覚悟(中編)
隆平の頭の中は、ぐちゃぐちゃだった。
その姿を見つけてから、バスを待つ時間すら惜しい気がして、無我夢中で走った。
ただ一心にその場所を目指した。
10月なのに、全身は汗でびしょぬれになって。
呼吸のしかたを忘れたかのように苦しくて。
それでも、湧き上がる焦燥感にその足を止めることはできなかった。
そしていま、目の前には四日ぶりの「恋人」の姿。
隣には「恋人」の腕にからみつく女。
あ、と声を上げる間もなかった。
それを見た瞬間、美しい少女の切ない泣き顔が瞬時に脳裏に甦り、胸に鈍い痛みが走り抜けた。
九条の頭の中は、真っ白だった。
隆平の姿を確認した瞬間、ぞわ、と何か得体の知らないものが体中を駆けめぐった。
腕から背中、首筋から頭の先にかけて通り抜けて、衝撃に息が止まる。
その姿が網膜に焼きついて、全く目をそらすことができなかった。
(何で、ここに。)
どく、と九条の胸が大きく脈打つ。
それはさきほど感じていた胸の痛みとはあきらかに違うもので、九条は自分でもひどく狼狽していること気がついた。
ひさしぶりに見た「恋人」の顔は、あい変わらず地味だったが、鼻のガーゼが取れてどこか新鮮に九条の瞳に映る。
あぁ、こんな顔をしていたのか、と九条は原因不明の焦燥感に駆られる一方で、どこか冷静に隆平の顔を見つめていた。
が、その瞬間。
「!!??」
めこ、と音がした。
隆平の持っていたカバンが九条の顔面に命中したのである。
「っ!!!」
顔面にはしる痛みと衝撃に、どこかデジャブを覚えた。隣の少女達がポカンとした顔をしていたが、そんなことを考える余裕さえない。
「っにしやがんだてめぇ!!」
反動で反り返った顔を手のひらでおさえつけながら、九条が怒鳴る。
すると同時に黒いものが飛んできて、九条は間一髪でそれを避けた。
「っ!?」
それは九条の後ろにあったベンチの背もたれに重い音を立てて当たった。
正体は靴。
その持ち主が小さな目を吊り上げた。
「避けてんじゃねー!!」
「ざけんな!!殺すぞ!!」
血走った目で怒鳴る隆平を見据えて、九条は冗談じゃねぇと、投球後のポーズのまま、さらにもう片方の靴を脱ごうとしている隆平に怒鳴り返したが、当の本人はひるんだ様子はない。
むしろ顔を真っ赤にさせて、たいそうご立腹の様子であった。
「クソ不良!お前なんかジャイアント馬場に蹴られて死ね!!地獄へ落ちろ!!」
「あぁ!?」
九条が顔をしかめると、隆平が「しらばっくれんな!」と吠えた。
「人が大変な思いをしてる間に、なに楽しく女の子はべらせてんだこのやろぉおおお!!!!」
「女…」
隆平の言葉に九条はようやく自分の横にいた女のことを思い出した。
「…」
確かに今の状況からしてみれば隆平が誤解するのは無理もない。九条が面倒くさそうに顔を顰めると、いよいよ止まらなくなった隆平がとんでもないことを言い出した。
「人の気持ちも知らないで、浮気ばっかりしやがって!!」
「…は」
隆平の言葉に九条が固まる。
「あんたの気まぐれで、おれはこんなに傷ついてんのに…!」
「…」
「なんとか言えよ、このやろお!!」
九条の目が点になったのは言うまでもなかった。
自分の耳が正常かつ、この少年が間違いなくこの言葉を選んで発したのであれば、通常、この台詞の意味合いをどう解釈して受け取ればいいか。
九条が整理のつかない頭でふ、と横を見ると、九条の腕に絡み付いていた女が、微妙な表情をしていた。
「(だよな)」
九条が納得して頷いた。
そして、女が自分から一歩引いたのをみて、九条はさらに遠い目をした。
「(…だよな)」
「ボケ不良!!バカ!!アホ!!」
「待て、お前、ちょっと、黙ってろ…」
頭に手を当てて九条が唸り始めた。
もちろんさきほどの隆平が発した台詞は、すべて怜奈の存在を前提としての発言であり、隆平自身、他意はないのだが、それを九条が知るよしもない。
隆平は、「あんな可愛い子が居てほかの子に手を出すから、あの子が不安になるんじゃねぇか!!浮気してんじゃねぇ!!」ということと、「お前が気まぐれで男と付き合うなんてゲームするから、おれはその子から多大なる被害をこうむって、死ぬほど傷ついたんだ!!」と、いうことが言いたかったのである。
が、隆平も必死で、必要最低限の言葉を発するのでやっとだった。
それだけに、九条は混乱を極めていた。
「(こいつ、どういうつもりで…)」
おそろしく苦々しい顔をして、隆平の発言によってドン引きした女の「疑惑」に想像を巡らせ青ざめる。
その「疑惑」は思うに、一般の健全な男子にはあるまじき疑惑であって、おぞましいと言いようがないものだ。
しかしそれ以上に九条の脳内を占めていたのは、全く可愛げのない「恋人」から発せられた台詞の持つ意味であった。
「(いや、つーかあいつも、これがゲームだってわかってるわけで…)」
「チャラ男!!女の敵!!」
「(だから別に俺がどこの女とどうこうしようと関係ねぇはずで…)」
「髪の毛まだら男!!おたんこなす!!!」
「(つまり…)」
「カッコつけ!!ピアス妖怪!!」
「…」
「ハゲ!!水虫!!円形脱毛症!!」
「あああああうるせぇえええ!!!あることねぇことなんでもかんでも言うんじゃねぇ!!マジで殺すぞ、」
てめぇ、と言いかけたところで九条は言葉を失った。
きつく口を真一文字に結んで、まっすぐに九条を睨んでいた少年の瞳から、ぽろ、と溢れるように、雫がこぼれ落ちたのである。