猫と春。④

 天空不動産第二営業所が入っている、このオフィスビルのフロア面積はさして広くはない――警察官だった時分に張り込み場所として足を運んだ、空調も効かない古い雑居ビルよりは三倍くらい広いけれど。
 黒猫はトイレの前を通り過ぎ、フロアの奥へ走っていく。非常階段があると春田が説明してくれていた方向だ。
 防火扉を開ければ猫が階段を上へと駆けていく。人けのなさで言うとオフィスビルの裏手もだが、非常階段もあまり使われはしないところ。
 そして、俊敏かつ体重も軽い黒猫を追いかけるのは体力が要るとも感じる。時間があればトレーニングはしていたつもりなのに、横腹の傷は春田にも知られているので無茶もできない。少しでも傷が開いたら叱られそうだったから――別に一介の営業職なぞ恐れるまでもないのに、春田の顔を見ると弱い気がしている。弓道も最近サボりがちだったから、次の休日にでも道場で鍛錬しよう……。
 非常階段を三フロア分駆け上がり、辿り着くのは『開放厳禁』の貼り紙がされたドアの前。
「にゃ!」
 黒猫が厚い金属のドアを引っ掻きながら、「開けろ」と鳴く。和泉は呼吸を整えつつ、しばらく動かされていなかったような固いカギを回して開錠し、ドアを押し開けてみると。
「――屋上なんて、あったのか……」
 頭上には冬の鈍色の天井。吹いてくる風が地上よりも冷たい。その場からぐるりと屋上を見渡してみると、ぽつんと置かれていたベンチに春田が座っていた。こちらには背を向け、俯いた様子で。
 黒猫につられて春田を追いかけてきたはいいが、何と言って声をかけるべきなのか……。
「にゃーんっ」
 こんな時、黒猫はかける言葉なんて考えずに春田が座っているベンチへ一目散に駆け出して、重力をものともせずにジャンプする。着地先は春田の隣だ。
「なーあ」
「……っ」
 はっきり響く鳴き声に、俯いていた顔も上がる。黒猫がどこから入って来たのか、春田はそんな風情できょろきょろ辺りを見回して、
「…………」
 非常口となるドアの前に佇んだままでいた和泉を視界に捉えた。遠目に見ても春田の頬は赤らんでいる。和泉はベンチの方へと歩を進め、また俯いてしまった春田の傍らに立った。足元に数か所、コンクリートの色が変わった部分がある。
「…………すみません……おれ、和泉さんの上司なのに」
 オフィスから逃げ出したことを恥じて、春田は謝罪を口にした。やはり泣いていたのか声はふるえていて、また泣き出しそうに弱々しい。
「……もう少し、落ち着いたら、戻るんで……和泉さんは、こいつ連れて先に」
「なーん!」
 自分の弱い面は、他人には簡単にさらけ出せない。それは人間も動物も同じ。弱みを一瞬でも見せようものなら自然界では命に関わるから。
 人間なら他人の弱みを握ってコントロールしようと目論み、悪事に手を染めさせることもできてしまう。
 けれど、春田創一はそうしない。不意の怪我も手当てまでしてくれて、誰かに言いふらすことはしない。給湯機が故障した時は風呂を貸してくれた。慣れない仕事でミスを連発しても怒らずフォローしてくれている。
 個人的な目的さえ果たせてしまえば長居するつもりなんてない――そんな和泉の心の内を、春田は知らない。
 どこから来ているのかわからない黒猫にさえ、文句は言いつつもできる範囲で世話をする。
 そんな優しさを持ちながら、弱い素振りは見せない。時折なんとなく淋しさが目許に浮かぶ感じはしても、春田創一は笑顔を欠かさない。
 黒猫は抗議の姿勢なのか、春田の膝に前足を上げる。
「なああ!」
「もー……わかってんだよ……わかってんだって……」
 くしゃっと前髪を上げながら、ため息と共に春田は吐き出す。
「……マキと、ちゃんと二人で、終わらせるって決めたんだからさ……」
 先程武川が口にしていた『マキ』という名前。春田の表情が消えたのはその名を聞いた直後だった。どう考えなくても春田のプライベートな部分で、事情を知らない他人が踏み込んではいけないパーソナルスペース――春田創一の心の、か弱くて柔らかい部分。
 春田は乗り上げてくる黒猫を抱き上げ、両脚の間に置いた。
「……こいつと、和泉さんが座ってるクッション、……元々、マキとお揃いで買ったやつなんすよ」

 部屋に置いてある、パステルグリーンのギンガムチェック柄のクッションと、先日黒猫がうっかり穴を開けて中綿が出てしまったあパステルブルーのクッション。それらは恋人だった相手――牧凌太と恋人になって初めて買ったお揃いのクッションだと明かされた。
 三年前に破局を迎え、その際に牧凌太から思い出の残るようなものは全部捨ててほしいと頼まれていた。だが、唯一捨てられなかった最初の思い出の品。
 共に住んでいた場所から今のアパートに引っ越してきた時に持ち込んでしまった。
「牧とのこと、全部置いてきて、新しい部屋でまた頑張ろうって思ってたくせに、どうしてもあのクッションだけ捨てられなくて……。自分でも未練がましくて、めっちゃ恥ずかしいなって思うんすけど」
 和泉は春田の話を聞くだけしかなかった。相槌すら打たず、ただ耳を傾ける。
「――……おれ、ここで、ぶちょーと牧に告白されたんです」
 自分では全く思わない方向から恋心を寄せられ、愛を告白された。告白してきた二人ともが男性で、一人は尊敬する上司だし、もう一人は後輩。
 その想いをめぐって上司と後輩がギスギスし、いがみ合うのは見ていられなかった。それでも二人の想いが真剣であることに気付き始め、少しずつ向き合い――芽生えた恋心。
 男とか女とか関係なく、自分自身にとってのたった一人――牧凌太に恋をしていたのだと気が付いた。
「生きてれば何があるかって、本当わかんないっすよね……。男と付き合ったのって後にも先にも牧だけだし」
 牧凌太が居る方へと踏み出すのを恐れたのも事実。それでも牧のことが好きで忘れられなくて、きちんと知っていきたいから、その手を取ることを熱望した。
 別れた今でも選択したことに後悔はないと、春田は小さく笑う。
 仕事面でも牧凌太は年若いながらもたいへん優秀で、第二営業所へ配属されるも程なくして本社へと栄転になった。そこでホテルリゾート事業に携わり、シンガポールへと出向したという。
 勤務先が違うだけでもすれ違いは生まれていくのに、それが日本国内と国外では物理的な距離ができるだけでなく、わずかながら時間も合わなくなってくる。淋しかっただけの感情はやがて苛立ちとなって、電話越しに気持ちをぶつけることもあった。
 牧にとっては大事なチャンスだと頭ではわかっていても、牧が傍にいない淋しさに心が耐えられない。そう自覚するまでに牧への愛は強く、深くなっていったのに――愛してるのに牧を傷つけてしまう自分がどんどん許せなくなっていた。牧にとって自分は、足枷にしかなれない。
 別れを切り出してきたのは牧の方からだったが、お互いがお互いを思い遣れないまま傷つけ合うだけなら、この恋は終わらせてしまった方がいい――二人で終わらせようと決めた恋に、後悔も何もない。誰のせいでもないのだから。
 ……けれど、牧凌太のことは今でも好きなまま、忘れられずにいる。
「武川さんから牧の名前出されて、こんなんなってちゃ……絶対ダサいって、牧に笑われるやつなんすよね……。牧は切り替え速いっぽいし、もう新しい彼氏とかいてもおかしくないのに、おれはダメダメすぎ」
 三年経ってもこのザマだ。俯いたままの顔が両手で覆われてしまうと、いよいよ春田がどんな顔をしているのか掴めなくなる。ふるえる肩、途切れ途切れに漏れてくる嗚咽、指の隙間から手の甲を伝って落ちてきた雫が黒猫の頭上を滑る。
「うにゃっ」
 黒猫は春田の両脚の間から身体を伸ばして、顔を覆い隠す手の甲をひと舐めした。
 ざらりとする猫の舌の感触に驚いたか、手のひらと顔面との距離がやや開いた。赤くなった目元を湿らせる涙と、いとけなさを含んだ両眼が和泉の目にはっきり映る。
(…………?)
 胸の奥底で、音が鳴る。とても懐かしくて哀しい音。恋人の今際になってはっきり自覚したその音が、春田を前にして鳴った。
 自然と手は、春田へと伸びていく。自制も何も考えず、気付けば黒猫を間にして春田に覆い被さるように抱きしめていた。
「――いっ……和泉、さ」
 胸の下から明らかに戸惑う鼻声が聞こえた。猫も小さく唸っている。
 どんなに明るくて優しい、春の陽だまりのようなひとにも、曇りや雨の時間は来る。大荒れの嵐にその心が激しく揺さぶられて、泣いてしまうこともある。
 この三年、ひとりきりで抱えてきた憎悪や淋しさといった後ろ向きの感情は否定しないし、自分だけのものとして誰かと分け合うつもりも、薄めるつもりもなかった――傷は傷のまま、癒すつもりはなかったのに。
「…………前は、人を守る仕事をしていました」
 ふるえる肩を包み込んだ手に、そっと力を込める。
 さらけ出された思慕に悪意が及ばないように、ここで春田を守れるのは。
「にゃあん」
 黒猫は、春田の膝の上でまるくなっている。泣き顔から外れた右手がそっと艶やかな黒の背を撫でると、新しい涙が零れ出す。
「っ…………ううっ……」
 その涙も、恋を失う哀しさも、未だ残る愛情も全部、春田創一だけのもの。治さなかった傷の痛みも春田だけのものだから、他人でしかない自分にすべては理解できない。
 それでも、できることがあるのだとすれば――涙を隠すための壁にはなれる。ひとりになった淋しさのひとかけらくらいなら、理解もできるはずだ。
 冬の涙雨が止むまでは、何も言わずに待っている。
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