覚悟(後編)








「こんにちは。」

インターホンを鳴らして、少し待つとややあって開いた扉。
そこからひょっこりと覗いた顔に、康高は柔らかく笑んで挨拶をした。

「あらあら康高君!いらっしゃい!!」

にっこりと微笑んだ康高に、隆平の母親である佳織は半開きだったドアを完全に開いて微笑み返しながら、脇に抱えていた煎餅の袋をさっと後ろに隠した。
ほんのりと醤油風味の香りが鼻を掠めて、康高は「のんびりしていたところ、どうもすみません。」と佳織に頭を下げる。
だがそんな康高を気にした様子も無く、佳織は「はぁ~良いわね、学生服。」と呟きながらうっとりと康高に熱い視線を送っている。
佳織は…隆平の母は康高の熱狂的なファンだった。



時計は既に夕方の五時を回っていた。

結局隆平は本日学校に姿を見せなかった。

六時間目が始まる頃、三浦が教室に戻ってきて康高に向かって「千葉隆平は!?」と尋ねてきたが、隆平が居ないことが分かると「あれ?」と首を捻って授業も受けずに、またどこかへと姿をくらました。

あれから康高は何度か隆平のケータイ電話に連絡を入れてみたが、応答は無い。
流石に心配になって、家になら帰っているだろうか、と思い、ついつい自宅まで来てしまったのだが、康高自身も妙な気持ちが拭えないままだったので、このまま隆平に会って良いものかどうか悩む所だった。

だが九条のセフレと何かしらあったのだとしたら、やはり放っておくわけにはいかない。問題は隆平が解決しなければならない事だが、話を聞いてやる事くらいならできる、と康高は思い直した。

得体の知れない焦燥感に突き動かされるように心がざわついたが、康高の足だけは素直に千葉邸へと向かっていた。
鞄の中には、何時もよりも丁寧に取ったノートが入っている。





「もー!!やーね!!康高君が来ると分かっていたら最初からお化粧やり直してたのに!!」

「すいません、急に。」

「良いの良いの!!はい、どうぞ。あ、そうだ、お隣さんから栗の渋皮煮を頂いてるのよ。すんごい量貰っちゃったから是非食べてってね!!今お茶も用意しまーす。」

玄関に招き入れられた康高は「どうぞお構いなく。」と呟いた。
きゃっきゃとまるで女学生の様にはしゃぐ佳織を見て思わず笑みが零ぼれる。
それから、靴を脱ごうとさり気無く目線を下に向け、ふと玄関に脱ぎ捨ててあった泥だらけのスニーカーを見付けて、その動きを止めた。


ぐちゃぐちゃに濡れて、そこに小さな水溜りを作り、無造作に転がっているスニーカーは、片方だけ。


康高が見ているのに気が付いた佳織は「ああ、そうだったわね」と言いながら、後ろに隠していた煎餅の袋を玄関の靴箱の上に載せると、靴箱の隣に重ねて置いてある取置き用の古新聞に手を伸ばした。

「乾かさなきゃいけないんだったわ。」

そう言って新聞を手ごろの大きさに千切る佳織を見ながら、康高は静かに口を開いた。

「どうしたんですか…靴…」

「さぁ。帰ってきたときから片方なのよ。きっとあれだわ。お天気占いかなんかしてどっかに飛んでっちゃったのよ。馬鹿よねー。明日から裸足で登校する気かしらね、あの子。」

「…隆平は。」

康高の問いかけに、佳織は玄関に敷いた新聞の上に汚れたスニーカーを置くと、その中に新聞を詰め込みながら、顔だけ階段の方をちら、と見た。

「結構前に帰ってきたんだけどね、ただいまも言わずに昇ってっちゃった。濡れネズミみたいで、玄関から階段まで水溜りができたのよ。それからずっと部屋に篭ってるみたいなの。呼んでも返事もしやしないのよ。」

「…」

佳織の言葉に康高は黙って玄関のすぐ目の前にある階段を眺めた。
すると靴の中に新聞を詰め込みながら、佳織が少し笑って「何?喧嘩でもした?」と聞いてきたので康高は「多分…」と小さく零した。

「相手は俺じゃないんですけど、」

と言葉を濁すと、佳織は「複雑なのねぇ」と少しおどけた風に言うと、穏やかに笑んだ。

「心配して来てくれたのね。」

「…。」

柔らかい表情の佳織に、康高は何処か落ち着かない心持ちで、何か言おうとしたのだが、口に出そうとした言葉が音として発せられるには至らなかった。
この人の笑顔は隆平にそっくりなのだ。
そして佳織は隆平と同じ笑顔で盛大に笑いながら康高の背中をバシバシと叩いた。

「でも喧嘩したからって引き篭もるなんて男らしくないってのよね!!女々しいったら!!もうね、ガツンと言ってやって頂戴!!風呂入れ!!洗濯物出せ!!制服乾かせって!!」

彼女の言う「ガツンと言う」事には、まるっきり主婦の事情が盛り込まれていたが、康高があれこれ言う前に「アンタの靴も乾かしてやろう!!さぁ脱ぎたまえ!!さぁ!!」と、佳織に靴を無理やり脱がされた康高は、少し湿った程度の靴に嬉々として新聞を詰め込む佳織を見て、一つ大きく息を吐くと階段に足をかけた。

ギシギシと板が軋む音を出して途中まで昇った康高を、階下から覗き込む様にした佳織が、「康高君」と声をかけてきた。
それに、康高が顔を佳織に向けると、佳織は至極真面目な顔で康高の靴に新聞紙を詰めながらハッキリと言ったのである。

「ガツンと言った後はギュッと抱きしめるのよっ!」

言われた康高が階段を踏み外しそうになったのは言うまでもなかった。
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