しいよねえ。これから面白くなりそうなのよ、このゲーム。申し訳ないんだけど、うちの大将もやる気満々なんだよね。」
「でしょうね。まぁいい。うちのアホを泣かせた分の報復はさせて貰いますよ、先輩。」
「へーぇ大事にしてんだねぇ。千葉君のこと。」
そう言われて、今までポーカーフェイスだった康高のこめかみがピクリと反応を示した。
思えばおかしな話だ。
秀才、比企康高がこんなレベルの低い工業校にいること、端正な顔を隠していること、わざわざ情報屋に徹していること。
「千葉君の側にいて、目立たないように情報を収集して、裏から手を回して不良から守ってるわけ?健気だねぇ~。それなのに残念だったねえ。こーんな罰ゲームに巻き込まれちゃってさあ。」
挑発するような和仁の言葉に、康高は構わず「そうですね」と頷いた。
「お前らみたいな汚い輩に手を出されて、今無茶苦茶ムカついてます。」
康高は、じゃあそのアホを病院に連れてかないといけないんで、と踵を返した。
そしてドアノブに手をかけながら、チラッと和仁を振り返る。
「俺、嫌いな相手には容赦できないタイプなので。」
どうぞよろしく、と言い残し康高はドアを閉めた。