覚悟(後編)


「そんなんで俺に復讐なんてできんのか。」

非力さを馬鹿にされ、隆平は奥歯を噛み締める。
そして次の瞬間、腕をグイと引かれ、胸倉を掴まれたかと思うと、近かった九条との距離が更に近付いた。
九条の顔が間近に迫り、襟元を掴まれた息苦しさに、ひゅ、と喉が鳴る。視界一杯に九条の顔が迫り、その眼光の鋭さが容赦無く隆平に突き刺さる。
それから九条は呟いた。

「大体、女になんて言われたか知らねえが、自分のケツも一人で拭けねぇようなクソガキの清算を、なんで俺がしなくちゃいけねえんだよ。」

「…!」

「俺に復讐してぇんならな、今てめぇが立ってる所からしがみ付いてでも離れんな。少しでも後退してみろ、殺すぞ。」

ドスのきいた声に、隆平はゾッとした。
これは虎組の総長としての声だ。

「進んで進んで、上から俺を見下して、蔑む位の度胸を見せてみろ‼」

「ひっ」

九条の剣幕に隆平がビク、と大袈裟に身体を震わすと、九条は隆平の胸倉からするりと手を外した。

「逃げ場のある決意はな、覚悟なんて言わねぇんだよ、クソガキ。」

吐き捨てるように言った九条の言葉が、ずしり、と胸に落ちてきた。それはまるで鉛の塊の様に重く隆平に圧し掛かる。

「どうしても俺に殴られてぇなら、てめぇの言う復讐の時にしてやる。」

「…」

「俺への復讐がつまんねぇ猿芝居だったら、そん時は俺の気が済むまで殴ってやるよ。」

どん、と胸を押された隆平は後方に尻もちをつき、黙って九条を見るしかなかった。
九条は首をぐるりと回して「あーくだらねぇ。」と呟きながらごみ箱の蓋を開けた。
とたんに冷たい雨が突き刺さるように身体を打ち付けた。
そして放心する隆平の顔などは見向きもせず、九条が「それからな」と呟いた。

「今度その女に会ったら伝えとけ。こんなくそつまんねぇ奴と好きで付き合う奴なんかいねぇ。顔も見たくもねぇし、触った日にゃ虫唾が走って吐いちまう。こちとらてめえなんか大っっ嫌いなんだわ。気色わりぃ誤解すんな、ってな。」

そう言って、九条はごみ箱から出て行った。
九条は隆平を振り返る事なく、その足音は強さを増した雨にすぐかき消された。
完全に九条の足音が聞こえなくなった頃に、一人ごみ箱の中に座り込んだまま、隆平は立ち上がる事ができなかった。
ドクドクと鳴る胸が痛くて、寒さで唇がわなわなと震える。

遠くで雷鳴が轟いたのを、隆平はただ黙って聞いていた。



















暗闇の中、隆平はふと目を覚ました。

「・・・。」

ぼんやりとする視界で数回瞬きをする。

「(…夢。)」

雷鳴の音がまだ耳の奥で聞こえたような気がしたが、辺りは驚くほど静かだ。
雨は既に止んでいるようだ。
辺りは薄暗く、窓の外の街灯が無ければ、目を開けたのかも分からないような暗さだ。

「(今、なんじだろ…。)」

隆平は働かない頭で考える。
それと同時にひどく身体が冷えていることに気が付いた。
雨に濡れたまま着替えもせずにそのまま眠ってしまったことを思い出した。

だが、なぜか左手だけが妙に暖かい。
隆平は温もりを感じる方へと無意識に目線を移した。


目の入ったのは、自分の手を包み込むように握られた大きな掌だった。

「…。」

それに別段驚いた様子も見せず、隆平がわずかに頭を動かそうとすると、頭にも何かが触れ、隆平は顔をずらしてそれが何かを確かめようと試みた。
そこには。

「…康高。」

隆平が今にも消え入りそうな声で呼んだのは、幼馴染。
彼は色素の薄い髪を街灯に照らしながら、隆平と同じように文机に半身を預けて静かに寝息を立てていた。

ごみ箱の中で九条が去ってから、一人雨に濡れ片足だけ裸足のまま、それでも帰らなければ、と無意識に立ち上がった。
そして家につき、部屋の中に入った途端、涙があふれてきた。
泣いた理由は自分でも分からなかった。とにかくグチャグチャで家に着いた途端、堰を切ったように涙が溢れてきた。
声を押し殺して泣いたのは僅かに残った理性だった。

泣いたなんて、誰にも知られたくなかった。
それなのに、と隆平は自分の手を握ったままの康高を赤く腫れた目で見つめる。

「かっこわる…おれ…。」

かすれた声で小さく呟いたが康高は目覚めない。

「なんで手なんか握ってんだよ…」

そう言って、僅かに握られた手を動かしてみるが、しっかりと握られたまま、その手は微動だにもしない。

「康高。」

隆平の声が震えた。
この部屋に戻って来て泣いた時、自分は世界に一人きりのような気がしていた。
それでも負けたくなくて声を殺して泣いたのだ。
誰かに気が付いて貰うように大声で泣く真似はしたくなかった。
これは自分で解決しなくてはいけないことだ。
誰かを頼ってはいけない。そう思ったのに。

なぜ康高がここにいるのだろう、と隆平は考える。
それからふ、とケータイに彼から何件も着信が残っていたことを思い出した。

「(そうだ、電話無視した。それにおれ今日学校休んで…。)」

流石に心配をかけたのだろう。

硬く握られた手が暖かい。
濡れた学生服のままで目覚めた今、身体は冷えきっているのに康高が握った手だけが、確かに暖かい。

「…ばか。」

隆平の顔が情けなく歪む。痛いはずの目頭にカーっと熱が集まった。

この幼馴染は他人のことに土足で足を踏み入れない。
相談をしても「自分で考えろ。」と放り出されるのはしょっちゅうだ。
それを冷たいと思うこともしばしばあった。

だがそれは、康高の持つ優しさなのだと隆平は知っている。
康高はどんなに解決に時間がかかっても辛抱強く待っていてくれる人間であり、自分で解決出来た時、「よくやった」と笑って頭を撫でてくれるような人間だ。

その男が黙って自分の手を握ったのは、それが康高にとって精一杯の慰めであることが知れた。
いつも冷静で素っ気無い男が、自分が泣いている姿を見てどんな思いで自分の手を握ったか、それを思うと胸が潰れそうになる。

「甘やかすなよ…。」

康高、と言ったのと同時にボロ、と隆平の目から涙が零れた。

握られた手をそっと握り返す。
その暖かさに、隆平は声を押し殺して泣いた。
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