屋上事変
再び屋上に取り残された九条は、へこんだフェンスの前に座り込んでいた。
和仁は溜め息を付きながら点々と残る床の血を追って屋上のドアへ目線を移す。
そしてまたドアからの血を辿ると、目の前に座り込んだ九条を見た。
少しだけ頬が腫れている。
「んで、初っ端から鳩尾に一発入れて鼻を折ったと…。」
「…」
「オレはてっきり本当に鼻の穴に突っ込んだのかと」
「んなわけ有るか!てめぇの鼻も折るぞ‼」
和仁が生暖かい視線を向けたので、九条は鬼のように激怒した。
隆平が去った後、放心状態の九条をなんとかフェンス前まで連れて座らせると、九条は和仁の問い掛けに事の成り行きをぽつり、ぽつりと話し始めた。
罰ゲームのネタをバラした事。
それに隆平が怒った事。
カッとして殴った事。
逆に殴られた事。
それを聞いた和仁はガックリと肩を落として溜息をついた。
「ハ―――――ッ。一か月どころか一日も持たないなんて。もーね、想定内よ?想定内ですけどね!?」
「…」
「しかもあんな子に顔面殴られるなんてうそでしょ?やべえよ九条腕鈍ってんじゃないの?あ~あ、千葉君ぴったりだと思ったんだけどなぁ~。鼻折られたんじゃもう来てくれないよね。」
「…」
和仁の言葉に何も反応を示さず、九条はフェンスの外を黙って眺めている。その九条を見て、また溜息をついた和仁は首を傾げて思案した。
「仕方ない、また他の子探すかぁ。今度は殴らないでよ~。」
「…」
「…九条?」
返事のない九条に、和仁は首を傾げた。
九条は何処かボーっとしていて心ここに在らず、と言った様子である。
「おーい」
「…」
「くじょーさーん??」
「…」
「…」
「…」
「あ、千葉隆平。」
「!!??」
屋上のドアを眺めながら和仁が隆平の名前を出すと、九条ははじかれた様に立ち上がりドアを見た。
しかしそこには開かれたままのドアばかりで人影はない。
ぽかんとした九条の背後に立ち、和仁は再び溜息をついた。
「うっそー。」
「…!!」
「なあ九条。なにそれ」
九条の珍しい態度を見て、和仁は眼を丸くする。
九条は顔だけ振り返ると、なんとも怨めしそうな顔をしていた。
「…別に。」
そんな九条の反応に、おや、と和仁は目を瞬かせる。
これは一体どういう事だろう。
思案した和仁は確認のためにもう一度さっきと同じ言葉を繰り返した。
「九条。」
「なんだよ」
「代わりの子、探して来るよ?」
そう和仁が言うと、九条は和仁をちらりと窺って、何やらバツの悪い顔をしてから溜め息をついた。
「…いい」
「え?」
「あいつで良い。」
今度こそ、和仁は驚いた。
九条の言う「あいつで良い」とは、「あいつが良い」と言うのとほぼ同格だ。
今までにこんな事があったろうか、と和仁は珍しいものを見るような目付きで九条に詰め寄った。
「なんで?どーしたの?殴られてネジ抜けたんじゃない?それとも風邪?」
「なんともねーわ、触んな。」
少し赤い九条の額に手を添えると、その手を払い除けて、九条は苦々しい顔をした。
なんともない。そう、なんともないのだ。
鞄を投げられ、顔面に一撃くらっても九条はなんともなかった。それに比べて、と九条は先ほどの隆平の姿を思い返す。
あいつは血まみれだ。かなり出血していた。途中で倒れて動けなくなっているかもしれない。
九条は相当の力で殴って、蹴った。
向こうは非力で臆病そうで、当然支配下におけると思っていた。この上なく容易に。
「九条?」
黙り込んでいた九条に和仁が問い掛ける。
その声に九条はハッとすると、くそ、と呟いた。
「なんでもねぇよ。」
そう言うと、九条は立ち上がった。それを見上げた和仁はキョトンとした顔で首を傾げる。
「帰んの?」
「うるせぇ。」
苛立たしげに和仁に答え、出口へと向かいながら、九条は床に点々と散らばる鼻血を眺めた。
『お前なんかだいっ嫌いだ!!』
再び声が頭の中を反芻した。
鼻血を垂れ流したままの隆平の間抜けだが、必死な顔が甦る。
泣きそうな顔して鼻血を垂らして、
「…馬鹿みたいだな」
呟いた九条に、和仁は問いかける。
「なに?九条」
「別に。」
もやもやとした気分で、九条は青々とした空を背に屋上を後にした。
残された和仁は、九条の背中が消えるまで眺めてから、ふむと一人呟く。
「こりゃあ想定外だ。」
人気のない屋上で和仁は思わず口の端を持ち上げた。
九条が誰かに興味を示す事がいかに稀な事か。
九条と幼少期からの仲である和仁にはその重大さがよく分かった。
それから先程の九条の姿を思い出す。
「何を言われたかは知らないけど、意識しちゃって。」
可愛いわ、うちの大将…と呟いた和仁は、床を染める血を愛しげに眺めた。
他人の事であんな反応を見せる九条に興味が湧くのは勿論だったが、怒って九条を殴ったという隆平にも当然興味が湧いた。
最初の印象からしてそんな大胆な行動が取れる様な少年には見えなかった。
人は見かけによらない。
それなりに自分の中に一本筋が通っている男らしいが、感情に任せて動くなんて、なんとも可愛らしい。
それに加えて如何にも純朴そうで、傷付きやすそうな脆さがある。
(良いなぁ、苛め甲斐が有りそうだ。)
「堪んないなぁ」
赤い髪を風に揺らして、和仁は笑った。
これから起こるであろう楽しい事態を想像するとぞくぞくと背筋が震えて、妙な快感が体中を巡る。
どうしてやろう。
どんな風に仕掛けよう。
そう嬉々として思案をしていた、その時だった。