覚悟(後編)

時刻は既に夜の八時を回っていた。

「そういえば、肝心なことを聞いてなかった。」

紗希が先頭を切って階段を下っていくのを見て、後に続こうとした隆平に康高が声をかけると彼は5、6段下りたところで上を見上げた。

「なんだよ。」

今度は二階の廊下にもきちんと灯りをつけたので、お互いの顔はよく見える。

「お前、ゲームは続けるのか?」

問いかけられた隆平は、一瞬驚いたような顔をした。
しかしすぐに真面目な顔をすると、康高の横を通り過ぎ、階段を下り始めた。それに続いて康高が階段を下りる。
玄関の前に立つと、居間の方から勇治の「男の友情は…」となにやら語る声がして、紗希の相槌が途切れ途切れに聞こえた。

それを特に気にせず、康高が玄関で自分の靴を探すと、隅の方に中も外も新聞紙で包まれた靴が置いてあった。

「重装備だな…。」

「俺は軽装でよかったんだが、お前の煽りを受けたんだよ。」

重装備な甲斐あってか、靴はすっかり乾いていて、康高は佳織に感謝した。

「康高君、お疲れさま。」

声のした方向を見ると、佳織が居間からエプロン姿で出てくるのが見えて、康高は小さく会釈をする。

「随分とまぁ隆平を口説き落とすのに時間がかかったわね。どうもお世話さま。」

佳織の登場に隆平が苦虫を噛み潰したような顔をすると、佳織は康高に向けた笑顔から一変し、隆平をねめつけると人目を憚らず叱り付けた。

「んまーーー!アンタまだ着替えてなかったの!?」

「うるさいなぁ…。」

「小汚い濡れ鼠みたいでみっともないったら!!いい加減に洗濯物だしときなさいよ!!」

「今康高が帰ってからやろうと思ったんだよ…。」

「お黙りっ。」

ぴしゃりと言った佳織に、隆平はすでに逃げ腰だが、素早く首根っこを捕まえられて、うなだれた。

「康高の前で怒んなくてもいいじゃねぇか…。」

「あら。学校をずる休みした不良息子の分際で体裁を気にするなんてちゃんちゃら可笑しいわ。親の気持ちを汲むんだったら、せめて家事に影響がないように協力ぐらいしなさいよ。言っとくけど濡れた靴下をいつまでも履いてるとお父さんみたいな匂いになるわよ。」

言われたのと同時に隆平が素早く靴下を脱いで裸足になるのを見た康高は思わず勇治の靴を見てしまった。
異様な香りがする靴に、佳織は隆平の首根っこを掴んだまま、玄関に備え付けてあったファブリーズを勇治の靴にこれでもかとかけている。

「それじゃあ、気をつけてね。」

ファブリーズを置きながら佳織が笑うと、康高は「どうも」とまた軽く会釈をして玄関ドアを開け隆平を見て「じゃあ」と声をかけた。
それに隆平が「あ」と声を上げる。

「康高、ちょ、」

と待って、と声が続く間も無く、隆平は首根っこを掴まれていた学ランをする、と脱いで佳織の拘束から逃れるとサンダルを引っ掛けて康高を追った。

「康高っ」

外へ出た康高に声をかけると、彼は既に千葉家の腰辺りまでしかない小さな門を抜けて道路に出ようとしていた。

「あのさ、お前は笑うかもしれないけど。」

小走りになって門を抜けると、その先は小さな階段になっていてそれを降りた康高を見下ろす形となる。

「おれ、やっぱり負けたくねぇんだ。」

それに、と隆平は言う。

「お前が言ってたこと、ちょっと分ったんだ。おれがゲームをすることで傷つけた人は確かにいた。でも、お前が言いたかったのって、そんな単純なことじゃねぇんだろ!?」

「…。」

「誰かを傷つけても、前に進む覚悟はあるかってことなんだろ!」

隆平の言葉に、康高は眼を細めた。
そう。重要なのは傷つけた誰かを見付けて、その先どうするかだったのだ。
大事なことはなんだ?
傷付けた誰かに償いをする事か。
胸の痛みを消す事か。
ゲームを中断させる事か。

きっとそれは楽になる方法ではあると、隆平は気がついた。
だがそれでは、ただ逃げているだけで、何の解決にもならない。

自分のしでかした事に目を背けて、何もかも中途半端のまま終わらせて、胸の痛みを隠してしまうのは、それは正当ではない。

康高が問いかけた『誰かを傷付けること』とは、誰かを傷付けてもそれでも。
お前は、きちんと前に進む事が出来るか、という意味だったのだ。


「最後までやりきって、自分を貫き通して、逃げ道をつくらない。」


九条の言葉が脳裏に蘇る。
厳しい言葉だった。
だが、正しかった。
だから余計に悔しかったのだ。


「だから、このゲームをする事で、誰かを傷付けても、自分が傷付いても」

可愛らしい少女の泣き声が今も耳に響いてくる。
ぎゅう、と胸が苦しくなる。


「おれは、その痛みも恨みも忘れないで、全部抱えて、最後までやり抜いてやる!」



そう言って、隆平は康高を見た。
真剣な顔をした隆平を見て、康高はしばらくしてから静かに口角をあげた。

「いい覚悟だ。」

呟いて、康高は唐突に何かを取り出し、隆平の視線遮ぎるようにして突き出した。
隆平が思わず顔の前のものを手に取ると、それはノートだった。

「やす…」

「じゃあな隆平、また明日。」

「…」

そう言って、康高はもう振り返らなかった。
その背中が曲がり角で見えなくなると、隆平は手に持ったノートをみて、一枚めくってみた。そこには今日の授業内容が几帳面な文字で綴られていていた。
そして最後のページを見ると、殴り書きで「明日までに写すこと」と書かれており、隆平は「明日…」と呟く。


きっと明日からは、今までのことが色々違っているに違いない、と隆平は思った。
九条の態度、和仁の裏の顔、怜奈の存在が大きく影響するだろうと知れた。
今までどおり、穏やかになはらない気がした。
本当のゲームは、きっと明日からになる。

「明日…。」

隆平はしっかりと呟いた。


『いい覚悟だ。』


そう言った康高の言葉が脳裏を過ぎる。



「明日だ。」



そうはっきりと口に出して、隆平は踵を返した。
大きくふいた風が、背中をそっと押してくれたような気がした。
14/15ページ