覚悟(後編)




日は、既に沈みかけていた。
薄紫の空が西に向かうにつれて濃い色に変わっていくのを康高は階段の踊り場の窓から眺めると、その瞳を細めた。

二階は思ったよりもずっと暗かった。
康高は階下から洩れる光を頼りに階段を昇りきると、ある部屋の前で立ち止まる。

それから遠慮がちにノックをした。

しかし、返答はない。

「隆平。」

部屋の主を呼んだが、それにも返事はなかった。
仕方なく康高がノブを静かに回すと蝶番がキィと音を立て、思ったよりもすんなりとその扉は開いた。
だが、覗き込んだ部屋の中は廊下よりもずっと薄暗く、部屋の奥に潜んだ闇が全てを隠してしまっていた。
隆平の部屋は東向きにしか窓がないので、夕日が入らない。そのせいかも知れないが、彼の部屋は他の場所よりも暗く、何よりも寒かった。
真っ暗とまではいかないが、暗い部屋の奥は何があるかも判別がし難く、康高は隆平の部屋の間取りを思い出し、漸く部屋の奥にひっそりと置いてある文机に、黒い影が凭れているのを見つけたのだった。

「…隆平。」

そこには暗い部屋に文机に前で胡坐をかき、半身を机に預けた隆平がいた。
だが暗闇の中、隆平が動く気配はない。

「(泣いているのか。)」

返事が返ってこない上、こちらを見る事もない隆平に、康高は眉根を寄せる。
無理も無い。
九条の女から何を言われたのかは、その場にいなかった康高でも容易に想像が付く。
落ち込むな、と言う方が無理な話だった。
だが、目の前で落ち込んだ親友にかける言葉が見付らず、部屋の中へ入れないまま廊下に立ちすくむ自分を不甲斐無く思い、康高は顔を歪めて俯いた。

返事がなく、こちらを見ないのは拒絶の表れと感じた。
隆平は今自分の中の色々な感情と必死で葛藤しているに違いない。
自分が入る隙間が無いのだと、康高はぎゅう、と拳を握った。

「(何もしてやれないのか。隆平が自分を頼って、求めてくるまで、俺は。)」

そう思い康高は顔を上げ、文机にうつ伏せになった隆平を見た。
丸まった背中が小さい。
その弱々しい姿に庇護欲を掻き立てられ、今すぐにでも隆平を抱き寄せて慰めてやりたいような衝動に駆られるがぐっと堪える。

「隆平…」

搾り出すような声を康高が出した、その時だった。
返事の無い隆平の肩が、ぴくりと動いたのが分かり、康高は怪訝な顔をする。
どうしたのだろう、とよくよくと目を凝らせば、その小さな背中が僅かに上下しているのが見えた。

「…隆平?」

思わず部屋に踏み入れ、康高が隆平の近くまで行き、その顔を覗き込むと、隆平から返事の返ってこない原因がわかった。

暗い部屋が少し明るくなったような気がしたのは、外の街灯が付いて、その光が僅かに部屋の中を照らしたからだろう。
そのお陰で、文机に顔を横にくっつけてすうすう、と静かに寝息を立てて眠っている隆平が見えたのである。

「…。」

それを見た康高はどうりで、と小さく溜息を吐き、同時に少し安堵した。
このまま帰るのも気が引けて、どうしようかと迷った挙句、康高は隆平の顔が見える文机の隣にゆっくりと腰を下ろす。
康高の気配にも隆平が目覚めることはない。
よく眠っている。

それを確かめた康高は、机に顔を埋めた隆平の横顔を改めて覗き込んだ。
そこには鼻のガーゼが取れた、隆平本来の顔があった。

それが妙に懐かしく思えて、康高は無意識に隆平の顔に手を伸ばす。

と、僅かな街灯に照らされた隆平の白い頬に自分の手の影が落ちて、康高は何故か戸惑った。
こんなことをするにも意識してしまう。

その指で静かに少し赤い鼻の先を触ると、康高はそこから滑るように頬を撫でた。

冷たい。

第一印象はそれに尽きた。
それから目元を辿り、短い睫毛が僅かに濡れているように感じて、康高はひどく狼狽して隆平の頬に滑らせていた手を引っ込める。

泣いたのだろうか。

見れば机にはよだれとは違う小さな水溜りが彼の目元の先に見えて、康高は思わず怪訝な顔をしてしまった。
その他にも青白い顔に目元にはクマ。

「…ボロボロだな、お前は。」

そう言って僅かに眉を顰めた康高は、思わず俯いた。


自分が守らなかったから、隆平は辛い目に遭ったのだろうか。
和田の言うとおり、隆平の窮地には理屈を抜きにして汚いものから隠すように助ければ良かったのだろうか、と康高は自分の掌を見る。

守ってやりたい、というのは嘘ではない。
だがそう思う反面、隆平の思うようにして、隆平の納得のいくようにしてやりたい、という狭間で、康高の心は揺れ動いていた。

暗闇に目が慣れてよくよくと部屋の中を見れば、鞄は投げ捨てられるように部屋の隅に転がって中身がぶちまけられていたし、彼の文机の上に置いてあったと思しい筆記用具やら漫画本やらが机の脇に散乱していた。

「…」

隆平がどんな気持ちで、この部屋にたどり着き、そして泣いたのかを想像するだけで、康高の胸が軋む。
そして心を痛めたまま、隆平が疲れて眠ってしまったのだと知ったのである。

だがそれでも、と康高は隆平の頭に、自分の頭を寄せるようにして机にその身を預けた。
間近で見る隆平の制服が黒々と濡れているのを見止めて、康高は小さく「ばかめ」と呟く。

「濡れたまま寝る奴があるか。」

何故だか自分が泣きそうになって、そう呟いた瞬間、床にだらりと落ちた隆平の手が康高の手に触れ、その冷たさに、康高は思わずその掌を包むようにぎゅっ、と握った。

その手は康高よりも小さい。
だがそれでも、その手が昔よりもずっと節くれ立っていて、自分と同じ硬さを帯びていたことに康高は小さく驚いた。
彼の手を握ったのは、もう遠くの記憶にしかない。
だが、柔らかかった筈の隆平の掌が自分と同じく成長した事に、彼が自分と同じだということに気がついた。

隆平は、もう守られてばかりの子供ではない。

ただ隠すように守るのでは、それこそ隆平のプライドを踏みにじってしまう。

「(それでも傷つくことは山のようにある。…だとしたら、俺には、何ができるだろう。)」

そう思いながら、間近にある隆平の寝顔を見て、康高はその顔が少し険しい事に気がついた。

罰ゲームを受けた時点で、隆平が傷付くことはある程度予想がついていた。
だがそれは、彼が自分の譲れないものを守るために彼自身が自ら挑んだことだ。

何も知らずに後悔するよりも、痛みを知ってでも納得する方がずっといい。

目が覚めて、ボロボロになった隆平は、それでも罰ゲームを続ける、と言うような気がしていた。
これからも心を痛めることが沢山あるかもしれない。

「(そうしたら、隆平。)」



「―そうしたら、そのつど俺に痛みを分けてくれ。」


そう静かに呟いて、康高は隆平の手を、ぎゅう、と強く握った。

それしか、できなかった。
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