覚悟(後編)





どれほど眠ったのだろうか。
康高はふわふわとする意識の中でぼんやりと思った。

この心地よさに身体を動かすのがひどく億劫である。

だが、静かに横たわり目を閉じている聴覚だけの世界で、康高はわずかに誰かの泣き声を聞いた気がした。

「(隆平?)」

その声の持ち主が誰か、康高には覚えがあった。
息を詰めるように、声を押し殺して泣くクセのある少年。

「(隆平。)」

その声に、暗闇の中で康高は手に力を入れた。

「(泣くな…。)」

見えないのに、無意識に彼の頭を撫でようと手を伸ばそうとした、その時だった。


「やすたかっっ!!!!!」



度肝を抜く、という表現がこれほど的確に当てはまる瞬間を、康高は知らなかった。
一瞬、耳元で爆発したような声に、身体の内臓が全て引きつって凍りつくような感覚に襲われ、そのあまりの声のデカさに真っ暗闇だった世界が真っ白になったような気がした。

「…。」

寝起きにこんな限界まで目を見開いたのは康高の人生では初めての経験であった。

息をするのも忘れて瞬きをしていると、視界に悪戯っぽい顔で笑う幼馴染が入った。
それにまた心臓が止まりそうなほど驚いた。
そして冷え込んだ脳内にやっと血が巡り出した康高は、自分が隆平と一緒に寝込んでしまったことをやっと思い出した。


いつの間にか部屋には明かりが灯され、暗さになれた視界には眩しくてすぐに目を細める。
更に机につけた顔がわずかに痛いのは眼鏡をかけたまま寝ていたからだと気が付き、康高は眉間に皺を寄せた。

だがそのあることに気が付いた康高は、顔の痛さが一瞬で吹き飛んだ。

手にぬくもりを感じるのである。

まさか、と呟いて康高が顔を上げて自分の手を確認しようとすると、その前に、目の前の隆平が自分の手を持ち上げて、康高は我が目を疑った。

そしてそんな康高を見た隆平は我慢できないというように、にやっと笑ったのだった。

「お前の愛は偉大だよ…」

笑う隆平に、康高はしっかりと隆平の手を握りこんだ自分の手を見た。
かた、と己の眼鏡の蔓が耳からずり落ちる。

突如、全身から焼けるような熱が身体中に行き渡って発熱した康高は、恥ずかしさの余り、手を握ったまま目の前の隆平の頭を思いっきり殴ってしまったのである。







「なーごめんてば康高―!!」

「離れろ。」

殴られた頭を押さえながら必死で康高に縋りつく隆平に、康高は怒った顔で容赦なく張り付いてくる隆平を引き剥がそうとした。
だが当の隆平は凄まじい粘着力で「離すもんかぁあああー康高あああー!!」と声をあげながら、なんとか康高にしがみ付こうと腕に力を込めていた。
もちろん康高は隆平に対して怒っているのではなく、言葉にできないほどの羞恥に駆られていただけだ。

不覚すぎる、と康高は自分の衝動的な行動を呪わずにいられなかった。

隆平が自分よりも早く目を覚ます可能性がある、というのは普通に考えればすぐ分かりそうなものなのに、何故俺は…と身の内を巡る後悔と羞恥に、康高は少々冷静さを欠いていた。
その自問が、はたから見れば不機嫌そうに見えるのだが、本人はそんなことに構っている余裕はない。一方そんな彼の葛藤に気がつくはずも無い隆平は、再び殴られた頭を擦りながら、唇を尖らせる。

「からかったのは悪かったって言ってんじゃんか。なー、いつまで怒ってんだよ。」

「…お前それ、謝る態度か?」

無理やり自分から引き剥がして、人間としておかしい体制になっている隆平の足に蹴られ、康高が思わず胡乱な目をすると、隆平は快活に笑って「どうかなぁ」と言った。

「恥ずかしがんなって、お前の友情は嫌というほど身にしみた。」

隆平は康高の目の前に胡坐をかいて座りなおすと、まっすぐに康高を見た。

「今日のこと知って、来てくれたんだろ?」

真面目な顔をして言われ、康高は黙って溜息をついた。確かに詳細は知らないが大まかなことは分かっている。
それにきっと知らないと言っても嘘だとすぐにバレると思い、康高は隆平から僅かに視線を逸らすと気まずそうに頭を掻く。
その沈黙を肯定と受け取ったらしい隆平は、康高の言葉を待たず、口を開いた。

「おれさ、見ての通りむちゃくちゃヘコんでたんだ。」

「…。」

「女の子泣かせちゃった上に、九条ともいろいろあってさ…。」

さも当たり前のように言った隆平の言葉に、康高は一瞬自分の耳を疑った。

「九条に会ったのか。」

「それがなんか…なり行きで…。」

はは、と乾いた笑いを零した隆平に、康高は眉間に皺を寄せる。
胸の内側に成りを潜めていた痛みが疼いた。
自分の知らない時間の隆平を九条が知っているという事に言いようのない焦燥感が生まれる。なぜ九条が隆平に、と康高は心穏やかではいられなかった。
確かに和田と話していた際、九条が見付ったと彼から聞いてはいたが、まさか隆平とも会っていたとは知らなかった。
眉をひそめる康高を前にして、隆平は声を低くして呟いた。

「おれはさあ、康高。甘かったよなあ…。」

「…。」

「自分がいかに弱いか見せ付けられたし、予想外にキツイことを言われてさ…その、ちょっとぐちゃぐちゃになっちゃって。」

隆平は少し項垂れるようにして頭を下げると自分の掌を見詰めた。
部屋の荒れ方や隆平の赤い目元を見て、自分ではない他の誰かから与えられたものに、隆平が心を乱されたのだと思うと、康高の胸は人知れずざわついた。
それを隆平は知る由もない

「家に帰っても悔しくて。なんかこの世界でおれは、たった一人ぼっちのような気がして。さっき目を覚ますまですげぇ心細かったんだ。だから…」

「…。」

そう言った隆平の目尻がまたじわり、と濡れたのではないか、と康高は思った。
だがそう思った瞬間、自分の掌に隆平の手が伸び、康高の長い人差し指に触れ、康高はびく、と掌を強張らせてしまう。
そして思わず顔を上げると、目の前の少年の小さな目は、とても穏やかな色をしていた。

「目が覚めて、お前がいてくれて、むちゃくちゃ心強かった。」

隆平は眉をハの字に下げ、照れたように笑った。

「ありがと、康高。」

そう言って、ぎゅう、と康高の手を握り締めた隆平に、康高は自分の胸につかえていた汚いものが溶けてゆくような気分になった。
触れられた指先から自分の心が透明になってゆくのがわかる。

「(つくづく単純だ、俺は。)」

この間抜けな笑顔が見られれば、康高は自分を保っていられる。
最高の精神安定剤だ。
目を細めて、康高は隆平の細い指を確認するように握って呟いた。

「…間抜け面。」

「は?」

思わず口に出した康高の言葉に隆平が首を傾げるのと同時に、康高はで自分の手に触れていた小さな手を渾身の力で握り返したのである。
瞬間、押しつぶされるような衝撃が手に走った隆平はたちまち目を見開いて

「いでーーーーーーー!!」

と大声で叫んだのである。

隆平の叫び声が聞こえたのと同時に、康高はしてやったり、と声を上げて笑った。


それが彼なりの照れ隠しでもあった。

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