覚悟(後編)



脳内に幾度も再生される言葉。

深く沈んだ闇の中で、それはまるで昔のフィルムの映画のように静かに映っている。
赤レンガの倉庫が雨に濡れていた。














「…それだけか。」

黙って九条の拳が振ってくるのを待っていた隆平が、無表情な九条に、思わず「え」と零す。

「てめぇが俺に言いたかったのは、それだけか、っつってんだよ。」

言い直した九条の言葉がよく分からなかったらしく、隆平は僅かに瞳を泳がせた。
考えても他の言葉が見つからなかったのか、隆平は押し黙ってしまう。
それを見た九条が、腹の底から吐き出すような、深いため息を吐いた。

「…くだらねぇ。」

どこか冷めた様な九条の言葉が、聞こえ、隆平が思わず顔をあげて九条を睨みつけた。
が、九条の顔を直視した隆平は思わずその身を強張らせた。
それはひどく冷淡な表情であった。
その極端な変わりように隆平はわずかに狼狽したようだったが、そんな彼を前に九条は感情の篭らない目でただ隆平を見据えるばかりだ。

なにも、ない。

女を泣かしたという懺悔と、自分への嫌悪。
今、それしか隆平の頭の中にはない。

それは、九条には許し難いことだった。

今この少年の目の前に居るのは自分なのに。
今こうして話しているのは他の誰でもない自分なのに。

この少年の頭の中は、今日泣かした女の事で一杯だ。



「俺に殴られれば、その女への償いになるとでも思ってんのか、てめぇ。」

「…え?」

「違うかよ。俺がてめぇを殴ることが女への免罪符になるんだろ。」

言われた隆平の顔色が変わった。目を見開き、まるで信じられないものを見るような眼で九条を見た。

「結局はそれが女への言い訳にもなるからな。次に女に会った時、お前はその免罪符をでかでかと掲げて女の機嫌を取るんだろ。良く考えたな。そのクソみてぇな脳みそが絞り出したアイディアにしちゃ上等だぜ。胸糞わりぃ最高の免作戦だ。」

九条が歪んだ笑みを浮かべて小馬鹿にしたように笑うと、隆平が弾かれたように声を荒げて「違う!」と叫んだ。

「違わねぇよ。自覚もねぇのか。重症だな。」

隆平が自覚、と呟いて怪訝な顔をするが、九条は眉一つ動かさない。
冷徹な瞳の奥に暗い光が宿っているようで、隆平が僅かに怯えた色を滲ませた顔をした。

わかっていた。

この男が女の機嫌取りや、言い訳のためにこんな行動をとるはずがない。
あくまで自身への戒めのためだということなのだろう。

それを九条はいやというほど分かっていた。

だが。

「なあ、」

見下ろしていた九条の頭の中はいやに冷静だった。

「許されてぇんだろ。」

そう言うと驚きに目を見開いた隆平に、九条は自分の顔が映ったのが見え、「すげぇ、極悪人面。」と一人おかしくなる。
瞳に映った自分の姿が歪んで見えたのは、隆平の目が潤んだからだ、と九条は気が付いたが、構わなかった。
正直、九条の言葉は隆平の言い分に対しての素直な感想でもあった。



「バカが。誰もてめぇのことなんか許ちゃくれねぇよ。」








そう言った瞬間、目の前の映像が途切れるように消え、視界は唐突に真っ暗になった。

だがその代わりに視界が明るくなり、優しいベージュが瞳に映る。その遠くでチャイムの音が煩わしく響いたのを覚束ない頭で聞いた九条は、ようやくそのベージュが自宅のリビングの天井だと気がついたのだった。







「やや。」

暗がりの中、辿り着いた九条邸に明かりが灯されているのに気がついた和仁はパァ、と顔を明るくさせた。

和田と三浦と別れた後、和仁は雨の及ばない屋内をふらふらとしながら、雨足が弱まったところを見計らって帰路についたのである。
その途中、様子見で寄った九条の家に久方ぶりに明かりが付いているのを発見した和仁は、
なんとも嬉しそうな顔をして、玄関に駆け寄ると、夢中で玄関のインターホンを連打した。

「九条~!九条~!オレ~!あなたの和仁~!開けて~!」

五月蠅く玄関の前で騒ぎ立てると、やがて玄関の前に人影が見え、その直後カチャ、と乾いた音が響く。それが鍵を外した音と察した和仁は勢いよく扉を開けると「九条~!おかえり~!!!」と満面の笑みで九条邸に押し入った。

だが彼が見たのは友人の顔も見ず、リビングに戻る九条の背中だけで、勢い余った和仁は一人玄関前で空気とハグをする羽目となった。

それでも嬉々として靴を脱ぎ捨てた和仁がまっすぐリビングにむかい中を覗くと、彼が予想した通り、風呂上りでろくに髪も乾かしていない九条が大きなソファに腰掛けるところだった。その近くには大画面のテレビがほとんど無音の状態でつけてある。

「お~い、九条さぁん」

九条は和仁の言動に反応を示さない。
だがそれもいつも通りのこと。
それを特に気にした様子もなく、和仁はスキップでリビングに入ると、九条の座るソファの背もたれから身を乗り出すようにして彼の横顔を見た。
6/15ページ