「黒猫」もうひとつの物語第三弾「ある精神科医の○○物語」

 一日の仕事を終えて、クリニックにほど近いマンションの一室へ向かう途中、懐かしいギターのメロディーが携帯から聞こえてきた。
「もしもし……」
 それは、あの小難しい少年がパニックを起こしたとの知らせだった。
 遠い昔、俺が好きになって、それでも一緒にいられなくて。忘れたくても忘れられなくて。そんなふたりが、違えた道の先で出会った少年。
 あの子の苦しみを和らげてやりたい。あの子のために……じゃない。あの子の向こうにいる……彼のためなのかもしれない。

 連絡をもらって、俺はもう一度クリニックへ引き返した。
 今度は院長室ではなく、病室の準備をして待った。
「赤城、頼む」
 いやに顔が整った男の腕に抱かれて、その少年は運ばれてきた。
 少年の顔が苦しそうに歪んでいる。
「アオイ、大丈夫か? 俺がわかるか」
「イ、イツキ……」
「そうだ。ごめん、そばにいてやれなくて、ごめんな」
 蒼野樹。俺の恋敵の息子。女絡みの恋敵ではない。ある男を挟んで、相手を妬んだり、醜く嫉妬したり、恥ずかしい部分を見せた相手だ。
 そこまでした恋を、俺は自ら捨てた。
 その息子が俺の目の前で、友達の心配をしている。その少年こそ、俺が捨てた恋の相手である男の息子……。
「大丈夫だよ。僕は平気」
「樹くん、ちょっと代わってくれるかな」
 別に意地悪をするわけではない。これも俺の仕事だ。俺が話を聞かなくてはいけない。
「葵天くん、ここがどこかわかるかい」
「ドクターのクリニックですよね」
「そうだ。なぜ、ここにいるかわかるかい」
「さっき、夕食が終わって、僕は少し休んでいたんです」
「それで」
「それで……ギターの音が聞こえて。伊織のギターの音」
「ギターの音?」
 ドラムではなく?
「その音がとても心地よくて……僕、そのまま眠ったんです」
 ギターがある種の鎮静剤……?
「伊織くんは……」
「俺です」
「彼を抱きかかえて運んでくれた……」
「うちのバンドPRISMのメンバーです」
 この子はたしか……立花翠の親衛隊だった、佐々木の息子。
「君はたしか……」
「はい、佐々木楓です」
 やっぱりそうか。
「葵天くんは、樹くんの家にはいなかったの?」
「夏休みの間は、神楽台のマンションにいるんです。俺らバンドメンバーと一緒に」
「君の他には……伊織くんと?」
「僕、西園寺薫だよ」
「じゃあ、楓くんと伊織くん、そして薫くんの三人だね」
「はい。夕食後、頭が痛いと言うのでソファーに座って休ませていたら、突然パニックを起こして……」
「それは、びっくりしたね。でも大丈夫だよ」
 この先は、俺の仕事か。
「わかった。それじゃあ、ここからは俺の仕事だな。蒼野、佐々木と手分けして、子供たちを送ってやってくれ」
「わかった」
「やだよ、俺アオイのそばにいる」
「樹、とりあえず今夜は赤城に任せよう。うちの母さんも、滝さんも心配している」
「……わかった。帰るよ」
「俺たちも、帰ろう。な、イオリ」
「……」
 樹と伊織は少し思うところがあるようだが……今はまず葵天だな。
「今、『独りぼっち』なんて思った?」
「ドクターは人の心が読めるんですか」
「人の心は読めないけど、そうかなって察することはできるよね」
 相変わらず手強いな、この子。でも、ちゃんと話を聞いて、心を少しでも軽くしてやりたい。
「ドクター。僕、思い出したんです」
「話してくれるかい」
 葵天は、あの事件のことを、しっかりと思い出していた。
「薄れる意識の中でサイレンが鳴っていたんです」
「サイレンは……」
「おそらく、救急車だと思います」
「一台だけ?」
「いくつか音が重なっていました」
 さすがに耳はいいんだな。
「複数の救急車が呼ばれていたってことだね」
「初めは、あの女が制服警官に連れられていきました」
「それで……」
「そのあと、EMTかな……リックを救急車に乗せていったんです」
「それから君はどうしたの?」
「僕はそのまま、そこで意識が飛んでいます」
「そうか……」
「リックは、助かったんですか?」
「申し訳ない。リックのことは、何もわからないんだ」
「何も……どういうことですか?」
 葵天の怒りはわかる、わかるが……こればかりは俺にもどうしようもないことなんだ。
「事務所と、業界と、警察が、意図的に情報を開示しなかった」
「でも……僕、当事者ですよ。知る権利はありますよね」
「おそらく、リチャードの家族が絡んでいるのかもしれない。君の話では、逆恨みのようだから、報復を恐れて……とか」
「……」
「ところで、君とリチャードの関係を教えてくれるかい?」
「恋人です」
 はあ?! 十四、五歳だよな。
「……恋人って、キスした?」
「しました」
「その先は?」
「その先になにがあるんですか?」
「そうか……わかった」
 なんだ、やはり子供だな。父親でもない俺が、どこかほっとしている。
 葵天は、リチャードとの出会いまで遡って話し出した。
「僕が十歳になる年に、フランスからアメリカへ渡りました。バンドメンバーの中で一番年齢が近かったのが、リチャード……リックだったんです。初めは、お兄ちゃんの後ろをついてまわる程度のことでした。でも、十五歳の誕生日直前に、僕はリックに告白をしてしまったんです」
 怖いもの知らずなのか?
「リックは答えてくれた?」
「うん。その日、僕の初恋が実りました」
「たしか、リチャードは二十歳くらいだったよね」
 二十歳なら、分別があっても不思議ではないな。
「そう。……恋人がいたんだ」
「恋び……と」
「彼女は僕の目の前に立ちはだかり、僕に恨み言を投げかけていた」
「恨みか……」
 リチャードが彼女を蔑ろにしたのか、それとも彼女の勘違いか……。
「僕は、二人の運命を変えてしまったんだ。ドクター、僕はどうしたらいいですか?」
 どうしたらいいか……か。
「君が運命を変えた?」
「そうです」
「じゃあ、君は好きな人を簡単に諦められるのかい」
 葵天は首を横に振った。
「俺もそうさ」
「ん?」
 いけね。余計なことを口走ってしまった。……シラを切ろう。
「君のせいではないが、君の思いが絡んでいることは間違いないね」
「ぐっ……」
 正面から否定しても、救われるものではない。かといって、肯定しても然り。難しいところだが、曖昧にするしか今は手だてがない。
「葵天くん。もし、リチャードが生きているとしたら、もう一度会ってみたい?」
 期待させるのは良くないが、少しくらいは希望があった方がいいのかもしれない。
「会いたい……会って話したいことがたくさんある」
 話したいことか……。日本に来ていろいろ見つけたのかもしれないな。
 樹と伊織……もしかしたら、もっとたくさんの何かを。
 ──────────
 次の日。脳波などの検査を終え、面会時間が来る前のわずかな時間。俺は、葵天とゆっくり話をしようと病室を訪れた。
「葵天くん、少し話をしないか?」
「はい。僕もドクターにお聞きしたいことがあるんです」
「わかったわかった、まずは俺から聞くよ」
「はい」
「樹くんのことは好きかい?」
「好きです。僕の大切な人です」
「好きって……友達として?」
「だと思います。でも……イツキは『僕に彼女ができても、バンド組んで別の道を歩くとしても、イツキは僕のそばにいる』って、約束してくれたんです」
「それは……愛されているね、葵天くん」
「愛、ですか? 愛されたことなんてないと思ってた」
「愛っていっても、恋愛以外にも親子とか兄弟とか、友達でもあるよね?」
「……親……子」
「君はきっと、知らないうちに、たくさんの愛をもらっていたのかもしれないね」
「そうなんですね」
 両親と暮らしていない負い目みたいなものを、抱えているのかもしれないな。
 ギターの音はなんだったのか、聞いてみるか。
「今までもパニックになったことはある?」
「怖い夢を見て震えている時は、必ずイツキが僕を抱きしめてくれていたの」
「でも、昨日はいなかったよね」
「昨日は……伊織がぎゅって抱きしめてくれて、ギターの音が聞こえて、安心した」
「なぜギターの音?」
「僕、伊織のギターの音、大好きなの」
「どんな音?」
「やんちゃな、いたずらっ子みたいな音」
「えっ?」
「意地悪に僕を煽ってきたり、それでいて、ついて来いって言ってるみたいで……でも、音を重ねると、優しく包んでくれるような」
 この子……恋をしているのか? 音に恋をしている。
「ドラムは楓くん?」
「違うよ、カオル」
「どんな音?」
「カオルの太鼓はね……明るい」
「楽しそうだね」
「楽しいけど、のってくると走り出すから、ギターとベースが睨みをきかしている。それが面白くて。キャハッ」
「本当に楽しそうだね」
「うん。僕のもうひとつの居場所になったんだ」
 日本へ来たことで、ひとつまたひとつと、足りなかったものを手にし始めたんだ。
「ドクター、僕からも聞きたいことがあるんだけど……」
「なにかな。お手柔らかに頼むよ」
「ドクター、蒼野さんと友だちって、高校時代の話ですか」
「そうだよ」
「パパは一年の二学期に編入してきたんでしょ。パパとも友だちだった?」
「俺のクラスに編入してきて、卒業まで一緒だったよ」
「WOW! 好きだった?」
「君は何が聞きたいのかな」
「だって、ドクター……僕の向こうにパパを見ているのでしょう?」
 勘の鋭い子だ。もう、時効だよな。
「俺は、レオが編入してきたその日に恋に落ちた」
 葵天……そのキラキラな瞳はなんだ。
「胸がキュウってしましたか? ドキドキが止まらなくて、心臓が爆発しそうだった?」
「葵天くん、君も体験したことあるの?」
「伊織のギターを初めて聞いた時。彼と初めて話した時。でもそのあと頭が痛くて、よくわからなかったんだ」
「俺も心臓の音がうるさかったな」
「じゃあ、僕もイオリのギターに恋したんだ」
 ギターか……そうだよな。
「それで、パパとは仲良くなったの?」
「とっても仲良しだったよ。蒼野と三人でよく遊んだ」
「でも、バンドは一緒じゃなかったよね」
「バンドは翠女子の親衛隊がやっていたね」
「佐々木さんがベース……」
「田所がドラムで山口がキーボード」
「ん?!」
「今の学園長だよ」
「WOW、学園長って音楽やっていたんだ」
 こんなに楽しそうな顔をして、もう大丈夫そうだな。
「翠女子の親衛隊が『レオからみどりちゃんを守るぞ』って言ってたけど、結局翠女子がレオを押し切ったよね」
「パパを母さまに取られたの?」
「母さまから?」
 あのころの翠女子は勢いがあったな。
「そうだ。あのころの彼女は、レオ大好き光線を出していたからね」
「ふうん。あの母さまが……可愛い」
「レオとは、互いにやりたいことが違っていたからね。俺自身、束縛するのも嫌だなって思ったから、俺から離れた」
「ドクターから……でも未だに独身ですよね。なぜ?」
「あれほどの人間に出会っていないだけだよ」
 まったくこの子は、痛いところをついてくる。あんなにいい男、もう二度と出会えないだろうな。
「僕も、あの音以上のものには、この先出会えないような気がするんです。だから、彼らと一緒にバンドやりたいなって思ったんだ」
 それで、『僕の居場所』なんだな。
「アオイ!」
「イツキ……みんな来てくれたの? ありがとう」
 こんなに十代の若者が集まるんだ。日本に来て良かったな、葵天。
「こりゃ、この病室が学校の教室みたいになったな。このキラキラした部屋からおじさんは退散だ」
 彼らの葵天を案ずる気持ちも、大好きだという気持ちも、痛いほど伝わった。それに、葵天は無自覚な甘え上手だということも発見できた。
 俺もあんなふうに明るい青春だったかな。若いって、羨ましい。
 まあ、俺も葵天のあの笑顔が好きになったひとりだ。
 レオ、お前は今どうしている? 息子を手放し、妻と離れて本当にお前は幸せなのか。俺は、そんなことさえ、気にしなくていい人生を送っている。やはり、お前と俺は違いすぎたんだな。
 またいつか会えたら……なにを話すのかな。
2/2ページ
スキ