猫と春。⑤
――明日も休みで良かった。春田は心の底から思っていた。
新しく買ってきた低反発クッションを枕にして、ひとりリビングに寝転ぶ平日の午後。
両目を覆うようにして濡らして絞ったタオルを当てているのだが、溢れてくるものが湿ったパイル面に吸い込まれていく。
今日は午前中、牧に会うために外出していた。待ち合わせしていた場所――天空不動産本社近くのカフェには約束した時間の十分前に着いたが、牧はまだ来ていなかった。
空いている席に座り、コーヒーを注文して、ぼんやり待っていた。
約束の時間になっても牧は姿を見せなかった。ちゃんとお別れを言うために会おうと決心して、昨晩寝付きも悪かったから何度もあくびが出た。
クッションも二人の分、紙袋に入れて持ってきていた。穴が開いて中綿が出てしまった牧のクッションは、出来る限り縫い直して……縫い目が丁寧とは、お世辞にも言えないけれど。
牧は、待ち合わせの時間から二十分近く遅れてやってきた。本社からまっすぐ来たのか、これから出社なのかはわからないが、スーツの上にコートを羽織った姿で。
直接顔を合わせるのが、牧がシンガポールに出向して以来だったせいか、表情には自信と逞しさが窺えるようだった。
「遅れてすみません……昼休み前倒しで出て来たんで、手短にお願いします」
春田の真向かいに座った牧は、コートも脱がずに切り出した。飲み物を注文してきたでもない。ただの用事のひとつとして来たようで、時間に遅れて来たことさえ気にしていないふうで――待ち合わせの場所と時間を指定してきたのは、牧だったのに。
今まで肩の隣にあった牧との時間も、牧に対して抱いた喜びや切なさ、愛しさや嬉しさといった感情も、確かに触れていた体温すらも一気に知らない遠くへ行ってしまった気になる。
二人の間にあったもの、生まれたものって、その程度だったのか……無性に悲しくなって、腹が立って仕方なかった。それでも――いちばん強く込み上げてきたのは、牧凌太を好きだという思い。
最後の最後まで捨てきれなかったお揃いのクッションに、残り続けていた色濃い心。
布の色は薄くなったのに、実際会ってしまうと叫びたくなるくらいに恋心は募る。
三年前、どうして自分たちは別れを選んでしまったんだろう。牧が帰国するまで、我慢できるつもりでいたのに。年上なんだから、度量みたいなものを示せれば良かったのに――誰かに真剣に恋をしたら、自分の弱さばかりが顔を出した。
一人でいるのはわりと平気だったはずなのに、ものすごく淋しがりな自分が内に潜んでいたなんて、牧を好きになるまでは気付けなかった……だから、口から出た言葉は。
「……牧、ごめんな」
帰ってくるまで待てなかったこと、苛立ちや淋しさから心無い言葉をぶつけてしまったこと。
シンガポールへの出向は牧のキャリアアップに必要なことなのに、自分のせいで思い煩わせたこと。そのすべてに対して、出てきた一言だと思う。
「牧のこと、ちゃんと支えられなくて、待ってられなくて、本当にごめん」
やり直しを願わないわけではなかった。自分がもっと大人だったら、もっと年上らしく余裕を持てたら、牧凌太の恋人として自信を持てていたら……そうだったら、牧に「他に好きな人が出来た」なんて言わせなくて済んだのに。
「…………そうやって全部、一人で責任抱えないでくださいよ――俺だって」
真向かいに座った時点から俯き気味だった牧の顔が、こちらに向いた。
黒目の大きな眼には、かつてのような情熱の色はない。
「俺だって……春田さんに、淋しい思いさせるんだって、気付きもしなかったっ……!」
見つけた恋を追いかけるあまりに、想いが繋がり合ったことにばかり気を取られ、若かった自分は考えさえもしていなかった。それは、春田が年上だったからということもあったから。
年下だから無条件に甘えられるものだと無意識に思っていたのかもしれない。
自身の内面が他人には理解されず、隠しもしていた淋しさとは別のものだけど、春田にだって淋しさがあるとは気付けていなかった。
お互いの恋心は結ばれていたとしても、知っていくべきお互いのことはいくらでもあった。
知ろう、話そうとすれば出来ていたことなのに、仕事の充実が口実になってしまった。
傍にいた時はそんな素振りも見せなかったから気付かなかった、では遅い。
そこに男も女もなくて、むしろ自分の側に歩み寄ってくれた春田のことを気遣い、守っていく責任があった。
「……本当に甘えていたのは、俺でした。春田さんが優しいから、春田さんが傷つくとか思ってなかった。……片付けも、一人でさせてしまって、ごめんなさい」
牧が手短に、と最初に言った意味が急に腑に落ちた――気持ちが溢れて止まらなくなってしまうからだ。
牧も、同じ気持ちでいてくれた。きっと同じくらい後悔していたんだ、と春田には感じられた。もっと早くに話し合えていたなら、やり直しの選択肢もはっきりしていたかもしれない。
波立っていた心にも、ようやく凪の時間が訪れる。春田はわざとらしく息を吐いた。
「そう思ってるんだったらさ、これだけ牧が片づけてくれない?」
足元の荷物入れに置いていた、お揃いのクッションを詰めてきた紙袋ごと牧に差し出した。
クッションがいつ買ったものなのかを思い出したように、黒目がちな牧の眼が見開かれた。
「牧に全部処分しろって言われたけど、思い出って牧とおれ二人の思い出じゃん? だから、おれ一人で全部片付けんのはフェアじゃないと思う」
「春田さん……」
「おれさ、牧といて、哀しいとか淋しいだけじゃなかったよ? めちゃくちゃ楽しかった……牧と恋人になって、初めてお揃いのもの買えて嬉しかったからさ」
その気持ちだけはかけがえのない思い出のまま、大切にさせてほしい。だから自分の手では処分しない。思い出は二人のものだから、牧にも抱えてほしい。
心残りがないように、春田は牧に本音を話した。牧凌太の恋人として出来る最後だから、精いっぱいの思慕も伝えた。
「……牧のこと、今でも好きだ。好きだからさ、ちゃんとさよならって言いたかったんだ」
見つめた双眸に、重ねた唇に、触れ合わせていた手や肌に恋しさは募っても、もうこの手は牧凌太へは伸ばさない。ちゃんと別れるために、笑ってみせた。
「牧、おれのこと好きになってくれて……ありがとう」
そう告げると、牧の幼げな顔がわずかに歪んだ。泣くのかと思ったが、牧は微笑みを浮かべて。
「それ、俺のセリフです……春田さん、ありがとうございました」
牧の胸の中だって荒れていたかもしれない。波立っていたかもしれない。
だけど気持ちは声にしないと伝わらないから、本当は牧がどんなことを考えていたかなんて、もう知る由もない。蒸し返しても先には進めない。
クッションを持って牧は先にカフェから出て行った。すっかりぬるくなってしまったコーヒーをゆっくり飲み干した後、春田はカフェを出て大型インテリア店へと足を運んだ。
そこで、黒猫の新しい寝床になりそうなクッションを選んだ。少し前にイチゴジャムのパンを泥棒しかけていたのを思い出し、イチゴの刺繡がワンポイントで入った円形のクッションにした。
そして、和泉が座るための低反発ウレタン入りのスクエア型クッションと、アイボリーホワイトのクッションカバー。
和泉が座る用にと買ってきたのに、低反発クッションは頭の下にある。
部屋に帰って来た途端に涙がどっと溢れてきて、止められなくなった。牧の前では泣けないから、ずっと堪えていたのがついに決壊してしまった。
ちゃんとさよならはできた。牧凌太を好きな心は胸のずっと奥底に残り続けるけれど、今の自分たちにとってはこの選択しかないと思った。哀しみも淋しさも時間になんか溶けていかない。思えば募るから、思わないようにしたい。だから、心が叫ぶのにまかせて気の済むまで泣くことにして、濡らしたタオルで両目を覆っていた。
それから、どのくらい時間が経ったのか――ぼんやりした意識の横で、誰かが呼ぶ声が聞こえたような……。
「――……た…………ん」
「…………あ~」
水分もエアコンの風で半分くらい飛んだタオルの下で、春田は瞼を上げた。
「春田さんっ……!」
「にゃああ!」
耳に馴染んだ声と鳴き声が、ひどく慌てている。何かあったのだろうか。目元からタオルを取ってまばたきをすれば――和泉と、黒猫の顔があった。
「……ど、したんすか」
声が掠れている。涙に喉の水分まで持っていかれたようだ。一旦起きて、水分補給をと上半身を起こしたら、突然和泉に抱きしめられた。
何が起きたのかすぐには理解が追い付かず、黒いニット生地が鼻先に触ってくすぐったい。肩や背中に別の体温を感じるのはいつぶりだろう。知らない男の腕に抱きしめられている、意識が追い付いた時には和泉の背中に腕を回している自分がいた。
「にゃー!」
傍らでは黒猫が怒っている。オレの男に手を出すなと言わんばかりだ。
「……い、ずみ、さん……どうしたんすか」
その体温からなんとなく離れがたい。そのままの姿勢で春田は問う。自分としては泣いていたら寝落ちしていた感覚で、具合が悪いなどではないのに。
肩と背中を抱いていた力が緩んだ。ゆっくりと顔を上げる和泉の眸に知らない熱が灯って見える。
「……倒れていたから、何があったのかと思って」
「なーあ!」
新しく買ってきた低反発クッションを枕にして、ひとりリビングに寝転ぶ平日の午後。
両目を覆うようにして濡らして絞ったタオルを当てているのだが、溢れてくるものが湿ったパイル面に吸い込まれていく。
今日は午前中、牧に会うために外出していた。待ち合わせしていた場所――天空不動産本社近くのカフェには約束した時間の十分前に着いたが、牧はまだ来ていなかった。
空いている席に座り、コーヒーを注文して、ぼんやり待っていた。
約束の時間になっても牧は姿を見せなかった。ちゃんとお別れを言うために会おうと決心して、昨晩寝付きも悪かったから何度もあくびが出た。
クッションも二人の分、紙袋に入れて持ってきていた。穴が開いて中綿が出てしまった牧のクッションは、出来る限り縫い直して……縫い目が丁寧とは、お世辞にも言えないけれど。
牧は、待ち合わせの時間から二十分近く遅れてやってきた。本社からまっすぐ来たのか、これから出社なのかはわからないが、スーツの上にコートを羽織った姿で。
直接顔を合わせるのが、牧がシンガポールに出向して以来だったせいか、表情には自信と逞しさが窺えるようだった。
「遅れてすみません……昼休み前倒しで出て来たんで、手短にお願いします」
春田の真向かいに座った牧は、コートも脱がずに切り出した。飲み物を注文してきたでもない。ただの用事のひとつとして来たようで、時間に遅れて来たことさえ気にしていないふうで――待ち合わせの場所と時間を指定してきたのは、牧だったのに。
今まで肩の隣にあった牧との時間も、牧に対して抱いた喜びや切なさ、愛しさや嬉しさといった感情も、確かに触れていた体温すらも一気に知らない遠くへ行ってしまった気になる。
二人の間にあったもの、生まれたものって、その程度だったのか……無性に悲しくなって、腹が立って仕方なかった。それでも――いちばん強く込み上げてきたのは、牧凌太を好きだという思い。
最後の最後まで捨てきれなかったお揃いのクッションに、残り続けていた色濃い心。
布の色は薄くなったのに、実際会ってしまうと叫びたくなるくらいに恋心は募る。
三年前、どうして自分たちは別れを選んでしまったんだろう。牧が帰国するまで、我慢できるつもりでいたのに。年上なんだから、度量みたいなものを示せれば良かったのに――誰かに真剣に恋をしたら、自分の弱さばかりが顔を出した。
一人でいるのはわりと平気だったはずなのに、ものすごく淋しがりな自分が内に潜んでいたなんて、牧を好きになるまでは気付けなかった……だから、口から出た言葉は。
「……牧、ごめんな」
帰ってくるまで待てなかったこと、苛立ちや淋しさから心無い言葉をぶつけてしまったこと。
シンガポールへの出向は牧のキャリアアップに必要なことなのに、自分のせいで思い煩わせたこと。そのすべてに対して、出てきた一言だと思う。
「牧のこと、ちゃんと支えられなくて、待ってられなくて、本当にごめん」
やり直しを願わないわけではなかった。自分がもっと大人だったら、もっと年上らしく余裕を持てたら、牧凌太の恋人として自信を持てていたら……そうだったら、牧に「他に好きな人が出来た」なんて言わせなくて済んだのに。
「…………そうやって全部、一人で責任抱えないでくださいよ――俺だって」
真向かいに座った時点から俯き気味だった牧の顔が、こちらに向いた。
黒目の大きな眼には、かつてのような情熱の色はない。
「俺だって……春田さんに、淋しい思いさせるんだって、気付きもしなかったっ……!」
見つけた恋を追いかけるあまりに、想いが繋がり合ったことにばかり気を取られ、若かった自分は考えさえもしていなかった。それは、春田が年上だったからということもあったから。
年下だから無条件に甘えられるものだと無意識に思っていたのかもしれない。
自身の内面が他人には理解されず、隠しもしていた淋しさとは別のものだけど、春田にだって淋しさがあるとは気付けていなかった。
お互いの恋心は結ばれていたとしても、知っていくべきお互いのことはいくらでもあった。
知ろう、話そうとすれば出来ていたことなのに、仕事の充実が口実になってしまった。
傍にいた時はそんな素振りも見せなかったから気付かなかった、では遅い。
そこに男も女もなくて、むしろ自分の側に歩み寄ってくれた春田のことを気遣い、守っていく責任があった。
「……本当に甘えていたのは、俺でした。春田さんが優しいから、春田さんが傷つくとか思ってなかった。……片付けも、一人でさせてしまって、ごめんなさい」
牧が手短に、と最初に言った意味が急に腑に落ちた――気持ちが溢れて止まらなくなってしまうからだ。
牧も、同じ気持ちでいてくれた。きっと同じくらい後悔していたんだ、と春田には感じられた。もっと早くに話し合えていたなら、やり直しの選択肢もはっきりしていたかもしれない。
波立っていた心にも、ようやく凪の時間が訪れる。春田はわざとらしく息を吐いた。
「そう思ってるんだったらさ、これだけ牧が片づけてくれない?」
足元の荷物入れに置いていた、お揃いのクッションを詰めてきた紙袋ごと牧に差し出した。
クッションがいつ買ったものなのかを思い出したように、黒目がちな牧の眼が見開かれた。
「牧に全部処分しろって言われたけど、思い出って牧とおれ二人の思い出じゃん? だから、おれ一人で全部片付けんのはフェアじゃないと思う」
「春田さん……」
「おれさ、牧といて、哀しいとか淋しいだけじゃなかったよ? めちゃくちゃ楽しかった……牧と恋人になって、初めてお揃いのもの買えて嬉しかったからさ」
その気持ちだけはかけがえのない思い出のまま、大切にさせてほしい。だから自分の手では処分しない。思い出は二人のものだから、牧にも抱えてほしい。
心残りがないように、春田は牧に本音を話した。牧凌太の恋人として出来る最後だから、精いっぱいの思慕も伝えた。
「……牧のこと、今でも好きだ。好きだからさ、ちゃんとさよならって言いたかったんだ」
見つめた双眸に、重ねた唇に、触れ合わせていた手や肌に恋しさは募っても、もうこの手は牧凌太へは伸ばさない。ちゃんと別れるために、笑ってみせた。
「牧、おれのこと好きになってくれて……ありがとう」
そう告げると、牧の幼げな顔がわずかに歪んだ。泣くのかと思ったが、牧は微笑みを浮かべて。
「それ、俺のセリフです……春田さん、ありがとうございました」
牧の胸の中だって荒れていたかもしれない。波立っていたかもしれない。
だけど気持ちは声にしないと伝わらないから、本当は牧がどんなことを考えていたかなんて、もう知る由もない。蒸し返しても先には進めない。
クッションを持って牧は先にカフェから出て行った。すっかりぬるくなってしまったコーヒーをゆっくり飲み干した後、春田はカフェを出て大型インテリア店へと足を運んだ。
そこで、黒猫の新しい寝床になりそうなクッションを選んだ。少し前にイチゴジャムのパンを泥棒しかけていたのを思い出し、イチゴの刺繡がワンポイントで入った円形のクッションにした。
そして、和泉が座るための低反発ウレタン入りのスクエア型クッションと、アイボリーホワイトのクッションカバー。
和泉が座る用にと買ってきたのに、低反発クッションは頭の下にある。
部屋に帰って来た途端に涙がどっと溢れてきて、止められなくなった。牧の前では泣けないから、ずっと堪えていたのがついに決壊してしまった。
ちゃんとさよならはできた。牧凌太を好きな心は胸のずっと奥底に残り続けるけれど、今の自分たちにとってはこの選択しかないと思った。哀しみも淋しさも時間になんか溶けていかない。思えば募るから、思わないようにしたい。だから、心が叫ぶのにまかせて気の済むまで泣くことにして、濡らしたタオルで両目を覆っていた。
それから、どのくらい時間が経ったのか――ぼんやりした意識の横で、誰かが呼ぶ声が聞こえたような……。
「――……た…………ん」
「…………あ~」
水分もエアコンの風で半分くらい飛んだタオルの下で、春田は瞼を上げた。
「春田さんっ……!」
「にゃああ!」
耳に馴染んだ声と鳴き声が、ひどく慌てている。何かあったのだろうか。目元からタオルを取ってまばたきをすれば――和泉と、黒猫の顔があった。
「……ど、したんすか」
声が掠れている。涙に喉の水分まで持っていかれたようだ。一旦起きて、水分補給をと上半身を起こしたら、突然和泉に抱きしめられた。
何が起きたのかすぐには理解が追い付かず、黒いニット生地が鼻先に触ってくすぐったい。肩や背中に別の体温を感じるのはいつぶりだろう。知らない男の腕に抱きしめられている、意識が追い付いた時には和泉の背中に腕を回している自分がいた。
「にゃー!」
傍らでは黒猫が怒っている。オレの男に手を出すなと言わんばかりだ。
「……い、ずみ、さん……どうしたんすか」
その体温からなんとなく離れがたい。そのままの姿勢で春田は問う。自分としては泣いていたら寝落ちしていた感覚で、具合が悪いなどではないのに。
肩と背中を抱いていた力が緩んだ。ゆっくりと顔を上げる和泉の眸に知らない熱が灯って見える。
「……倒れていたから、何があったのかと思って」
「なーあ!」
1/3ページ