暗中飛躍(後編)



「な…」





なんだって?と小山は呟いた。





度肝を抜かれる、という表現が今の小山にはぴったりだ。




こいつは今なんと言った。
たしか、確かに…いま


ネコ、と。



見据えた隆平は全く表情を変えないまま、小山にしか聞こえないような小さな声で「ニャー」と鳴いた。


「~~~~~~っっ!!!!???」


瞬間、隆平の前髪を掴んでいた小山の腕にぞわっ、と鳥肌が立った。
腕だけではない。
スタンディングオベーション。
全身に総立ちである。
小山の心臓がドッドと早く大きく鳴りはじめる。
恐ろしさに思わず叫びそうになった。





小山誠司、17歳。

彼は世の中で何よりも、ネコが怖かった。





「(な、なななななんでこいつ…!!!)」

動揺を隠せないまま顔をみるみるうちに青く染める小山を前に、隆平は相変わらずまっすぐに彼を見つめたまま、小さく「離せ。」と唸った。

「バラすぞ。」

バッっと、飛び退くように小山が後ずさった。
世間一般で愛されている、「可愛い」の極致ともいうべき動物…それこそ脆弱な女子供が平気で触り、胸に抱くことのできるものを、まさか県下の中で1、2を争う不良グループの幹部が声を聞くだけで鳥肌、姿を見たら絶叫、触りでもしたら失神するほど怖いだなんて、いい笑いものである。

最近も家の中に子猫が迷い込んできた際、母親と妹がきゃーきゃーかわいい!と騒ぐ一方、小山は違う意味できゃーきゃーと叫んだ。部屋の隅で。涙目で。

思い出したくもない。

プライドを糧にして生きている小山が、そんな醜態をホイホイと誰かに打ち明けることなどできるはずがなかった。
それゆえ小山が猫嫌いということは、誰も知らない。
知らないはずなのだ。


「それを、なんで…!!」








「あまく見られては困る。こっちだって、これで金を貰ってるんだからな。」

イヤホン越しで聞こえるやりとりに、康高は努めて冷静な声を出した。
詳しい状況は把握できないが、少なくとも連中の「弱み」に付け込まないと、隆平や三浦は屋上から出ることを許されない「危険」な状態にあるらしい。

隆平が「今から言う虎組の連中の弱点を売ってくれ。」と言った時は一体何事かと眉を潜めたが、イヤホン越しからでも感じられる隆平のただならぬ雰囲気に、康高は渋々とパソコンを起動させた。

虎組の情報は高い。

その上幹部クラスの情報といえば普通の高校生が買うには法外な高さだ。
勿論他校や虎組を毛嫌いしている連中専用の値段なのだが、個別に雇った情報員を使ってどこよりも誰よりも綿密に調べ上げて得た「商品」だ。
康高なりに絶対の自信があり、それ故高い値段は「当然の価値」だと自負している。

それを「教えてくれ」ならともかくとして、「売ってくれ」と言われて、康高がなぜ断れるだろう。

隆平は康高に対し、対等な取引を申し出たのだ。

「(やはり、ただ助けられるだけでは不満らしい。)」

隆平のプライドに苦笑しつつも、康高は正当な「ビジネス」として、最近入手したばかりの小山誠司に関するとびきりの情報を提供してやった。

どうやらそれは抜群の効きめがあったようだ。

だが情報を駆使して小山や、主力メンバーの自由を奪うことには成功したかもしれない。
むろん連中がテコでも動かないような…いや、「動けない」ような最高に恥ずかしい情報をくれてやったつもりだが、それはあくまで目眩ましのようなもの。
長くは持ちこたえることはできないだろう。

「さあ隆平、魔法が切れる前にとっとと帰ってこい。」









「何やってんだよ小山!!」

小山の行動に、当然周りがざわめき、野次が飛ぶが本人はそれどころではない。
一方、驚きに眼を見開いて唇がワナワナと震えている小山の姿を一瞥した隆平は、前髪を乱したまま、ゆっくりと立ち上がった。
それからまるで何事も無かったように、尻もちを付いてキョトンとしている三浦の腕を引いて立ち上がらせた。

「行こう。」

そう言って、隆平が後ろ手で三浦を引いて小山の横をすり抜けたが、彼はそこから動くことができなかった。
小山を抜いて、隆平は、三浦の腕を引きながら出口に向かう。
そのまま屋上の出入り口に差し掛かろうとしたところに、当然ながら激昂した二人の男が進路を塞いだ。

「おい、勝手に出てくんじゃねぇよ!!」

がなった男の顔を見た隆平は、苦々しげな顔をしたが、何やらブツブツと彼らに囁いた。
それは本当に何かの魔法のようだった。
途端に男たちの顔色が変わり、二人はサッと左右に分かれ、一人は丁寧にドアまで開けてやる始末だ。
二人とも恐怖におののいたような表情を顔に貼りつけて隆平を見ている。
それを見た小山が「クソったれ」と悪態をついたが、もちろんそれが隆平に届くことはない。


屋上は異様な緊張感に包まれていた。

だがその緊張以上に、隆平の中ではすさまじい感情が渦巻いている。
扉の向こうの階下に続く薄暗い階段を見て、隆平は足をとめた。
そして出入り口の頭上に視線を送り、隆平は一点を見つめたまま、小さく口を開いた。

「卑怯者。」

濁りなく発せられた言葉に、無表情で返したのは給水塔の九条。

「卑怯?」

隆平の射るような視線を受け止め、九条は馬鹿にしたように笑い、視線を絡ませる。
隆平は視線を反らさなかった。
それでも唇がかすかに震える。

「約束は、どうなったんだよ。」

「約束?」

「おれを虎組の連中から守るって言ったじゃねぇか…!」

「へぇ。」

まるで他人事のように九条が呟くのを見て、隆平は信じられないような顔をした。
九条は口元から白い息を吐き出すと、まるで感情の篭らない視線を隆平に向ける。

「まるで裏切られたみてぇな顔だな。」

現に裏切ったじゃねぇか、と隆平が叫ぼうとした瞬間、九条の顔が歪む。


「てめぇは、大っ嫌いな俺に、何を期待してたんだよ。」


瞬間、三浦は自分の腕を掴んでいた隆平の手に力が増したことに気が付いた。
彼の顔こそ見えないものの、隆平のあふれ出るようなその感情に、三浦も唇を噛みしめるしかない。

長いようで短い対面が終り、隆平はそれ以上何も言わなかった。
堰切ったように走り出し、屋上を後にして、それに引っ張られるように三浦が続く。


隆平が振り返ることはなかった。
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