猫と春。④
黒猫は今日も、寒空の下でおかかおむすびのキッチンカーをじっと観察している。
金色の視線の先を和泉も注意深く見つめていた。春田は女性ばかりの行列で、順番が来るのを待っている。
「……なあ、聞いていいか」
和泉は黒猫のなだらかな背中に声をかけた。まっすぐキッチンカーに向いた二つの月がこちらに向く。
「……あまり、考えたくはないんだけどな、きく……店主が、春田さんに危害を加えるなんてしないよな……?」
そんなことを訊いて猫が返事をしてくれても、ことばはわからない。そう理解していて和泉は問いかけてみている。もう、誰にも問えないから。
黒猫は和泉の顔をじっと見上げた。眸に宿った金色は思案の色をしているような。
「なあん」
「……」
やはり、猫の考えていることはつかめない。自嘲の笑みを浮かべた和泉は黒猫の顎に指を添わせた。ふわふわの冬毛に指先が埋もれる。
「……春田さんは、巻き込まないよ」
自分が抱えていることはすべて自分自身の問題であって、他人を巻き込んではいけない。
天空不動産に入社したのも、果たすべき目的のためだから――心を揺さぶられてはいけないのに。また喪ってしまうという不安と、そのぬくもりや優しさに触れる歓喜に揺れ始めている自分がいる。
「んにゃ」
黒猫はふるふると首を横に振る。もう巻き込んでいるとでも言いたげだ。
「……そう、だな」
標的とした相手のアジトに乗り込んだはいいが、返り討ちに遭って負傷する。自分ではいつものことと軽く考えてしまっていたが、横腹に刺し傷なんて普通に生活している分にはまず無い。
個人的には撃たれるのも刺されるのも切られるのも締められるのもあまり珍しくなかったせいか、あの日も部屋に入るまではできたとは思ったのに。
黒猫はキッチンカーを観察している位置から和泉の横に移動して、治りかけの傷がある横腹にぽすんとパンチを喰らわせてきた。痛くも痒くもない。
目的が果たされるまでは、どんなに傷ついたって死ねない。生き延びるしかない。そっと手を当てるネクタイの結び目の下、シャツの内側でチェーンがひそやかに鳴る。
(――秋斗)
どこかで見守ってくれているなら、まだどこへも逝かずに待っていてほしい。抱く願いも想いも生者の傲慢でしかないが、聞いていてほしい。こんな形でしか示せない愛が伝わっていると信じていたい。
この両腕から体温がどんどん失われていく時になって、自分でも思ってもみないほどに深く愛していたのだと気付くなんて愚かしすぎると笑ってくれてもいいから――。
「和泉さん、お待たせ~」
春田がキッチンカーから小走りで戻ってきた。何も買わずに来たらしく、両手は空だ。
和泉と黒猫のもとに着くや、少し表情を引き締める。
「あの、こないだもらったカード、返してきました。探してるお兄さんのこともわかんないし」
「にゃー!」
春田からの報告に黒猫が先に返事をした。
「それでいいと思います。詐欺みたいな犯罪への加担の入り口になりかねませんから……」
法律に明るくない一般人を犯罪に加担させる手口は減りはしない。巧妙かつ複雑で、凶悪性も増してきている。プロのヤクザでも量刑の重さを理解しているから手出しをしない凶悪犯罪へ、何も知らずに手を染めていく素人が多すぎると、知り合いである反社会的勢力の上層部から零されたことも少なくない。
六道菊之助の目的が何かを感じ取れるからこそ、春田が協力を断ってくれて良かったと和泉は安堵した。
(……公安が、素人に手出すんじゃねえぞ――菊)
キッチンカーの店主の顔ははっきり見えなくとも、滲ませてくる気配は覚えている。
公安でバディを組んでいた真崎秋斗が殉職した後、和泉が警察を辞めるまでの二年間、相棒として肩を並べていたのだから。
公安警察という警察組織内でも表舞台には滅多に出ない、つまりそれだけ秘匿性の高い部署に属していたので、退職後も守秘義務は当然課されるし、監視もつく。
六道が監視役として立候補したのは聞いていたが、バディだったことを理由に却下された。和泉の監視役は別の公安警察官だ。
退職時に在籍の事実はデータベースからすべて抹消してきたのに、居場所を嗅ぎ付けてくるあたりはさすが『国家の番犬』と褒めるべきだろう。
「にゃー」
傍らに座っていた黒猫が膝を跨いで春田の方へと行った。お気に入りらしい小皿に春田がパウチ入りのキャットフードをあけると、「にゃ」と一声短く鳴いて食べ始めた。春田いわく、ささみ入りのフードへの食いつきが良いらしい。
「和泉さんの分はこっち。お米、無事に炊けたんすよね?」
「ああ……はい。不格好で申し訳ないですが……」
春田が自前のランチトートから、二つ入れてきた保存容器の一つを手渡してくれた。容器の中には数種類の惣菜だけが入っている。
和泉も持参していた紙袋から、ラップフィルムでくるんだ白米のみのおむすびを取り出す。三角形や俵型にでも出来ればいいのだけれど、どう頑張っても円形にしかならない塩むすび。
自炊はあまりしないが米は炊けるので昼食は塩むすびを二人分こしらえて、春田が持ってきてくれる惣菜をいただいている。
アパートの部屋の風呂の給湯機の不調をきっかけに夕食をごちそうになった夜から、和泉は春田の部屋で夕食を共にするようになっていた。つくってもらうだけではフェアではないので、材料費を渡す他、簡単な手伝いや黒猫の遊び相手、たまに酒も差し入れる。
(……でも、ペット禁止なんだよな)
黒猫が春田と一緒に居る様子が当たり前になってきているが、ふと思い返す。猫は猫で春田からごはんをもらい、ひとしきりじゃれたり寝たりして、ふらりとどこかへ行ってしまう。
夜も春田が帰るタイミングで部屋の前にいて、夕食を終えて和泉が春田の部屋から出るタイミングでするりと出ていくことが多い。
春田の部屋と言えば、訪ねた最初の夜に黒猫が譲ってくれたパステルブルーのギンガムチェックのクッションに穴が開いてしまい、中綿も飛び出てしまった。春田は「買って三年以上も経ったから布が薄くなっていたせい」と笑いはしていたが、実際は黒猫の爪が引っかかったことが原因である。
寝床を無くした黒猫は、春田が寝室に置いていた同デザインのパステルグリーンのクッションを新たな寝床にしている。譲ってくれるのもそれだ。
パステルブルーのクッションは中綿が散らばらないよう、ポリ袋に入れられ部屋の片隅にぽつんとある。もう捨てるしかないものでも、春田にとっては捨てられない大切なものなのだろう――例えば、大切な誰かとの思い出が込められているとか。
今年四十歳になると春田本人が言っていたので、恋愛経験があってもおかしくはないし、思い出に残るような誰かとの別離もあったと思う。部屋の中に、今の春田へ繋がるヒントが少ないにしても、その心の中には確かな時間が描かれているに違いない。
「和泉さんのおむすび、ぎゅっとしててウマいっすね」
塩むすびに大きな一口でパクついた春田の唇の端にはごはん粒がついている。
ぎゅっとしてるというのは、力加減が上手くいかずにふんわりほろほろと解けるようなおむすびではないということだ。米粒が詰まっている。
「なんというか、師匠のようには全然いかなくて……」
「いや、ぶちょーはおうちのプロなんで。不動産売買も家事もプロ」
おむすびの握り方は師匠こと、春田の元上司であるスーパー家政夫さんに習っている。
春田も料理を中心に家事を時々教わっていると話していたので、和泉も弟子入りを申し出ていた。
背筋もしゃんと伸びた、ロマンスグレーな紳士がおふくろの味を想起させてくれるようなおむすびを握ってくれたのにたいへん衝撃と感銘を受け、このところ毎朝頑張ってみてはいる。
「ぶちょーのふわっとした感じのおむすびも好きだし、和泉さんのぎゅっとした感じのやつも好きっすよ、おれ」
「ありがとうございます……」
具も入っていない、白い爆弾のようなおむすびを和泉も一口頬張る。米の炊き加減は良い感じだが、詰まりすぎてエアリー感の再現にはまだまだだと思えた。
ごはん粒のついた春田の口端に黒猫が手を伸ばす。猫も気になるようだ。
「……春田さん、ごはん粒ついてますよ」
「にゃ!」
ちょうど猫の手の先辺り。そう言うと春田は指先で口元を撫でる。
「……ホントだ。教えてくれてあざっす……うおっ!」
指先にちょんとくっついたごはん粒に、黒猫がぱくりと食いついた。
金色の視線の先を和泉も注意深く見つめていた。春田は女性ばかりの行列で、順番が来るのを待っている。
「……なあ、聞いていいか」
和泉は黒猫のなだらかな背中に声をかけた。まっすぐキッチンカーに向いた二つの月がこちらに向く。
「……あまり、考えたくはないんだけどな、きく……店主が、春田さんに危害を加えるなんてしないよな……?」
そんなことを訊いて猫が返事をしてくれても、ことばはわからない。そう理解していて和泉は問いかけてみている。もう、誰にも問えないから。
黒猫は和泉の顔をじっと見上げた。眸に宿った金色は思案の色をしているような。
「なあん」
「……」
やはり、猫の考えていることはつかめない。自嘲の笑みを浮かべた和泉は黒猫の顎に指を添わせた。ふわふわの冬毛に指先が埋もれる。
「……春田さんは、巻き込まないよ」
自分が抱えていることはすべて自分自身の問題であって、他人を巻き込んではいけない。
天空不動産に入社したのも、果たすべき目的のためだから――心を揺さぶられてはいけないのに。また喪ってしまうという不安と、そのぬくもりや優しさに触れる歓喜に揺れ始めている自分がいる。
「んにゃ」
黒猫はふるふると首を横に振る。もう巻き込んでいるとでも言いたげだ。
「……そう、だな」
標的とした相手のアジトに乗り込んだはいいが、返り討ちに遭って負傷する。自分ではいつものことと軽く考えてしまっていたが、横腹に刺し傷なんて普通に生活している分にはまず無い。
個人的には撃たれるのも刺されるのも切られるのも締められるのもあまり珍しくなかったせいか、あの日も部屋に入るまではできたとは思ったのに。
黒猫はキッチンカーを観察している位置から和泉の横に移動して、治りかけの傷がある横腹にぽすんとパンチを喰らわせてきた。痛くも痒くもない。
目的が果たされるまでは、どんなに傷ついたって死ねない。生き延びるしかない。そっと手を当てるネクタイの結び目の下、シャツの内側でチェーンがひそやかに鳴る。
(――秋斗)
どこかで見守ってくれているなら、まだどこへも逝かずに待っていてほしい。抱く願いも想いも生者の傲慢でしかないが、聞いていてほしい。こんな形でしか示せない愛が伝わっていると信じていたい。
この両腕から体温がどんどん失われていく時になって、自分でも思ってもみないほどに深く愛していたのだと気付くなんて愚かしすぎると笑ってくれてもいいから――。
「和泉さん、お待たせ~」
春田がキッチンカーから小走りで戻ってきた。何も買わずに来たらしく、両手は空だ。
和泉と黒猫のもとに着くや、少し表情を引き締める。
「あの、こないだもらったカード、返してきました。探してるお兄さんのこともわかんないし」
「にゃー!」
春田からの報告に黒猫が先に返事をした。
「それでいいと思います。詐欺みたいな犯罪への加担の入り口になりかねませんから……」
法律に明るくない一般人を犯罪に加担させる手口は減りはしない。巧妙かつ複雑で、凶悪性も増してきている。プロのヤクザでも量刑の重さを理解しているから手出しをしない凶悪犯罪へ、何も知らずに手を染めていく素人が多すぎると、知り合いである反社会的勢力の上層部から零されたことも少なくない。
六道菊之助の目的が何かを感じ取れるからこそ、春田が協力を断ってくれて良かったと和泉は安堵した。
(……公安が、素人に手出すんじゃねえぞ――菊)
キッチンカーの店主の顔ははっきり見えなくとも、滲ませてくる気配は覚えている。
公安でバディを組んでいた真崎秋斗が殉職した後、和泉が警察を辞めるまでの二年間、相棒として肩を並べていたのだから。
公安警察という警察組織内でも表舞台には滅多に出ない、つまりそれだけ秘匿性の高い部署に属していたので、退職後も守秘義務は当然課されるし、監視もつく。
六道が監視役として立候補したのは聞いていたが、バディだったことを理由に却下された。和泉の監視役は別の公安警察官だ。
退職時に在籍の事実はデータベースからすべて抹消してきたのに、居場所を嗅ぎ付けてくるあたりはさすが『国家の番犬』と褒めるべきだろう。
「にゃー」
傍らに座っていた黒猫が膝を跨いで春田の方へと行った。お気に入りらしい小皿に春田がパウチ入りのキャットフードをあけると、「にゃ」と一声短く鳴いて食べ始めた。春田いわく、ささみ入りのフードへの食いつきが良いらしい。
「和泉さんの分はこっち。お米、無事に炊けたんすよね?」
「ああ……はい。不格好で申し訳ないですが……」
春田が自前のランチトートから、二つ入れてきた保存容器の一つを手渡してくれた。容器の中には数種類の惣菜だけが入っている。
和泉も持参していた紙袋から、ラップフィルムでくるんだ白米のみのおむすびを取り出す。三角形や俵型にでも出来ればいいのだけれど、どう頑張っても円形にしかならない塩むすび。
自炊はあまりしないが米は炊けるので昼食は塩むすびを二人分こしらえて、春田が持ってきてくれる惣菜をいただいている。
アパートの部屋の風呂の給湯機の不調をきっかけに夕食をごちそうになった夜から、和泉は春田の部屋で夕食を共にするようになっていた。つくってもらうだけではフェアではないので、材料費を渡す他、簡単な手伝いや黒猫の遊び相手、たまに酒も差し入れる。
(……でも、ペット禁止なんだよな)
黒猫が春田と一緒に居る様子が当たり前になってきているが、ふと思い返す。猫は猫で春田からごはんをもらい、ひとしきりじゃれたり寝たりして、ふらりとどこかへ行ってしまう。
夜も春田が帰るタイミングで部屋の前にいて、夕食を終えて和泉が春田の部屋から出るタイミングでするりと出ていくことが多い。
春田の部屋と言えば、訪ねた最初の夜に黒猫が譲ってくれたパステルブルーのギンガムチェックのクッションに穴が開いてしまい、中綿も飛び出てしまった。春田は「買って三年以上も経ったから布が薄くなっていたせい」と笑いはしていたが、実際は黒猫の爪が引っかかったことが原因である。
寝床を無くした黒猫は、春田が寝室に置いていた同デザインのパステルグリーンのクッションを新たな寝床にしている。譲ってくれるのもそれだ。
パステルブルーのクッションは中綿が散らばらないよう、ポリ袋に入れられ部屋の片隅にぽつんとある。もう捨てるしかないものでも、春田にとっては捨てられない大切なものなのだろう――例えば、大切な誰かとの思い出が込められているとか。
今年四十歳になると春田本人が言っていたので、恋愛経験があってもおかしくはないし、思い出に残るような誰かとの別離もあったと思う。部屋の中に、今の春田へ繋がるヒントが少ないにしても、その心の中には確かな時間が描かれているに違いない。
「和泉さんのおむすび、ぎゅっとしててウマいっすね」
塩むすびに大きな一口でパクついた春田の唇の端にはごはん粒がついている。
ぎゅっとしてるというのは、力加減が上手くいかずにふんわりほろほろと解けるようなおむすびではないということだ。米粒が詰まっている。
「なんというか、師匠のようには全然いかなくて……」
「いや、ぶちょーはおうちのプロなんで。不動産売買も家事もプロ」
おむすびの握り方は師匠こと、春田の元上司であるスーパー家政夫さんに習っている。
春田も料理を中心に家事を時々教わっていると話していたので、和泉も弟子入りを申し出ていた。
背筋もしゃんと伸びた、ロマンスグレーな紳士がおふくろの味を想起させてくれるようなおむすびを握ってくれたのにたいへん衝撃と感銘を受け、このところ毎朝頑張ってみてはいる。
「ぶちょーのふわっとした感じのおむすびも好きだし、和泉さんのぎゅっとした感じのやつも好きっすよ、おれ」
「ありがとうございます……」
具も入っていない、白い爆弾のようなおむすびを和泉も一口頬張る。米の炊き加減は良い感じだが、詰まりすぎてエアリー感の再現にはまだまだだと思えた。
ごはん粒のついた春田の口端に黒猫が手を伸ばす。猫も気になるようだ。
「……春田さん、ごはん粒ついてますよ」
「にゃ!」
ちょうど猫の手の先辺り。そう言うと春田は指先で口元を撫でる。
「……ホントだ。教えてくれてあざっす……うおっ!」
指先にちょんとくっついたごはん粒に、黒猫がぱくりと食いついた。
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