黒猫
ある夏の日、僕はバンド仲間のリチャードと、フェスが始まる前に街へ繰り出していた。
すると突然、隣にいたリチャードに突き飛ばされ、僕は地面に倒れ込んだ。次の瞬間、一発の銃声が鳴り響いた。逃げ惑う人々の叫び声。鼻につく血の匂い。そして、僕のそばに彼が血を流して倒れてきた。
「Aaaah! リック! リッ……」
顔を上げる。目の前には、拳銃を握りしめたまま、呆然と立ちすくむ女がいた。僕は血の付いた左手を頬に当て、その女を睨みつけていた。
なぜ、こんな事をするのかわからない。
なぜ、人が人を傷つけるのか。
僕も撃たれるのだろうか。
だったら、いっそ僕もリックと一緒に……。
遠くでサイレンの音がする。警察……レスキュー。僕はどうなるのかな……リックは……視界が狭くなる……。
それまでの幸せな時間が、すべて消えていった。
十五歳。夏の終わりの、暑い日の出来事だった。
────────────────────
僕は立花葵天(たちばなあおい)。フランス名はミシェル・エミール・ド・リシャール。
聖陵学園大学附属高等学校の三年、十八歳。
僕の父はフランス人、母は日本人。僕はいわゆるダブルで、フランスと日本の二重国籍を持っている。父はアメリカを拠点にギタリストとして活動し、ミュージシャンを生業としている。母はフランスの大学で文学や言語の研究をしている。時々、恋愛小説なども執筆するようだ。
そんな両親のもとに生まれたのがこの僕。フランスで生まれて父方の祖父母の家で育ち、十歳の時にアメリカへ渡った。だが、ある事件をきっかけに、十五歳のクリスマスに、初めて日本へやってきた。
────────────────────
フランスでは、祖父にバイオリンを習い、祖母にピアノを教わった。
その祖父母が演奏旅行へ出かける時は、僕も一緒に出かけ、各地の教会などで演奏していた。
アメリカでは父にギターを教わり、親子共演で各地のステージを沸かせた。アメリカの五年間は、バックバンドの一員として父と共に各地を巡る日々を送っていた。
母からは、日本語を教わった。
「日本語は美しい言語なの。どの言葉よりも表現が豊かなのよ」
僕が話す日本語は、母からの贈り物だ。
そんな僕は、同じ年頃の子供たちのように、学校へ通ったことがない。そのことに気付いた母が、オンラインで年相応の教育が受けられるよう、研究仲間や教授たちに頼んだ。
──────────
十二歳、アメリカ。その年のサマーバケーション。
パパの元バンドメンバーでベーシストの佐々木さんと学生時代の友人である蒼野さんが、それぞれ息子を連れてアメリカに遊びに来ていた。
佐々木楓(ささきかえで)と、蒼野樹(あおのいつき)。二人とも僕と同い年だ。
ちょうどその時、アメリカでバレーボールの世界大会が開かれ、そのオープニングセレモニー(前夜祭)に僕が呼ばれた。パパではなく、この僕が単独で演奏することになった。
ふたりは、僕のマネージャー気取りでステージ袖から演奏を聴いている。
演奏が終わり、ステージ袖の二人に感想を聞いた。
「どうだった」
「かっこよかったよ」
「天使の歌声だ」
相変わらず樹は調子がいい。
そして僕らは、パーティ会場へと移った。
パーティは家族同伴ということで、選手の家族も大勢いた。そんななか僕らと同じくらいの男の子がひとりいた。
「やあ! 僕のギター聴いてくれた?」
「あ、かっこよかったよ」
「ありがとう。僕ミシェル。君は?」
「リアム」
「リアム、このふたりは、僕の友達だよ。カエデとイツキ」
「よろしくな!」
樹が日本語で話しかけると、リアムも日本語で返してきた。
「リアム……です。よろしく」
「お前、日本人か?」
「パパはアメリカ人で、ママが日本人なんだ。うちでは……日本語と英語……半々で話してる」
「えっ。僕はね、パパがフランス人でママが日本人なんだ。日本語はママに教えてもらったんだ」
急にリアムとの距離が縮まったような気がした。
「君の瞳の色、綺麗だね」
彼の漆黒の瞳に、吸い込まれそうな気がした。
「あっ、ごめん。変な色だろ……」
「どうして。とても綺麗だよ。カエデやイツキより、綺麗な漆黒の瞳だ」
その時、リアムを呼ぶ声がした。
「リアム! こんなところにいたのかい?」
「大きいなあ」
僕は、見上げるほどのその大きな体に驚いた。
「リアムのお父さんですか」
「そうだよ。君はミシェルだね。さっきのギターは素晴らしかった」
「ありがとう。あなたはノア・デイビッド・ミラーですよね」
「よくわかったね」
「今回の出場選手の情報は、この頭の中に入っています」
思わず胸を叩いた僕は「ゲホッゲホッ」と、咳き込んでしまった。
「大丈夫かよ」
楓が心配そうに僕の背中を撫でてくれる。
「おじさん、もう少しリアムと一緒にいてもいい?」
樹がリアムパパにお願いすると、彼は「OK」と笑った。
「リアム、まだ食べられるか? あっちに美味そうな魚料理があったんだ。取りに行こうぜ」
「OK」
樹たちと入れ違いに、アメリカチームのスミスがやって来た。
「ノア! 何してる」
「やあ、リアムを探していたら、可愛らしい天使に出会ってね」
うっ、また「天使」って言われた。名前と見た目のせいかな……。
「本当だ。ミシェル、ギターかっこよかったぜ」
「ありがとう。スミス」
「WOW! 俺のこと知ってるんだ」
「彼は選手の名前と顔を覚えたそうだよ」
「そりゃあすごい」
「じゃあ、こいつらわかる?」
「イタリアチームのピエールとフランスチームのフランクだよね」
「こりゃ、驚いた」
「アイツ、トリリンガルか」
小さな声で日本語が聞こえた。僕はその声に自然と反応していた。
「はい」
振り返ったその男は、岩田優一(いわたゆういち)。当時十七歳。日本ナショナルチームの選手だ。
「君、日本語も話すの?」
「はい、僕の母は日本人です」
「じゃあ、国籍は日本?」
「はい、フランスと日本の二重国籍です」
なぜかその人のことは、適当にあしらうことができなかった。
「そっか、バレーボールに興味ある? 中学生とか高校生になってからでも良いからさ、バレーやってみない?」
「はい。俺、やります。かっこいいですよね。ゲームの司令塔……俺、セッターやりたいです」
そういえば樹は、優一と約束のまねごとをして、あの時からバレーボールが大好きになったんだ。
そして樹は宣言通り、セッターのポジションに就き、ゲームを支配している。
本当に楓と樹には、助けられっぱなしだった。
────────────────────
そんな僕がなぜここ、日本にいるのか……。それは僕が十五歳だった頃まで遡る。
その年の秋、僕はサンタモニカの病院にいた。
「アオイ、気がついたのか? 俺がわかるか?」
「イツキ……ここはどこ?」
「ここは病院だ。お前二か月も昏睡状態だったんだぞ」
「どうして?」
「街で事件に巻き込まれてさ、頭ぶつけて担ぎ込まれたんだ」
「…………僕、覚えてないや」
「お前……」
「樹くん、ちょっといいかい」
樹の後ろから白衣を着たドクターが顔を見せた。
「葵天くん、ここは病室です。なぜここにいるかわかりますか」
「いいえ、僕はフェスに参加するためパパたちと一緒にビーチの特設会場へ向かっていたはず……」
「会場へは着いていましたか」
「いいえ、事務所から向かっている途中でした」
「そこに誰がいましたか」
「パパと、バンドメンバーです。機材は別トラックで運んでいるので、人間だけバスに乗って……それからどうしたかな……」
「メンバーの名前を言えますか」
このドクターは、どうしてそんな事を聞くのだろうか。なんだか尋問されているみたいだな。
「パパと女性ギタリストのケイトと、キーボードのルイーズと、ベーシストのケインですよ」
「ドラムの人はいないんですか」
「だって、僕がドラマーだよ」
「君がドラムを叩いていたのかい」
「そうさ、ギターも弾くけどドラムも……」
「どうしましたか」
「……どうして僕、ドラムが叩けるのかなって……」
「誰かに教わった」
「分かりません。でも叩けるんです」
「……そうですか。じゃあ君はリチャードという名前に聞き覚えがある」
「リチャード……知らないです。誰ですか、その人」
「いえ、その人も音楽をやっていた人でね。君と会っていたかもしれないなと思っただけですよ」
「そうですか。どんな音楽をやっていたんでしょうね。もし機会があればその人の音を聞いてみたいです」
「そうですね。君は音楽が好きなんですね」
「はい、小さい頃はバイオリンやピアノを弾いていました。アメリカに来てロックに出会ってからは、いろんな音に触れてみたくなったんですよね」
ドクターと音楽の話をしていると、母さまが心配そうな顔をして部屋に入ってきた。
「母さま、お仕事はよろしいんですか?」
「ええ、大丈夫よ……それよりも葵天、あなた日本へ行く気はないかしら。日本で高校生活を送るといいわ」
「こうこう生活……」
もちろん、僕にはなんのことやらさっぱりわからなかった。だから、そこにいた樹に「高校生活」の説明をしてもらったんだ。
「そうだな。ざっくり言ってしまえば、十六歳から十八歳までの生徒がいて、三学年に分かれる。十六歳っつっても、俺らなら来年十六になるから、俺らが対象。わかるか」
「あまり……」
「だよな。でも俺らは来年、高校生になるんだ。それくらいはわかるか」
「うん。僕も高校生になれるんだ」
「そういうこと。そして、同世代の人間と一緒に勉強をしたりスポーツをしたりする」
「一緒に勉強……。僕、経験がないや」
「まじか。一度も学校へ行ったことないのか」
「うん。教育はオンラインで受けてきたから……」
一瞬、驚いた顔を見せた樹だったが、それ以上は何も言わなかった。
「アオイ、俺、中学から……ああ、十三歳からバレーボールやってるんだ。覚えてないか、こっちで開かれた世界大会」
「ああ、ユウイチやスミスにピエール、フランクと友達になったよね」
「いや、俺はユウイチさんしか知らない。まあ、そん時にさ、俺やるって言ったろ? で、今セッターやってんだぜ」
「かっこいい」
「へへん。俺以外にも愉快なヤツらがたくさんいるんだ。いろんなことして遊んだり、頭を痛めながら勉強したり……」
「嫌そうだね」
「しょうがねえよ、勉強苦手なんだから」
「僕……その苦手を克服する手伝いできるかな」
「できる」
「母さま。僕、イツキと一緒に日本へ行ってもいいですか」
「ええ、もちろん。日本で同世代の人たちと接することを学んできなさい」
「うん」
僕は母さまの言っていることが少しだけ分からなかったけれど、樹となら楽しい時間が過ごせるような、ワクワクする気持ちが込み上げてきた。
──────────
それから数日経って僕は蒼野親子と共に日本へとやってきた。
空港から樹の家までは多田野と名乗る運転手の車で向かう。途中、睡魔に襲われ眠ってしまった。夢の中で、あの事件の光景をまるで映画のワンシーンのように見た。目の前に倒れているのが誰なのか、分からないまま恐ろしさで目を覚ます。
「あ"あ"……」
「アオイ、どうした。アオイ」
樹の声がする。
「アオイ、大丈夫か。しっかりしろ」
「イツキ……」
「そうだよ。俺だ。寝ぼけたのか。俺のこと、わかるか」
「うん、怖い夢を見た……」
「ただの夢だよ、気にしなくていい。俺がそばにいるから安心しろ」
「うん、ありがとう」
僕は、樹にしがみついたまま車に揺られた。
「アオイ、もうすぐ着くよ。母さんが美味しいご馳走を作って待ってるって。アオイの好きなものを並べてるはずさ」
「嬉しいな、君のママの手料理を楽しみにしていたんだ」
もしかしたら僕の顔は引きつっていたかもしれない。それでも樹がそばにいてくれれば、多分大丈夫だ。
樹のパパは、僕のパパとは違う意味で素敵な人だ。ママはとても優しくて料理が上手だと聞いている。今夜はその答え合わせだ。
「何ニヤついてんの?」
「えっ?! いや、イツキのママは料理上手だと君がいつか言っていたから、今夜はその答え合わせだなって思って……」
「じゃあ、美味しかったら母さんに大きな花まるあげて」
樹は楽しい男だ。いつも僕を笑わせてくれる、僕の大切な人 、友達だ。
「ハナマル?! 鼻に丸を書くの」
「違うよ。植物の花。こうクルクルと線を書いてその周りに花びらを描く花まる」
「それはどういう意味なの?」
「よくできましたの印だよ」
それはまるで、子供に与えるご褒美のようだ。僕の小さい頃は、おばあ様が作ってくれたスタンプを、バイオリンやピアノのお稽古が上手にできた時、楽譜の余白に押してくれた。それと同じなのかな。
「わかった! 何か描くものを用意してね」
「いやいや、空中に描けばいいんだ。真面目か」
樹は時々おかしなことを言う。空中に描いても、目に見えないのに。
「見えなくていいの?」
「空中に描かれた花まるをちゃんとかあさんは見てくれるよ」
そうなんだな。
車が静かに止まり、優しい笑顔を見せる女性が二人立っていた。
「ただいま! アオイ、かあさんと姉貴の奏子(かなこ)だ」
「初めまして、立花葵です。今日からお世話になります」
「長旅お疲れ様、さあさ中に入って」
樹が言った通り、優しそうなママだ。
「お邪魔します」
樹の家は三階建ての一軒家だ。土地が少ないため階を重ねる造りをしている。アメリカの家は平屋が多い。街に出ればアパートメントが主流だ。僕もそんなアパートメントの一室に住んでいた。
「さあ、手を洗ってきて。夕食にしましょう」
樹ママの声は少しトーンが高くて、絹の衣が擦れるような響きだ。優しくて心地いい。
食卓には、僕の好きなパスタ料理と、フライドチキンやマッシュポテトが並んでいた。それと和食だと思われる物が並んでいて、少し不思議な光景だ。
「すみません。僕のために妙な取り合わせになってしまって……」
「そんなこと、子供が気にすることないのよ。好き嫌いがなければ、遠慮しないでたくさん召し上がれ」
「はい。いただきます」
どれも美味しいな。樹が言っていた事は間違いじゃなかった。本当に樹ママは料理上手だ。
「どうだ? 上手いだろ」
僕は宙に大きく花まるを描いた。
「なぁに? その花まるは母さんにくれるのかしら」
「はい。どれも美味しいです。イツキが自慢するのわかりました」
「自慢……どういうこと」
「母さんは料理が上手いってコイツに自慢してたんだ」
樹ママは可愛らしく照れていた。そのママを見つめる樹パパが優しく微笑んでいる。こんな両親のもとで育ったから樹は良い奴なんだな。
「ご馳走様でした。汚れた食器、洗いますね」
「いいのよ葵くん、流しまで下げてくれるだけで」
「それではイツキママの負担が増えます」
「さっすがはレディーファーストの国に育った紳士よね。日本人の男子は女子の負担なんて考えやしない。まあ、我が家の男たちはそうでもないけど」
奏子姉さん、「レディファースト」って……日本では違うの?
「うちではね。お父さんが外で働いて、私が家のことをする、そうやって、あなたたちがちゃんと大人になるのを見守っているのよ」
樹ママが家を守っているのか? いや、そういう意味ではないのか。
国が変われば文化も考え方も変わる。
When in Rome, do as the Romans do.
郷に入っては郷に従えだな。
「それではお言葉に甘えて下げるだけにします。ただこの先長くお世話になるので、この家の住人として手伝うことがあれば、遠慮なく言いつけてください。でなければ僕、ここにいられなくなります」
「そうね、明日からは何かとお手伝いをしてもらうわ。葵天くんは我が家の一員だものね」
本当に優しいママだ。イツキはきっとたくさん愛されてきたんだろうな。
「アオイ、部屋行こう」
樹に言われるまま三階の子供部屋へ向かった。
「俺の隣の部屋がアオイの部屋な」
「別々なんだね」
「なに、子供の頃のように一緒に寝るか」
そういえば十二歳のサマーバケーションは楓を含めた三人でひとつのベッドだったな。でも、今は体も大きくなっているし無理か。
「一緒に寝てもいいけど、そのベッドでは狭いな」
「お前ん家のベッドでかかったからな。楓と三人で転がってた」
「あれはねパパの趣味。大人でも二、三人は寝られそうな広さだったよ」
そんな昔話をしていると部屋のドアをノックする音がした。
「イツキ、お風呂の支度ができたから順番に入っちゃって」
「はあい。アオイ先入るか。案内するよ」
「ねぇ、漫画にさ……大きいお風呂に、大勢で入っているシーンあったでしょ。お風呂ってあんな感じなの」
「はあ?! 家庭の風呂はもっと狭いし、ひとりで入るんだよ。小さい子供なら親と入ることもあるけどさ。それに、あれはローマ時代の人間がタイムスリップしてくるファンタジー漫画だろ。それともなにか、一緒に入りたいの」
「いやもう子供じゃないし、ひとりで入るよ」
「だよな、ハハハ」
樹からお湯の出し方などを教わり、ひとりでゆっくり湯に浸かる。血の巡りが良くなって体が熱くなるのを感じる。一日の疲れが取れるというのは案外本当なのかもしれない。
風呂から上がり、ひとりでベッドに入ると眠気が襲ってきた。ゆらゆらと黒い影が迫ってくる。
「あ"あ"……」
「アオイ、大丈夫か。アオイ、入るぞ」
部屋に入ってきた樹に僕はしがみついた。
「大丈夫か。また夢を見たのか」
「黒い影が迫ってくるんだ。血の匂いが鼻について……」
震える僕を樹の腕が包み込んでくれる。温かい。
「ただの夢だ。もう大丈夫だから、俺がそばにいる。ずっとそばにいるから」
僕はその言葉だけで安心できた。樹がそばにいてくれる、それだけでゆっくりと眠ることができた。
「イツキ、おはよ」
眠っている樹の額に、僕は軽くキスをした。
「ん……お、お前今何した」
「えっ?! おデコにキスしたよ」
「やめろよな」
「ごめん……じゃあ、ママの手伝いしてくるね」
キスが嫌なのかな。「おはよう」のキスって、しないのかな。
「俺も起きるか……」
「もう少し寝てていいよ。後で起こしてあげるから」
階下へ降りて樹ママの手伝いをする。ママの嬉しそうな顔を見ているだけで僕も嬉しくなってくる。夜になればまたあの悪夢を見るのかと不安にはなるけれど、樹がそばにいてくれるなら怖くないと思える。
暗いトンネルも、いつか出口が見えてくるはずだ。僕を怯えさせる悪夢も、いつか終わる日が来ると信じている。
樹、ありがとう。
こうして僕が初めて日本の地を踏んだ年は、静かに幕を下ろそうとしていた。
「明日初詣に行かないか」
「はつもうで……」
「そっ。去年への感謝と、新年の無事を祈るんだと思う」
「なぁに、はっきりしないのかな」
「多分正解だと思うってか、来年度のインハイ優勝を祈願しに行こうぜ」
「いんはい……」
「インターハイ。全国大会だ。そして、全国制覇」
「全国……つまり、日本一。フフフ、神頼みをするのもありかもね」
「負けるとは思わないが、俺ら一年生がレギュラーになるとも思えないからさ」
「わかった」
そんな話をしていると樹の携帯が賑やかに音楽を鳴らした。
「了解。俺、友達も連れていくから……ん? 幼なじみだよ。そう一般入試。じゃあ明日な」
樹の声がはしゃいでいる。しかも明日僕を誰かに会わせようとしている。
「明日さ、部活の奴らと初詣に行くぞ」
「バレー部」
「おお、結構楽しい奴らだからお前も気に入ると思うぞ」
「気に入るって……」
「俺の仲間に会わせるんだし、気に入ってもらわないと俺が困る」
そうか。樹の友達なんだよね。僕も友達にしてくれるかな。
「同い年の仲間なんていなかっただろ。おもしれぇぞあいつら」
「うん。僕も友達になれるよね」
「おお」
そんな僕が通うことになった聖陵学園は母さまの母校で、理事長は学友だと聞いている。樹パパも一緒だったと記憶している。
「僕の母さまと理事長と樹パパは学友なんだよね」
「そう。そして、ママも姉貴も、ついでに優一さんも聖陵学園の卒業生。世間は狭いね」
「へえ、奏子姉さんも……って、今ユウのことついでって言った。ユウに言っちゃお」
「こら、やめろ。ダメだかんな」
「ハハハ」
そんなに聖陵学園って良い学校なんだろうか。来年の四月からその聖陵学園に通うことになる。まあ、試験に合格すればの話だが……そしたらどれほどの学校なのか分かるかもしれない。楽しみだな。
すると突然、隣にいたリチャードに突き飛ばされ、僕は地面に倒れ込んだ。次の瞬間、一発の銃声が鳴り響いた。逃げ惑う人々の叫び声。鼻につく血の匂い。そして、僕のそばに彼が血を流して倒れてきた。
「Aaaah! リック! リッ……」
顔を上げる。目の前には、拳銃を握りしめたまま、呆然と立ちすくむ女がいた。僕は血の付いた左手を頬に当て、その女を睨みつけていた。
なぜ、こんな事をするのかわからない。
なぜ、人が人を傷つけるのか。
僕も撃たれるのだろうか。
だったら、いっそ僕もリックと一緒に……。
遠くでサイレンの音がする。警察……レスキュー。僕はどうなるのかな……リックは……視界が狭くなる……。
それまでの幸せな時間が、すべて消えていった。
十五歳。夏の終わりの、暑い日の出来事だった。
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僕は立花葵天(たちばなあおい)。フランス名はミシェル・エミール・ド・リシャール。
聖陵学園大学附属高等学校の三年、十八歳。
僕の父はフランス人、母は日本人。僕はいわゆるダブルで、フランスと日本の二重国籍を持っている。父はアメリカを拠点にギタリストとして活動し、ミュージシャンを生業としている。母はフランスの大学で文学や言語の研究をしている。時々、恋愛小説なども執筆するようだ。
そんな両親のもとに生まれたのがこの僕。フランスで生まれて父方の祖父母の家で育ち、十歳の時にアメリカへ渡った。だが、ある事件をきっかけに、十五歳のクリスマスに、初めて日本へやってきた。
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フランスでは、祖父にバイオリンを習い、祖母にピアノを教わった。
その祖父母が演奏旅行へ出かける時は、僕も一緒に出かけ、各地の教会などで演奏していた。
アメリカでは父にギターを教わり、親子共演で各地のステージを沸かせた。アメリカの五年間は、バックバンドの一員として父と共に各地を巡る日々を送っていた。
母からは、日本語を教わった。
「日本語は美しい言語なの。どの言葉よりも表現が豊かなのよ」
僕が話す日本語は、母からの贈り物だ。
そんな僕は、同じ年頃の子供たちのように、学校へ通ったことがない。そのことに気付いた母が、オンラインで年相応の教育が受けられるよう、研究仲間や教授たちに頼んだ。
──────────
十二歳、アメリカ。その年のサマーバケーション。
パパの元バンドメンバーでベーシストの佐々木さんと学生時代の友人である蒼野さんが、それぞれ息子を連れてアメリカに遊びに来ていた。
佐々木楓(ささきかえで)と、蒼野樹(あおのいつき)。二人とも僕と同い年だ。
ちょうどその時、アメリカでバレーボールの世界大会が開かれ、そのオープニングセレモニー(前夜祭)に僕が呼ばれた。パパではなく、この僕が単独で演奏することになった。
ふたりは、僕のマネージャー気取りでステージ袖から演奏を聴いている。
演奏が終わり、ステージ袖の二人に感想を聞いた。
「どうだった」
「かっこよかったよ」
「天使の歌声だ」
相変わらず樹は調子がいい。
そして僕らは、パーティ会場へと移った。
パーティは家族同伴ということで、選手の家族も大勢いた。そんななか僕らと同じくらいの男の子がひとりいた。
「やあ! 僕のギター聴いてくれた?」
「あ、かっこよかったよ」
「ありがとう。僕ミシェル。君は?」
「リアム」
「リアム、このふたりは、僕の友達だよ。カエデとイツキ」
「よろしくな!」
樹が日本語で話しかけると、リアムも日本語で返してきた。
「リアム……です。よろしく」
「お前、日本人か?」
「パパはアメリカ人で、ママが日本人なんだ。うちでは……日本語と英語……半々で話してる」
「えっ。僕はね、パパがフランス人でママが日本人なんだ。日本語はママに教えてもらったんだ」
急にリアムとの距離が縮まったような気がした。
「君の瞳の色、綺麗だね」
彼の漆黒の瞳に、吸い込まれそうな気がした。
「あっ、ごめん。変な色だろ……」
「どうして。とても綺麗だよ。カエデやイツキより、綺麗な漆黒の瞳だ」
その時、リアムを呼ぶ声がした。
「リアム! こんなところにいたのかい?」
「大きいなあ」
僕は、見上げるほどのその大きな体に驚いた。
「リアムのお父さんですか」
「そうだよ。君はミシェルだね。さっきのギターは素晴らしかった」
「ありがとう。あなたはノア・デイビッド・ミラーですよね」
「よくわかったね」
「今回の出場選手の情報は、この頭の中に入っています」
思わず胸を叩いた僕は「ゲホッゲホッ」と、咳き込んでしまった。
「大丈夫かよ」
楓が心配そうに僕の背中を撫でてくれる。
「おじさん、もう少しリアムと一緒にいてもいい?」
樹がリアムパパにお願いすると、彼は「OK」と笑った。
「リアム、まだ食べられるか? あっちに美味そうな魚料理があったんだ。取りに行こうぜ」
「OK」
樹たちと入れ違いに、アメリカチームのスミスがやって来た。
「ノア! 何してる」
「やあ、リアムを探していたら、可愛らしい天使に出会ってね」
うっ、また「天使」って言われた。名前と見た目のせいかな……。
「本当だ。ミシェル、ギターかっこよかったぜ」
「ありがとう。スミス」
「WOW! 俺のこと知ってるんだ」
「彼は選手の名前と顔を覚えたそうだよ」
「そりゃあすごい」
「じゃあ、こいつらわかる?」
「イタリアチームのピエールとフランスチームのフランクだよね」
「こりゃ、驚いた」
「アイツ、トリリンガルか」
小さな声で日本語が聞こえた。僕はその声に自然と反応していた。
「はい」
振り返ったその男は、岩田優一(いわたゆういち)。当時十七歳。日本ナショナルチームの選手だ。
「君、日本語も話すの?」
「はい、僕の母は日本人です」
「じゃあ、国籍は日本?」
「はい、フランスと日本の二重国籍です」
なぜかその人のことは、適当にあしらうことができなかった。
「そっか、バレーボールに興味ある? 中学生とか高校生になってからでも良いからさ、バレーやってみない?」
「はい。俺、やります。かっこいいですよね。ゲームの司令塔……俺、セッターやりたいです」
そういえば樹は、優一と約束のまねごとをして、あの時からバレーボールが大好きになったんだ。
そして樹は宣言通り、セッターのポジションに就き、ゲームを支配している。
本当に楓と樹には、助けられっぱなしだった。
────────────────────
そんな僕がなぜここ、日本にいるのか……。それは僕が十五歳だった頃まで遡る。
その年の秋、僕はサンタモニカの病院にいた。
「アオイ、気がついたのか? 俺がわかるか?」
「イツキ……ここはどこ?」
「ここは病院だ。お前二か月も昏睡状態だったんだぞ」
「どうして?」
「街で事件に巻き込まれてさ、頭ぶつけて担ぎ込まれたんだ」
「…………僕、覚えてないや」
「お前……」
「樹くん、ちょっといいかい」
樹の後ろから白衣を着たドクターが顔を見せた。
「葵天くん、ここは病室です。なぜここにいるかわかりますか」
「いいえ、僕はフェスに参加するためパパたちと一緒にビーチの特設会場へ向かっていたはず……」
「会場へは着いていましたか」
「いいえ、事務所から向かっている途中でした」
「そこに誰がいましたか」
「パパと、バンドメンバーです。機材は別トラックで運んでいるので、人間だけバスに乗って……それからどうしたかな……」
「メンバーの名前を言えますか」
このドクターは、どうしてそんな事を聞くのだろうか。なんだか尋問されているみたいだな。
「パパと女性ギタリストのケイトと、キーボードのルイーズと、ベーシストのケインですよ」
「ドラムの人はいないんですか」
「だって、僕がドラマーだよ」
「君がドラムを叩いていたのかい」
「そうさ、ギターも弾くけどドラムも……」
「どうしましたか」
「……どうして僕、ドラムが叩けるのかなって……」
「誰かに教わった」
「分かりません。でも叩けるんです」
「……そうですか。じゃあ君はリチャードという名前に聞き覚えがある」
「リチャード……知らないです。誰ですか、その人」
「いえ、その人も音楽をやっていた人でね。君と会っていたかもしれないなと思っただけですよ」
「そうですか。どんな音楽をやっていたんでしょうね。もし機会があればその人の音を聞いてみたいです」
「そうですね。君は音楽が好きなんですね」
「はい、小さい頃はバイオリンやピアノを弾いていました。アメリカに来てロックに出会ってからは、いろんな音に触れてみたくなったんですよね」
ドクターと音楽の話をしていると、母さまが心配そうな顔をして部屋に入ってきた。
「母さま、お仕事はよろしいんですか?」
「ええ、大丈夫よ……それよりも葵天、あなた日本へ行く気はないかしら。日本で高校生活を送るといいわ」
「こうこう生活……」
もちろん、僕にはなんのことやらさっぱりわからなかった。だから、そこにいた樹に「高校生活」の説明をしてもらったんだ。
「そうだな。ざっくり言ってしまえば、十六歳から十八歳までの生徒がいて、三学年に分かれる。十六歳っつっても、俺らなら来年十六になるから、俺らが対象。わかるか」
「あまり……」
「だよな。でも俺らは来年、高校生になるんだ。それくらいはわかるか」
「うん。僕も高校生になれるんだ」
「そういうこと。そして、同世代の人間と一緒に勉強をしたりスポーツをしたりする」
「一緒に勉強……。僕、経験がないや」
「まじか。一度も学校へ行ったことないのか」
「うん。教育はオンラインで受けてきたから……」
一瞬、驚いた顔を見せた樹だったが、それ以上は何も言わなかった。
「アオイ、俺、中学から……ああ、十三歳からバレーボールやってるんだ。覚えてないか、こっちで開かれた世界大会」
「ああ、ユウイチやスミスにピエール、フランクと友達になったよね」
「いや、俺はユウイチさんしか知らない。まあ、そん時にさ、俺やるって言ったろ? で、今セッターやってんだぜ」
「かっこいい」
「へへん。俺以外にも愉快なヤツらがたくさんいるんだ。いろんなことして遊んだり、頭を痛めながら勉強したり……」
「嫌そうだね」
「しょうがねえよ、勉強苦手なんだから」
「僕……その苦手を克服する手伝いできるかな」
「できる」
「母さま。僕、イツキと一緒に日本へ行ってもいいですか」
「ええ、もちろん。日本で同世代の人たちと接することを学んできなさい」
「うん」
僕は母さまの言っていることが少しだけ分からなかったけれど、樹となら楽しい時間が過ごせるような、ワクワクする気持ちが込み上げてきた。
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それから数日経って僕は蒼野親子と共に日本へとやってきた。
空港から樹の家までは多田野と名乗る運転手の車で向かう。途中、睡魔に襲われ眠ってしまった。夢の中で、あの事件の光景をまるで映画のワンシーンのように見た。目の前に倒れているのが誰なのか、分からないまま恐ろしさで目を覚ます。
「あ"あ"……」
「アオイ、どうした。アオイ」
樹の声がする。
「アオイ、大丈夫か。しっかりしろ」
「イツキ……」
「そうだよ。俺だ。寝ぼけたのか。俺のこと、わかるか」
「うん、怖い夢を見た……」
「ただの夢だよ、気にしなくていい。俺がそばにいるから安心しろ」
「うん、ありがとう」
僕は、樹にしがみついたまま車に揺られた。
「アオイ、もうすぐ着くよ。母さんが美味しいご馳走を作って待ってるって。アオイの好きなものを並べてるはずさ」
「嬉しいな、君のママの手料理を楽しみにしていたんだ」
もしかしたら僕の顔は引きつっていたかもしれない。それでも樹がそばにいてくれれば、多分大丈夫だ。
樹のパパは、僕のパパとは違う意味で素敵な人だ。ママはとても優しくて料理が上手だと聞いている。今夜はその答え合わせだ。
「何ニヤついてんの?」
「えっ?! いや、イツキのママは料理上手だと君がいつか言っていたから、今夜はその答え合わせだなって思って……」
「じゃあ、美味しかったら母さんに大きな花まるあげて」
樹は楽しい男だ。いつも僕を笑わせてくれる、僕の大切な人 、友達だ。
「ハナマル?! 鼻に丸を書くの」
「違うよ。植物の花。こうクルクルと線を書いてその周りに花びらを描く花まる」
「それはどういう意味なの?」
「よくできましたの印だよ」
それはまるで、子供に与えるご褒美のようだ。僕の小さい頃は、おばあ様が作ってくれたスタンプを、バイオリンやピアノのお稽古が上手にできた時、楽譜の余白に押してくれた。それと同じなのかな。
「わかった! 何か描くものを用意してね」
「いやいや、空中に描けばいいんだ。真面目か」
樹は時々おかしなことを言う。空中に描いても、目に見えないのに。
「見えなくていいの?」
「空中に描かれた花まるをちゃんとかあさんは見てくれるよ」
そうなんだな。
車が静かに止まり、優しい笑顔を見せる女性が二人立っていた。
「ただいま! アオイ、かあさんと姉貴の奏子(かなこ)だ」
「初めまして、立花葵です。今日からお世話になります」
「長旅お疲れ様、さあさ中に入って」
樹が言った通り、優しそうなママだ。
「お邪魔します」
樹の家は三階建ての一軒家だ。土地が少ないため階を重ねる造りをしている。アメリカの家は平屋が多い。街に出ればアパートメントが主流だ。僕もそんなアパートメントの一室に住んでいた。
「さあ、手を洗ってきて。夕食にしましょう」
樹ママの声は少しトーンが高くて、絹の衣が擦れるような響きだ。優しくて心地いい。
食卓には、僕の好きなパスタ料理と、フライドチキンやマッシュポテトが並んでいた。それと和食だと思われる物が並んでいて、少し不思議な光景だ。
「すみません。僕のために妙な取り合わせになってしまって……」
「そんなこと、子供が気にすることないのよ。好き嫌いがなければ、遠慮しないでたくさん召し上がれ」
「はい。いただきます」
どれも美味しいな。樹が言っていた事は間違いじゃなかった。本当に樹ママは料理上手だ。
「どうだ? 上手いだろ」
僕は宙に大きく花まるを描いた。
「なぁに? その花まるは母さんにくれるのかしら」
「はい。どれも美味しいです。イツキが自慢するのわかりました」
「自慢……どういうこと」
「母さんは料理が上手いってコイツに自慢してたんだ」
樹ママは可愛らしく照れていた。そのママを見つめる樹パパが優しく微笑んでいる。こんな両親のもとで育ったから樹は良い奴なんだな。
「ご馳走様でした。汚れた食器、洗いますね」
「いいのよ葵くん、流しまで下げてくれるだけで」
「それではイツキママの負担が増えます」
「さっすがはレディーファーストの国に育った紳士よね。日本人の男子は女子の負担なんて考えやしない。まあ、我が家の男たちはそうでもないけど」
奏子姉さん、「レディファースト」って……日本では違うの?
「うちではね。お父さんが外で働いて、私が家のことをする、そうやって、あなたたちがちゃんと大人になるのを見守っているのよ」
樹ママが家を守っているのか? いや、そういう意味ではないのか。
国が変われば文化も考え方も変わる。
When in Rome, do as the Romans do.
郷に入っては郷に従えだな。
「それではお言葉に甘えて下げるだけにします。ただこの先長くお世話になるので、この家の住人として手伝うことがあれば、遠慮なく言いつけてください。でなければ僕、ここにいられなくなります」
「そうね、明日からは何かとお手伝いをしてもらうわ。葵天くんは我が家の一員だものね」
本当に優しいママだ。イツキはきっとたくさん愛されてきたんだろうな。
「アオイ、部屋行こう」
樹に言われるまま三階の子供部屋へ向かった。
「俺の隣の部屋がアオイの部屋な」
「別々なんだね」
「なに、子供の頃のように一緒に寝るか」
そういえば十二歳のサマーバケーションは楓を含めた三人でひとつのベッドだったな。でも、今は体も大きくなっているし無理か。
「一緒に寝てもいいけど、そのベッドでは狭いな」
「お前ん家のベッドでかかったからな。楓と三人で転がってた」
「あれはねパパの趣味。大人でも二、三人は寝られそうな広さだったよ」
そんな昔話をしていると部屋のドアをノックする音がした。
「イツキ、お風呂の支度ができたから順番に入っちゃって」
「はあい。アオイ先入るか。案内するよ」
「ねぇ、漫画にさ……大きいお風呂に、大勢で入っているシーンあったでしょ。お風呂ってあんな感じなの」
「はあ?! 家庭の風呂はもっと狭いし、ひとりで入るんだよ。小さい子供なら親と入ることもあるけどさ。それに、あれはローマ時代の人間がタイムスリップしてくるファンタジー漫画だろ。それともなにか、一緒に入りたいの」
「いやもう子供じゃないし、ひとりで入るよ」
「だよな、ハハハ」
樹からお湯の出し方などを教わり、ひとりでゆっくり湯に浸かる。血の巡りが良くなって体が熱くなるのを感じる。一日の疲れが取れるというのは案外本当なのかもしれない。
風呂から上がり、ひとりでベッドに入ると眠気が襲ってきた。ゆらゆらと黒い影が迫ってくる。
「あ"あ"……」
「アオイ、大丈夫か。アオイ、入るぞ」
部屋に入ってきた樹に僕はしがみついた。
「大丈夫か。また夢を見たのか」
「黒い影が迫ってくるんだ。血の匂いが鼻について……」
震える僕を樹の腕が包み込んでくれる。温かい。
「ただの夢だ。もう大丈夫だから、俺がそばにいる。ずっとそばにいるから」
僕はその言葉だけで安心できた。樹がそばにいてくれる、それだけでゆっくりと眠ることができた。
「イツキ、おはよ」
眠っている樹の額に、僕は軽くキスをした。
「ん……お、お前今何した」
「えっ?! おデコにキスしたよ」
「やめろよな」
「ごめん……じゃあ、ママの手伝いしてくるね」
キスが嫌なのかな。「おはよう」のキスって、しないのかな。
「俺も起きるか……」
「もう少し寝てていいよ。後で起こしてあげるから」
階下へ降りて樹ママの手伝いをする。ママの嬉しそうな顔を見ているだけで僕も嬉しくなってくる。夜になればまたあの悪夢を見るのかと不安にはなるけれど、樹がそばにいてくれるなら怖くないと思える。
暗いトンネルも、いつか出口が見えてくるはずだ。僕を怯えさせる悪夢も、いつか終わる日が来ると信じている。
樹、ありがとう。
こうして僕が初めて日本の地を踏んだ年は、静かに幕を下ろそうとしていた。
「明日初詣に行かないか」
「はつもうで……」
「そっ。去年への感謝と、新年の無事を祈るんだと思う」
「なぁに、はっきりしないのかな」
「多分正解だと思うってか、来年度のインハイ優勝を祈願しに行こうぜ」
「いんはい……」
「インターハイ。全国大会だ。そして、全国制覇」
「全国……つまり、日本一。フフフ、神頼みをするのもありかもね」
「負けるとは思わないが、俺ら一年生がレギュラーになるとも思えないからさ」
「わかった」
そんな話をしていると樹の携帯が賑やかに音楽を鳴らした。
「了解。俺、友達も連れていくから……ん? 幼なじみだよ。そう一般入試。じゃあ明日な」
樹の声がはしゃいでいる。しかも明日僕を誰かに会わせようとしている。
「明日さ、部活の奴らと初詣に行くぞ」
「バレー部」
「おお、結構楽しい奴らだからお前も気に入ると思うぞ」
「気に入るって……」
「俺の仲間に会わせるんだし、気に入ってもらわないと俺が困る」
そうか。樹の友達なんだよね。僕も友達にしてくれるかな。
「同い年の仲間なんていなかっただろ。おもしれぇぞあいつら」
「うん。僕も友達になれるよね」
「おお」
そんな僕が通うことになった聖陵学園は母さまの母校で、理事長は学友だと聞いている。樹パパも一緒だったと記憶している。
「僕の母さまと理事長と樹パパは学友なんだよね」
「そう。そして、ママも姉貴も、ついでに優一さんも聖陵学園の卒業生。世間は狭いね」
「へえ、奏子姉さんも……って、今ユウのことついでって言った。ユウに言っちゃお」
「こら、やめろ。ダメだかんな」
「ハハハ」
そんなに聖陵学園って良い学校なんだろうか。来年の四月からその聖陵学園に通うことになる。まあ、試験に合格すればの話だが……そしたらどれほどの学校なのか分かるかもしれない。楽しみだな。
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