屋上事変

気が付くと、隆平は両手に抱えていた鞄を思い切り九条に投げ付けていた。
不意打ちを食らったのか、鞄は九条の顔面にクリーンヒットし、虎は「ぐえ、」と潰れた蛙の様な声を出した。

ドサッ、とまるでスローモーションの様に鞄が床へ落ちる。

「…」

その瞬間、水を打ったように辺りから音がなくなった。
弁当箱の角でも当たったのか、俯いた九条の額が僅かに赤い。
そしてその顔はみるみるうちに怒りで歪んだ。

「てめぇ、このクソガキ!!!」

瞬間、隆平の目に九条が腕を振り上げたのが見えた。
目の前が真っ暗になったのかと思う間もなく、顔面に鋭い痛みが走り、隆平は殴られたのだと気が付いた。その勢いで吹き飛ばされて身体が地面に転がる。
鼻っ柱が燃える様に痛い。
声にならない悲鳴をあげ、あまりの痛さに顔を両手で抑える。
ジンジンとする鼻から何かが垂れ落ちる感覚。
鼻血が出ているのだとわかった。

「ふざけんじゃねえぞてめぇ、マジで殺すぞ。」

九条はうずくまった隆平の肩を蹴り上げて、仰向けにさせると胸倉を掴んだ。痛みに思わずうめき声をあげた隆平に構わず、無理やり上体を起こさせる。
涙が出るほど顔面が痛くて目に涙まで滲んでいるのに九条の顔を見ると、スッと隆平の頭に冷静さが戻ってきた。

「触んな。」

隆平は学ランの袖で鼻血を拭って、九条を思い切り睨み付けた。
その態度が気に食わなかったのか、九条は胸倉をつかんだまま勢いよく隆平を引き倒す。

「てめえ、誰に口きいてんだ。」

恐ろしく低い声が頭上から聞こえる。
とどめと言わんばかりに、床に引き倒された隆平は鳩尾にとびきり重い蹴りを喰らい、獣のようなうめき声をあげた。

「口の利き方には気をつけろよ。」

そう言って九条は踵を返した。もう起き上がって来ないだろうと踏んだのだろうが、その予想は甘かった。
当の隆平には恐怖よりも怒りが上回ってアドレナリンが大量放出されているようだ。己にも信じられないような戦闘意欲が隆平を奮い立たせる。隆平が上体を起こすと床にボタボタと血が落ちたがそれも気にならない。

背中を向けた九条に向かって、隆平は走り出した。
その気配に気が付き、九条が振り返った瞬間、隆平はお返しとばかりに渾身の力を込めて彼の頬を思いっ切りぶん殴った。
九条は一瞬よろめくと、まるっきり予想外という顔をしていた。

「一発殴れば黙って言う事を聞くような奴に見えたかよ!ざまぁみろ!」

顔面血まみれで自分を射殺すような目で見てくる隆平に、九条は目を見開くばかりだ。

「くだらない理由で他人を巻込んで、勝手な被害者ヅラすんな!!なんでおれがアンタの命令を聞かなきゃいけないんだよ!!おれがいつアンタの奴隷になったんだ!!ふざけてんのはそっちだろうが!!」

怒鳴り声を上げた瞬間、そこら中へ血が飛び散った。
鼻はもう、痛みを通り越してひたすらに熱い。
逆に痛いのは隆平の心臓だった。内側から飛び出てしまうのではないかというほど隆平の胸を打ち鳴らしている。
そんな九条はポカンとしたまま黙って隆平の言葉を聞いていた。

「それからさっきから「おい」とか「お前」とか、人の事道具みてぇに呼んでるけど、おれにだって名前くらいあるんだよ!」

隆平は九条に会ってから一度も名前を呼ばれていなかった。
またそれが酷く勘に触った。腹立たしいことこの上ない。

「心配しなくても仲良くなりてぇなんてこれっぽちも思ってねぇ!お前なんか、だいっっっ嫌いだっ!」

鼻血はどんどん流れていく。
ボタボタと落ちて床や制服を汚す。
それから隆平の怒りと悔しさが溢れ出る様に、耐えていた悔し涙がぼろぼろと零れた。

それを眺めながら九条がさらに目を見開いて、思わず口を開きかけた瞬間だった。
ガチャリという鍵を開ける音と、妙に間延びした声が響く。

「ど~う?励んでる~?なんつって一いや、忘れ物しちゃってさぁ。」

ひょっこりと顔を覗かせたのは赤い髪。
和仁の登場に、隆平はハッとすると投げつけた鞄を素早く拾い上げ、九条の顔も見ずに全速力で和仁の横をすり抜けていった。

「あれ?」

走り去った隆平を眺めて、九条に視線を向け、和仁はあるものに気がついた。

「…血?」

点々と床に残る血痕。
それを見た和仁は驚いたように九条を凝視した。

「…なにやらかしたの?」

怪訝な顔をした和仁に、九条は何も答えられず隆平が走り去った屋上のドアをただ黙って眺めていた。





屋上を去り、階段を降り、長い廊下を隆平はひたすらに走った。
血塗れの隆平の顔を見て、辺りがざわめいたが、隆平はそんなことお構いなしだ。
拭っても拭っても出て来てしまう鼻血は手に負えず、今は垂れ流したまま。
焼ける様に鼻が痛いのは、恐らく折れているからだろう。蹴られた腹も、体中があちこち痛い。

隆平は完全に自分を見失っていた。
普段滅多に怒る事が無い温和な性格の隆平はこうしてたまにキレてしまうと、周りが見えなくなってしまう。
どこに向っているのかも分からず、隆平は只ひたすらに人の波を縫って行く。

(畜生。)

怒り、悔しさ、不甲斐無さと言った感情がグルグルと脳内を巡る。
思い出されるのは九条の目で、そこから感じられる侮蔑や嫌悪と言った感情に、悔しさからボロボロと瞳から涙が零れた。

(あんなやつ大っっっ嫌いだ。)

視界が涙で歪み、もつれた足でよろめく。何とか壁に手を付いたが、何かおかしい。
頭がぼんやりとする。


隆平はゆらゆらと意識が揺らいだ。
そして、血だらけの顔を拭って思い出す。

(貧血だ。)

ばかみてえ、と呟きながら隆平は意識が遠のいて行くのを感じた。
意識を失う瞬間、倒れかけた身体が優しく包まれた気がした。
その暖かさどこか安堵して隆平は身体を預けると、完全に意識を手放した。
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