覚悟(中編)


思いもよらなかった。

隆平に罰ゲームをする覚悟を説いたが、自分自身の覚悟を康高は失念していた。

それはさきほど、和田が何気なく言った一言がきっかけだった。





『…何か?』

『いや…おめぇが千葉の事を大事にしてんのはわかった。…でもよ。ひとつ気になることがある。』

そう言ってボリボリと頭を掻いた和田は、真面目な顔をして康高を見据えた。

『あー…、変な事聞くかもしれねぇが。』

『えぇ』

『正直、応援してやる立場としてはどうなんだよ。あいつのダチとして。』

『はい?』

『だからな、俺はまぁ、本人がそう決めてるんなら、どうこう言うことじゃねぇとは思う。でも、やっぱ特殊だろ。いや、別に偏見があるわけじゃねぇけど。千葉は、一生懸命だしな。』

一人で考え込むようにした和田を目の前に、康高は怪訝な顔をする。この男が何を言っているのかさっぱり分からなかった。

「(特殊?偏見?)」

『…なんの話ですか。』

『なんの話っておめぇ…。』

和田が目元を細める。
もとの人相があまりよろしくないため、和田が目を細めると妙な迫力があった。


『隠してるつもりかもしんねぇけど、千葉は、九条が好きなんじゃねーのかよ。』



和田の言葉を頭の中で繰り返して、康高は思い切り怪訝な顔をした。

隆平が、何だって?

『九条のことが、好き?』

自分でも今までに無いほど低い声を出した、と康高は思う。

和田は康高の方を見て、どこか妙な顔をしている。康高の反応が予想していたものと違ったらしく、その表情にはわずかだが焦りの色が伺えた。

「(何を言っているんだ。)」

隆平が九条の事をよく思っていないのは火を見るより明らかだったからだ。

九条の脅迫めいた告白に、隆平が応じた理由を和田が安易に考えるのは無理もないことだ。
しかし、この男だって馬鹿ではない。
恐らく最初は隆平を警戒していたに違い無い。
何か企みがあり、九条に近付いたのではないか、と考えるのが普通だ。
だが、隆平がそんな片鱗を全く見せない上、土曜の一件で和田の目には、隆平が「健気な良い奴」というプラスの印象で映ったらしい。

「(勘違いも甚だしい。)」

だがここで隆平の「復讐」の話をするわけにもいかない。
第一そこまで話す義理も無いうえ、わざわざ隆平の株を落とす必要もない。
よって康高の脳内では、和田にはこのまま勘違いさせておくのが一番、という結論に達した。

しかし。

今こうして、はらわたが煮えくり返る程不快に思っている自分がいる事に康高は気が付いた。

『和田先輩』

不意に呼ばれて、和田が少し眉を顰めると、康高はわずかかばかり笑んだ。


『今度、俺の前で同じ話をしたら、次は…。』


康高の唇の動きを目で追っていた和田が、瞬時にかたまった。
踵を返した康高が最後に見た和田は、真顔のまま青ざめて、左手をそっと胃の辺りに当てた姿。



康高は、小さく溜息を吐く。

どうも最近の自分は詰めが甘い、と嘆く。

そうボンヤリと考えているうちに、教師が「こっち側消すぞー」と黒板の左側を消しだし、康高は、あ、と珍しく間の抜けた声を出した。

それから残った下半分を一瞬見てからざっとノートにポイントを書いておく。
考え事をしながらも、教師の講義はきちんと耳に残っている。後で補足しておこう、と新たに書き出される黒板の文字を追った。

教師の声、教科書をめくる音、黒板に当たるチョークの音と紙にペンを走らせる音が教室を満たす。

ふ、と康高は隣の席を見た。
主のいない机と椅子は非常に空虚な印象を受ける。
隣人は落書きが好きだ。
授業中、ガリガリと夢中でノートを取っているな、と感心して覗いてみると、たいてい、教師と思われる冴えない似顔絵と目が合う。
そして次の休み時間になると、決まって「康高、ノートみせて」と懇願してくるのだ。

進歩のない奴だとつくづく思う。
だが、いつもそれにどこか安堵していた。

目の前の教壇を見ていても、隆平がノートにガリガリとペンを走らせる音が耳に入ると、いつもより丁寧に字を書く自分がいる。

それなのに、いまこの教室で隆平の音がない事に、康高はゾッとした。
この瞬間も、どこか自分の知らない場所で、自分の知らない誰かが隆平の音を聞いているのかと思うと堪らなくなる。


『千葉は、九条が好きなんじゃねーのかよ』


和田の言葉がふ、と康高の頭をよぎった。

わかっている。
今こうして余裕が無いのも、正体不明の焦燥感に駆られているのも
全てはこの言葉のせいだと。

隆平が九条を好きだなんて有るはずが無い、と康高は思っていた。
だが本当はそんな事を想像したことがなかったのだ。
隆平が復讐のために九条に近づいて、それが好きだ嫌いだの騒ぎになるなんて予想できるはずもない。

だが有りえないなどと、何故言えるのだろうか。
人の気持ちは変わっていく事を康高はよく知っている。

もし、万が一、隆平が九条を好きになったとしたら


「(俺はどうするんだ?)」


ちら、と見た隆平の席。
その向こうにある窓に、ポツ、と水滴が一つ当たった。
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