猫と春。④
昼休みを終え、黒猫に見送られつつ春田と共にオフィスへ戻ると、営業部長の武川が何やら神妙な顔つきでスマートフォンの操作をしていた。春田が「戻りました」と声をかけても気付かない程に集中している。
個人のスマートフォンならプライベートだし、誰も干渉はしない。それぞれに午後の業務へ入るだけだが、営業部長へ確認を取らなければいけない事柄もあったりする。
「武川さーん、こないだの展示会でリノベの相談してたお客様なんすけど……」
「……」
「休み明けに打ち合わせでいいんすよね?」
「……」
春田が営業部長席の前に立ち、リノベーション案件の話をするも反応がない。
何に対してそんなに夢中になっているのか興味はないが、昼休みの時間はとっくに終わっているのだから業務に戻っていただきたい――。
「……既読が全然つかない」
スマートフォンの画面に集中していた武川が突然項垂れた。デスクの前に立つ春田の横顔がわかりやすく「めんどくさい」と言っている。
「帰国したって聞いたからお帰りなさいパーティーしようって送ってるのに、既読がつかないんだが」
そして何の話をしているのか、和泉にはさっぱりわからなかった。帰国した、お帰りなさいで武川の知人がどこか国外から帰って来たことだけはわかる。
「一週間もメッセージ送ってるのにスルーされてる……何故だ……」
「あんまりしつこいと嫌われるっすよ。三日くらい何もしないで待ってれば、どうしたんだろって返事来るかも」
いかにも「めんどくさい」が春田の声音にも表れていた。進言に勢いよく顔を上げた武川に、春田は今がチャンスと手に持っていた見積書を出したものの。
「そうだ春田、マキから連絡あったか?」
上司からの一言に、春田の顔から一瞬感情が消え去った。普段はくるくると表情が豊かに変わる春田なのに、『マキ』という名に奪われたように見えた。
「マキ、年明けから本社のホテルリゾート部で課長になったんだよ。いくら牧が忙しくても、さすがに帰国したことくらい連絡してるんじゃないのか?」
「あ……えっと、ほら……マキだって三年半シンガポールに居たし、社内もいろいろ変わってるとこもあるから大変なんすよ、たぶん」
春田の声が揺らいでいることに武川は気付いているのか。無理に笑おうとして、口角が上がっていないことに春田自身さえも気付いていない。
何かを堪えている横顔が、胸の奥に仕舞い込んだ記憶に重なる。フタをしていた感情の両肩を持たれて、激しく揺さぶられるような感じを和泉は覚える。
「恋人なのに袖にされて淋しいな、春田。今日わんだほう行くか、話聞くぞ?」
「いや、そういうのはいいんで……。打ち合わせの内容、確認お願いします」
武川に用事を伝えた春田が踵を返す。デスクへと戻ってくるものだと思っていたのに、「トイレ行ってきます」と早口で言ってオフィスから出て行ってしまった。
その背中が目の前から去り行くのは、あの日が最後だと思っていた。自分で思っていたよりも深く、強く愛していた恋人が旅立った三年前がフラッシュバックする――。
(――和泉さん)
二度とこの手には戻らない。不敵な笑みも、小憎たらしいものの言い方も、体温も、甘ったるいイチゴジャムのキスの味も――傷だらけになってしまった背中を、守ってやれなかった。
(…………秋斗)
実際に傷はないにしても、出て行く春田の背には淋しさや切なさといった感情の傷が浮かんで見える気がした。傷を創ってそのままにしてきたような、抜け落ちた表情が理由であるような。春田をひとりにしておいていいのか、悪いのかもわからない。
出会って一ヶ月足らずの、まだまだ赤の他人でも通じる、関係の名前すらあやふやな人間に心を寄せていいのか。そもそも、この天空不動産には個人的な目的で入社したまでだ。同じオフィスの社員たちとはあまり関わり合いにならないまま去るつもりだけに、恋人と酷似した後ろ姿を理由に春田を追いかけて、肩入れなんかしたら――。
(…………にゃあ)
ふと、あの黒猫の鳴き声が聞こえた。空耳かも知れない。
いつもどこからともなく現れては、春田に甘えていく不思議な猫――そういえば、あの猫が入社初日にオフィスから飛び出してしまった自分の傍にも寄り添ってくれたと和泉は思い出す。そして、春田を呼んでくれたことも。
きっと、そんなことでいい。事情を聞き出すなんて野暮ったいことはしなくていい。
春田だってこちらの事情について掘り下げようとはしてこない。困ったことがあるから、手を差し伸べてくれただけだ。
何気ない優しさとぬくもりを与えられてばかりで、何が赤の他人なんだ。そんなことを考えるだけバカみたいだ……。
「にゃーん!」
「……っ!」
幻聴でも、幻覚でもなかった。金色の目をした黒猫が足元にちょこんと座っている。外にいて仕事に戻るのを見送ってくれていたのに、どうしてオフィスビルの中にいるのだろう。
「にゃ、にゃっ!」
黒猫は和泉の革靴を踏みつけ、ズボンの裾を噛んで引っ張ってくる。
「……もしかして、春田さんのところに」
「にゃ!」
ごちゃごちゃうじうじ悩んでいる暇があるなら、さっさと動けと猫は言わんばかりに睨んでくる。春田が黒猫とはなんとなく、フィーリングでコミュニケーションしていると先日の夕食時にぼやいていたのはこういう感じか。
「……部長、少し外します」
見積書ではなく未だスマートフォンにかじりついている武川にとりあえず声をかけ、和泉は先んじて飛び出した黒猫の後を追った。
個人のスマートフォンならプライベートだし、誰も干渉はしない。それぞれに午後の業務へ入るだけだが、営業部長へ確認を取らなければいけない事柄もあったりする。
「武川さーん、こないだの展示会でリノベの相談してたお客様なんすけど……」
「……」
「休み明けに打ち合わせでいいんすよね?」
「……」
春田が営業部長席の前に立ち、リノベーション案件の話をするも反応がない。
何に対してそんなに夢中になっているのか興味はないが、昼休みの時間はとっくに終わっているのだから業務に戻っていただきたい――。
「……既読が全然つかない」
スマートフォンの画面に集中していた武川が突然項垂れた。デスクの前に立つ春田の横顔がわかりやすく「めんどくさい」と言っている。
「帰国したって聞いたからお帰りなさいパーティーしようって送ってるのに、既読がつかないんだが」
そして何の話をしているのか、和泉にはさっぱりわからなかった。帰国した、お帰りなさいで武川の知人がどこか国外から帰って来たことだけはわかる。
「一週間もメッセージ送ってるのにスルーされてる……何故だ……」
「あんまりしつこいと嫌われるっすよ。三日くらい何もしないで待ってれば、どうしたんだろって返事来るかも」
いかにも「めんどくさい」が春田の声音にも表れていた。進言に勢いよく顔を上げた武川に、春田は今がチャンスと手に持っていた見積書を出したものの。
「そうだ春田、マキから連絡あったか?」
上司からの一言に、春田の顔から一瞬感情が消え去った。普段はくるくると表情が豊かに変わる春田なのに、『マキ』という名に奪われたように見えた。
「マキ、年明けから本社のホテルリゾート部で課長になったんだよ。いくら牧が忙しくても、さすがに帰国したことくらい連絡してるんじゃないのか?」
「あ……えっと、ほら……マキだって三年半シンガポールに居たし、社内もいろいろ変わってるとこもあるから大変なんすよ、たぶん」
春田の声が揺らいでいることに武川は気付いているのか。無理に笑おうとして、口角が上がっていないことに春田自身さえも気付いていない。
何かを堪えている横顔が、胸の奥に仕舞い込んだ記憶に重なる。フタをしていた感情の両肩を持たれて、激しく揺さぶられるような感じを和泉は覚える。
「恋人なのに袖にされて淋しいな、春田。今日わんだほう行くか、話聞くぞ?」
「いや、そういうのはいいんで……。打ち合わせの内容、確認お願いします」
武川に用事を伝えた春田が踵を返す。デスクへと戻ってくるものだと思っていたのに、「トイレ行ってきます」と早口で言ってオフィスから出て行ってしまった。
その背中が目の前から去り行くのは、あの日が最後だと思っていた。自分で思っていたよりも深く、強く愛していた恋人が旅立った三年前がフラッシュバックする――。
(――和泉さん)
二度とこの手には戻らない。不敵な笑みも、小憎たらしいものの言い方も、体温も、甘ったるいイチゴジャムのキスの味も――傷だらけになってしまった背中を、守ってやれなかった。
(…………秋斗)
実際に傷はないにしても、出て行く春田の背には淋しさや切なさといった感情の傷が浮かんで見える気がした。傷を創ってそのままにしてきたような、抜け落ちた表情が理由であるような。春田をひとりにしておいていいのか、悪いのかもわからない。
出会って一ヶ月足らずの、まだまだ赤の他人でも通じる、関係の名前すらあやふやな人間に心を寄せていいのか。そもそも、この天空不動産には個人的な目的で入社したまでだ。同じオフィスの社員たちとはあまり関わり合いにならないまま去るつもりだけに、恋人と酷似した後ろ姿を理由に春田を追いかけて、肩入れなんかしたら――。
(…………にゃあ)
ふと、あの黒猫の鳴き声が聞こえた。空耳かも知れない。
いつもどこからともなく現れては、春田に甘えていく不思議な猫――そういえば、あの猫が入社初日にオフィスから飛び出してしまった自分の傍にも寄り添ってくれたと和泉は思い出す。そして、春田を呼んでくれたことも。
きっと、そんなことでいい。事情を聞き出すなんて野暮ったいことはしなくていい。
春田だってこちらの事情について掘り下げようとはしてこない。困ったことがあるから、手を差し伸べてくれただけだ。
何気ない優しさとぬくもりを与えられてばかりで、何が赤の他人なんだ。そんなことを考えるだけバカみたいだ……。
「にゃーん!」
「……っ!」
幻聴でも、幻覚でもなかった。金色の目をした黒猫が足元にちょこんと座っている。外にいて仕事に戻るのを見送ってくれていたのに、どうしてオフィスビルの中にいるのだろう。
「にゃ、にゃっ!」
黒猫は和泉の革靴を踏みつけ、ズボンの裾を噛んで引っ張ってくる。
「……もしかして、春田さんのところに」
「にゃ!」
ごちゃごちゃうじうじ悩んでいる暇があるなら、さっさと動けと猫は言わんばかりに睨んでくる。春田が黒猫とはなんとなく、フィーリングでコミュニケーションしていると先日の夕食時にぼやいていたのはこういう感じか。
「……部長、少し外します」
見積書ではなく未だスマートフォンにかじりついている武川にとりあえず声をかけ、和泉は先んじて飛び出した黒猫の後を追った。