暗中飛躍(前編)

「紗希の学校は来週の金土なんだ。そんなに派手な学園際じゃないけど…土曜の一般入場のチケットがあるけど、隆ちゃん来る?」

「お父さん、行く!!」

はいはい!!と元気に腕を上げた父に、キッチンから「お父さん、お仕事は?」という母の質問が飛び、父は「クーン」と悲しそうな鳴き声をあげた。

「来週末か…。」

腫れぼったい目を擦り、机に突っ伏した親父の屍を眺めた隆平は、遠い目をして卵焼きを口に運んだ。



昨日の出来事がまるで夢だったかのように、千葉家はいつもと変わらない朝を迎えている。

そんな家族に、隆平は心からホッとしていた。
びしょ濡れだった学ランは母の手により、朝にはすっかり乾かされていた。
その上、ぐしゃぐしゃだったはずのズボンに、美しい折り目がついて戻ってきた時、隆平は思わず母親に頭を下げた。
問題は片方だけの靴のことだが、つがいが無くてはどうしようもなく、隆平は中学校の時に使っていた指定の内履きを靴箱の奥から引っ張り出した。

「くそう…夢の花園…聖和代…!!」

「…。」

母の制裁に倒れた父、勇治が苦しげに呻くのが聞こえ、隆平はあえて無視を決め込んだ。


聖和代せいわだい学院高等学校とは紗希の通う女子校である。

秘密に溢れる夢の花園には違いないが、四十間近の勇治が言うと、若干危なく聞こえてしまう。

学園際の話題が上がったのは数週間前。
ここ最近紗希の帰りが遅く、休日も何かと忙しそうにしていたのは隆平も目にしている。それが学園祭の準備のためだというのは母親からそれとなく聞いていた。

そして本日、一段と早く学校へ向かう紗希がついでだと言って寝汚い双子の片割れである隆平を叩き起こした。
渋々起きた隆平がパジャマのズボンをひき上げながら「なんでこんなに早いんだよー」と愚痴をこぼした所から学園祭の話が出たのだ。

「いやだ…お父さんも可愛い娘の晴れ姿が見たい…。そして若い女の子をたくさん見たい…戯れたい、わくわくしたい。」

「お父さん、来年も再来年もあるから…。」

「だって、今の紗希は今しか見れないのに…。」

机に伏せって泣き言を漏らす父親の頭をよしよしと撫でる紗希を見ながら、隆平は無理もない、と遠い目をする。

聖和代は90年近く続く格式あるミッションスクールで、神代地区で育ってきた勇治にとっては憧れの地だ。

ちなみに勇治の出身校は神代北工業高校。実は隆平の大先輩なのだが本人いわく高校時代は「人生の黒歴史」であるらしく、北工のOBであることをひた隠しにしていた。
そのころから北工は悪名高い高校だったようだ。
そういうわけで、不良校の代名詞、神代北工業高校。それと対象的なのがお嬢様校の聖和代学院高等学校なのだ。
もちろん聖和代の生徒はそれだけでブランド力があったし、そんな彼女たちに憧れる男性が多いのは今も昔も変わらないらしい。

そして隆平も男である。

父の気持ちが分からないでもない。
「夢の花園、聖和代」という言葉に隆平は胸を躍らせた。
工業高校のギャルとは違う、清楚で可憐なお嬢様達の楽園。

それは男だったら当然のごとく。

「一度は行ってみたいよなぁ…。」

茶碗を持ったまま、隆平が思わず鼻の下を伸ばした。
すると、よこしまな考えに花を咲かせる兄の本心を知らず、紗希はパァと顔を明るくして笑った。

「うん、絶対来てね!!そしたら紗希も、隆ちゃんとこの学園祭行くから!!」

「え。」

嬉しそうに笑う紗希に、どんよりと落ち込んで机に伏せっていた父が途端に顔を青くした。
そんな親父の異変に気がつかない隆平は、紗希の笑顔につられて「うん!!」とにっこりと笑って返事をする。
そしてヘラヘラと笑う隆平と紗希を他所に、お茶の入ったポットを机の真ん中に置きながら「あら、」と声をかけたのは母だった。

「紗希のとこは良いとして、あんたんとこの学園祭はいつなのよ。」

問いかけてきた母親に、隆平はきょとんとした顔をすると、箸を咥えたまま明後日の方向を見た。
それからゆっくりと首を傾げる。

「そういえば、いつだっけ。」

全く記憶がない、という風の隆平につられて、隣の紗希もこてん、と首を傾げる。
思い出すどころか、隆平は日程の見当すらついていなかった。
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