覚悟(中編)


「~~~~~っ!!!」

そのあまりの痛さに暫く声も出せず悶えた隆平は、痛みが少しマシになったところで血が出ていないか頭を押さえていた掌を確認してホッ、とため息をついた。
だが尚もズキズキとあとを引く痛みに、隆平はその場に蹲りながら「くそ~」とちいさく悪態をつく。
それからいかにも非難めいた表情をして九条を振り返ると、九条もまた、後頭部を片手で押さえながら隆平を苦々しい顔で睨み付けていた。

そして暫く睨み合ってから、同時に口を開いた。

「あんたが」
「てめぇが」

言葉が被って二人はさらに怪訝な顔をする。
互いに、お前が悪いと非難しようとしたものだったが、こうも被ってはバツが悪い。

「…なんだよ。」

「そっちこそ。」

「てめぇが言えよ。」

「あんたから言えばいいだろ。」

互いに憎憎しさを顔に出して「お前が」「お前が」と際限なく言い合ったが、何度目かでいい加減バカらしくなったらしい九条が頭をボリボリと掻きながらクソ、と悪態をついて「もういい」とため息交じりに吐き捨てたのを見て、隆平も唇を尖らせて黙りこんでしまった。

だが床に視線を落としたは良いが、その視界の端に九条の身体がチラついてどうにも落ち着かない。先程飛び退いたとは言え、スペースは限られているため、九条との距離はいつも昼食をとる時よりも、そして一緒に帰る時よりもずっと近い。

今まで意識したことはなかったが、その長い手足と広い肩、大きな掌を見て、隆平は先程この肢体にすっぽりと納められたのだと思うと非常に居た堪れない気分になった。
自分の事を小さい小さいと気にしてきたが、ああも簡単に抱きすくめられると、男としてのプライドは正直言って形無しだ。

でも、と隆平は自分腕に残る感触を思い出す。
あの和仁を前にして、身体に回された腕の力強さに、やけに安堵したのも確かだった。

「…それで」

それから間も無く九条が口を開いて、隆平はハッ、として逸らしていた目線を目の前の男に向けた。体格差から自然と九条を見上げる形となり、隆平は「やっぱりムカつくわ」と苦虫を噛み潰した様な顔をしてしまった。
対して九条は、先程の様な苦々しい顔はしていなかったが、隆平の顔が歪められた事に、その双眸を僅かに細めた。

「…話はいいのかよ。」

言われて隆平は一瞬間を置いてから「あ」と思い出したように呟いた。
先程の和仁の事ですっかり頭の隅に追いやられていた。

正直言って、隆平は何が言いたいのか自分自身も整理がついておらず、衝動のままにここまで来てしまっていた。
その上、九条がこうして自分の話を聞いてくれるとは思ってもいなかったので、改めて聞かれると隆平は困ってしまい、うつむいた。

「大体、なんであの場所が分かったんだよ。」

そんな隆平に構わず九条が訝しげな声を出した。

「それは…テレビで…。」

「テレビ?」

ビル群の大きなモニターに中継で映っていた桜木町。その中に隆平は九条を見つけたのだ。

「あんた、遠くでも目立つから。」

「…。」

隆平の言葉に九条は「ふーん」というように、納得した顔をした。恐らくは和仁も同じ手段で九条を発見したのだろう。何はともあれ随分と嫌な見つかり方をしたもんだ、と九条は眉間に皺をよせる。
隆平は相変わらず俯いたまま、口を固く閉ざしている。

「…。」

「…。」

話し出す気配のない隆平に九条はつい、と視線を外して隆平にも聞こえないほど、小さく息をはいた。

それから暫くどちらも言葉を発しなかった。
長さにすればどれくらいになるだろうか。
隆平には…いや、おそらく九条も同じくらいの時間の長さを感じていたかもしれない。
それは1分のようであり、10分にも1時間のようにも感じられた。



驚くべきところは、不思議と九条が隆平を急かそうとしなかったことにある。
もう、追手は来ないし、人目を気にすることもない。邪魔が入らない。

自覚こそなかったものの、限られた空間にこの少年が、一から十まで遮るものなく、自分と対峙していることに、九条は言いようのない満足感を得ていた。
そして、珍しくしおらしい隆平と共有する静寂が、九条には苦痛ではなかった。


隆平の言葉を待ちながら、九条はぼんやりと考えていた。

モグラの巣穴の中の静寂はただ苛々を増すばかりだった。
どうでもいいことを考え、思い出し、思考を乱して、ぐちゃぐちゃになる。
その思いを発散させたくて物に当たり、しかし暫くするとまた脳裏に妙な考えが浮かぶ。それを延々と繰り返していた。
一時期は目の前の少年の顔を思い出すたび、殺してやりたいと思うほど煩わしく、憎々しく思っていたはずだった。

だが、こうして目の前で実際にこの少年の顔を眺めていると、そんな気は微塵も沸いてこない。むしろひどく落ち着く。
九条のとって、それはひどく不思議な感覚だった。

辺りに薄暗い陰りができ始めたのは、それから間もなくである。

冷たい風が吹き、トトト、とごみ箱のトタン蓋を何かが叩いたかと思うと、ザァと海が凪いだような音がして、本格的に雨が降り始めた。

その音にようやく顔をあげた隆平の頬が、外から漏れる微かな光を受けて白く反射しているように見える。
それを無意識で眺めていた九条が僅かに目を細めると、隆平のその小さな口が微かに開いた。

無数の水滴が頭上のトタンを叩く音がうるさい。

その中でなぜか、少年の声だけはハッキリと九条の耳に届いた。
22/25ページ