猫と春。②
冬にしては天気のいい土曜日、春田は和泉を伴って住宅展示会場にいた。
展示会の準備が初めてという和泉のために集合時間よりも早めに現地に入り、会場設営をしていた。
「……」
イベント用テントを組み立てる手つきに、慣れてます感がビシビシしてくる。春田も展示会の度に武川たち男性社員とテント組み立てはするので慣れてはいるが、和泉の方がスピーディーとは。
「……和泉さん、テント組み立てんの速いっすね」
思ってもみないところで意外な特技を見た気がする。営業所内での事務仕事はまだ覚束ないので、余計にそう思える。
「ああ……えっと、前職で時々やってたので」
「そーなんすねー。和泉さんガタイいいし、身体使う系の仕事のが合ってる感じっすか?」
横腹の傷の手当時に見た、身体つきの良さは肉体労働所以 かもしれない。もしかしたら、家を売る方ではなく建てる方だったのかも。
「……わかりません。体力勝負の実務はしてきましたが、頭も使う方だったので」
仕事のことを訊いたので嫌な顔をされるかと思ったら、案外さらりと和泉は答えた。
テントの足がぐらつかないようにしっかり固定した後は、近隣に立てている案内用ののぼりをチェックしに向かう。展示会の数日前から出しているので、汚れや破れがあったりするのだ。
「今回はだいたいだいじょーぶっすね。たまにイタズラされたりするから」
天空不動産の社名が記してあるものだけに、汚れや破れもイメージダウンにつながる。営業職が身なりをきちんと整えることを求められるのと同じ、とかつて上司だったスーパー家政夫さんが教えてくれた。
「……そのイタズラとは、猫が爪を立てたり……ですか?」
「ひらひらするもんには猫もカラスも小学生も興味持つんすよねえ」
「にゃーあ」
「うぉっ!」
今朝は天気は良いが、放射冷却現象で気温はだいぶ低かった。寒かったせいか、出がけにはほぼ毎日アパートの玄関の前に座っている黒猫が今朝はいなかったのだが、噂をすれば。
「にゃーん、にゃーん」
金色の目がちらっと春田に向いた後は、やはり和泉の足元にまとわりつく。のぼりにイタズラさえしなければ春田的には構わない。
傷が塞がってきていた和泉は長躯を屈めて、黒猫の頭をおずおずと撫でている。気を良くした猫が自ら頭を手のひらに擦り付けるのにも戸惑っている様子だ。
「……春田さん……猫って、急に噛み付いたりしませんよね」
そんな大きな身体で小さな猫にびびらなくてもいいのに。でも、柔らかくて小さな生き物の扱いに戸惑う気持ちは少しわかる。幼なじみの荒井ちずが息子の吾郎を出産して間もない頃、抱かせてもらったことがあったからだ。
小さくて、あったかくて、ふにゃふにゃしていて、どう抱っこしていいのかもわからない――そんな吾郎も三歳になって元気に走り回っている。猫はなんだか、赤ちゃんに似ている気がする。
「嫌がるようなことしなかったら、だいじょーぶですよ。和泉さんのこと好きみたいだし」
「にゃあ」
嬉しそうに、和泉の手のひらに頭や胴体を擦り付ける黒猫からは、この男にだけは絶対に攻撃しないという意思が透けて見えるようだった。ならば、お泊まりするにしても和泉の部屋に行けばいいのに……。
「――春田くん、和泉くん、おはよう。猫ちゃんもおはよう」
「! ……ね、ねこたんッ……」
和泉と黒猫の背後から、舞香と武川がやってきた。もう集合時間か。
「おはよーございます。テントは和泉さんが頑張ってくれたんで、もう出来てるっすよ……」
「ねこたん……黒猫もまた良き……っ」
テント設営完了を伝えるも、営業部長たる武川のまなざしは和泉の傍らにいる黒猫に注がれていた。
そういえば最近、武川は猫を迎え入れたと話していたので、猫好きなのだろう。
しかし凝視されている側の黒猫は、じりっと後退りする。武川の目つきに奇妙な圧を感じたのか……。
「素晴らしい毛艶だ……和泉、撫でてもいいか……?」
「えっ」
黒猫が和泉に懐いていたので、和泉の飼い猫と武川は思ったようだ。黒猫は黒猫で後退っていき、和泉の陰に隠れてしまう。
「あの、この猫は……私の猫ではなくて」
「ふみゃあ」
和泉が否定するのに、黒猫が鳴き声をかぶせてきた。その声が何やら怯えている感じがする。
「――武川さん!」
別に和泉のことも、黒猫のこともかばうつもりはなかった。だが、黒猫が誰かの飼い猫ではないからと、触らせるのも何だか違う気がした。和泉に懐いているからと、和泉の許可が必要かと言えばそうでもなくて。
「こいつ、ちょっと怖がりなんで……今日は、遠慮してもらっていいすか」
本当に猫が好きなら、武川ならわかってくれるはずだ。猫が怖がることはしないはず。
「……わかった。ごめんなあ、怖がらせて」
落ち着いたトーンの武川の声、眼鏡のレンズの奥の眸を見れば、とても優しい雰囲気だった。
大切にしている存在に危害を加えるような人物ではない。むしろ大事にしすぎてウザがられるきらいがある。
黒猫は警戒しつつも和泉の陰から出てきて、「にゃ」と短く答えた。
■
住宅展示会場までついてきた黒猫の相手をしながら、晴れてはいても風の冷たい外で春田は内見客の応対をしていた。
黒猫という外見で怪訝な表情をする客もいるにはいる。だが、人当たりの良い様子に目尻を下げる客の方が多い。猫が猫をかぶっている状態だ。
「ねこちゃんかわいいねえ」
「さわっていい?」
「にゃあん」
特に子ども相手に愛想が良く、おとなしく撫でられていた。猫にだって良い人間と悪い人間の区別はつくだろうし、嫌がることさえしなければ小さい子どもはかわいいもの――。
「ねえねえ、このこ、おにいちゃんのねこちゃん?」
だが、大きい人間にとってはこの質問がいちばん困る。黒猫は春田の飼い猫でなければ和泉の猫でもない。住所不明の、身なりがきれいな謎の猫というのは最初から変わりないのだ。
「んー……おにいちゃんの、トモダチ?」
何度も会っているし、ごはんも一緒に食べるし、部屋に泊まりにも来た。そう思うと『友だち』みたいな関係性にどんどんなりつつはある。
「にゃおん」
春田の返答に、黒猫も深く頷いたように見えた。『トモダチ』認定してくれたらしい。和泉相手にするような甘えた顔も仕種もなく、「仕方ない」と言わんばかりの目つきで。下僕からランクアップしたと思っていいのだろうか……。
「春田さん、戻りました」
そんなところへ昼食を買いに行っていた和泉が戻ってきた。両手には中身がいっぱいのレジ袋を提げている。
「おかえりなさい。今入ってるお客様帰ったら、お昼にしましょ」
「はい」
買い物係になった和泉には「予算内で人数分、適当に」と言って買い出しに行ってもらってはいた。
今日の展示会担当になっているメンバーの好みはだいたいわかっているので、仕分けをしようとレジ袋の中身をあらためる春田だったが。
「? ……えっ?」
確かに「適当に」とは言ったが、何と説明しようか。レジ袋の中身と和泉の顔とを交互に見てしまう。
「……にゃ?」
黒猫の手にレジ袋の持ち手が触れ、カサリと小さな音を立てた。
「にゃああああ!」
そして黒猫は何故か、興奮したような鳴き声をあげた。無遠慮にも黒い手を袋に突っ込み、中身を出そうとし始めた。
「――こら! これは食っちゃだめだって!」
「にゃー!」
中身のひとつが転がり落ちた。イチゴのイラストが描いてあるパッケージの、イチゴジャムパンだ。さすがに猫には食べさせられない――黒猫が落ちたジャムパンの袋に爪を立てようとする寸前、春田は慌てて拾い上げた。
「だめだって言ってんだろ。おまえのごはんはちゃんとあるから!」
「にゃあああ!」
たかだかイチゴジャムパンひとつで猫とケンカなんかしたくない。呆然としている和泉の前で、春田は飛びついてくる黒猫から身をかわす。
どこかで食べて味を覚えてしまったとしても、猫にとって良くなさそうなものは食べさせたくない。
「……春田、何してるんだ。ねこたんと遊んでるのかっ」
内見客にモデルルームを案内していた武川が戻ってきた。遊んではいないのだが。
「こいつがジャムパンに食いついてるんすよ!」
「……あら? この袋の中、全部イチゴジャムのパンねえ」
レジ袋の中身を全部出した舞香があまり驚くふうでもなく呟いた。春田が先ほどレジ袋の中身と和泉の顔を見比べてしまったのは、和泉が買ってきたパンがすべてイチゴジャムのパンだったから。種類やパッケージの違いはあっても、「適当に」とはそういうことでもない。
「飲み物は全部牛乳ねえ。なんだか張り込みでもするみたい」
「刑事ドラマじゃあるまいし……ドラマだとあんパンじゃないか?」
舞香と武川の『張り込み』『刑事』という言葉に、一瞬和泉が表情をかたくしたように春田には思えた。春田の手からジャムパンを奪おうとしていた黒猫もおとなしくなる。
イチゴジャムのパンが和泉に、または黒猫に何らかの因縁を持たせているキーアイテムだったりするのか。ふたりの様子がそんな深読みをさせてくる。
「……春田さん、あの」
和泉がおどおどしながら、謝ろうとしてきた。春田は首を横に振って笑ってみせる。
「いいんすよ。おれ、イチゴジャム好きなんで」
こういう失敗は誰でもするものだから、あまり不安にならなくてもいい。上司として部下の失敗を責めるのではなく、次をよくするために一緒に考える。決して一人で抱え込ませない――これも、かつての上司から教わったことだ。
「あとで、営業所のみんながどういうの好きか教えますね」
「! ……ありがとうございます」
あの大きな背中には程遠い。それでも部下を持った上司として、この年上の部下と一緒に成長していけば少しくらいは近づけるはず。
(……ぶちょー、おれ頑張ります!)
尊敬するかつての上司に春田は心の中で誓った――同時刻、どこかの家でほこり取りをしていたスーパー家政夫さんがくしゃみをしていたのは知らずに。
「なー!」
黒猫が昼ごはんを要求してきたのに春田と和泉は顔を見合わせ、苦笑いした。
展示会の準備が初めてという和泉のために集合時間よりも早めに現地に入り、会場設営をしていた。
「……」
イベント用テントを組み立てる手つきに、慣れてます感がビシビシしてくる。春田も展示会の度に武川たち男性社員とテント組み立てはするので慣れてはいるが、和泉の方がスピーディーとは。
「……和泉さん、テント組み立てんの速いっすね」
思ってもみないところで意外な特技を見た気がする。営業所内での事務仕事はまだ覚束ないので、余計にそう思える。
「ああ……えっと、前職で時々やってたので」
「そーなんすねー。和泉さんガタイいいし、身体使う系の仕事のが合ってる感じっすか?」
横腹の傷の手当時に見た、身体つきの良さは肉体労働
「……わかりません。体力勝負の実務はしてきましたが、頭も使う方だったので」
仕事のことを訊いたので嫌な顔をされるかと思ったら、案外さらりと和泉は答えた。
テントの足がぐらつかないようにしっかり固定した後は、近隣に立てている案内用ののぼりをチェックしに向かう。展示会の数日前から出しているので、汚れや破れがあったりするのだ。
「今回はだいたいだいじょーぶっすね。たまにイタズラされたりするから」
天空不動産の社名が記してあるものだけに、汚れや破れもイメージダウンにつながる。営業職が身なりをきちんと整えることを求められるのと同じ、とかつて上司だったスーパー家政夫さんが教えてくれた。
「……そのイタズラとは、猫が爪を立てたり……ですか?」
「ひらひらするもんには猫もカラスも小学生も興味持つんすよねえ」
「にゃーあ」
「うぉっ!」
今朝は天気は良いが、放射冷却現象で気温はだいぶ低かった。寒かったせいか、出がけにはほぼ毎日アパートの玄関の前に座っている黒猫が今朝はいなかったのだが、噂をすれば。
「にゃーん、にゃーん」
金色の目がちらっと春田に向いた後は、やはり和泉の足元にまとわりつく。のぼりにイタズラさえしなければ春田的には構わない。
傷が塞がってきていた和泉は長躯を屈めて、黒猫の頭をおずおずと撫でている。気を良くした猫が自ら頭を手のひらに擦り付けるのにも戸惑っている様子だ。
「……春田さん……猫って、急に噛み付いたりしませんよね」
そんな大きな身体で小さな猫にびびらなくてもいいのに。でも、柔らかくて小さな生き物の扱いに戸惑う気持ちは少しわかる。幼なじみの荒井ちずが息子の吾郎を出産して間もない頃、抱かせてもらったことがあったからだ。
小さくて、あったかくて、ふにゃふにゃしていて、どう抱っこしていいのかもわからない――そんな吾郎も三歳になって元気に走り回っている。猫はなんだか、赤ちゃんに似ている気がする。
「嫌がるようなことしなかったら、だいじょーぶですよ。和泉さんのこと好きみたいだし」
「にゃあ」
嬉しそうに、和泉の手のひらに頭や胴体を擦り付ける黒猫からは、この男にだけは絶対に攻撃しないという意思が透けて見えるようだった。ならば、お泊まりするにしても和泉の部屋に行けばいいのに……。
「――春田くん、和泉くん、おはよう。猫ちゃんもおはよう」
「! ……ね、ねこたんッ……」
和泉と黒猫の背後から、舞香と武川がやってきた。もう集合時間か。
「おはよーございます。テントは和泉さんが頑張ってくれたんで、もう出来てるっすよ……」
「ねこたん……黒猫もまた良き……っ」
テント設営完了を伝えるも、営業部長たる武川のまなざしは和泉の傍らにいる黒猫に注がれていた。
そういえば最近、武川は猫を迎え入れたと話していたので、猫好きなのだろう。
しかし凝視されている側の黒猫は、じりっと後退りする。武川の目つきに奇妙な圧を感じたのか……。
「素晴らしい毛艶だ……和泉、撫でてもいいか……?」
「えっ」
黒猫が和泉に懐いていたので、和泉の飼い猫と武川は思ったようだ。黒猫は黒猫で後退っていき、和泉の陰に隠れてしまう。
「あの、この猫は……私の猫ではなくて」
「ふみゃあ」
和泉が否定するのに、黒猫が鳴き声をかぶせてきた。その声が何やら怯えている感じがする。
「――武川さん!」
別に和泉のことも、黒猫のこともかばうつもりはなかった。だが、黒猫が誰かの飼い猫ではないからと、触らせるのも何だか違う気がした。和泉に懐いているからと、和泉の許可が必要かと言えばそうでもなくて。
「こいつ、ちょっと怖がりなんで……今日は、遠慮してもらっていいすか」
本当に猫が好きなら、武川ならわかってくれるはずだ。猫が怖がることはしないはず。
「……わかった。ごめんなあ、怖がらせて」
落ち着いたトーンの武川の声、眼鏡のレンズの奥の眸を見れば、とても優しい雰囲気だった。
大切にしている存在に危害を加えるような人物ではない。むしろ大事にしすぎてウザがられるきらいがある。
黒猫は警戒しつつも和泉の陰から出てきて、「にゃ」と短く答えた。
■
住宅展示会場までついてきた黒猫の相手をしながら、晴れてはいても風の冷たい外で春田は内見客の応対をしていた。
黒猫という外見で怪訝な表情をする客もいるにはいる。だが、人当たりの良い様子に目尻を下げる客の方が多い。猫が猫をかぶっている状態だ。
「ねこちゃんかわいいねえ」
「さわっていい?」
「にゃあん」
特に子ども相手に愛想が良く、おとなしく撫でられていた。猫にだって良い人間と悪い人間の区別はつくだろうし、嫌がることさえしなければ小さい子どもはかわいいもの――。
「ねえねえ、このこ、おにいちゃんのねこちゃん?」
だが、大きい人間にとってはこの質問がいちばん困る。黒猫は春田の飼い猫でなければ和泉の猫でもない。住所不明の、身なりがきれいな謎の猫というのは最初から変わりないのだ。
「んー……おにいちゃんの、トモダチ?」
何度も会っているし、ごはんも一緒に食べるし、部屋に泊まりにも来た。そう思うと『友だち』みたいな関係性にどんどんなりつつはある。
「にゃおん」
春田の返答に、黒猫も深く頷いたように見えた。『トモダチ』認定してくれたらしい。和泉相手にするような甘えた顔も仕種もなく、「仕方ない」と言わんばかりの目つきで。下僕からランクアップしたと思っていいのだろうか……。
「春田さん、戻りました」
そんなところへ昼食を買いに行っていた和泉が戻ってきた。両手には中身がいっぱいのレジ袋を提げている。
「おかえりなさい。今入ってるお客様帰ったら、お昼にしましょ」
「はい」
買い物係になった和泉には「予算内で人数分、適当に」と言って買い出しに行ってもらってはいた。
今日の展示会担当になっているメンバーの好みはだいたいわかっているので、仕分けをしようとレジ袋の中身をあらためる春田だったが。
「? ……えっ?」
確かに「適当に」とは言ったが、何と説明しようか。レジ袋の中身と和泉の顔とを交互に見てしまう。
「……にゃ?」
黒猫の手にレジ袋の持ち手が触れ、カサリと小さな音を立てた。
「にゃああああ!」
そして黒猫は何故か、興奮したような鳴き声をあげた。無遠慮にも黒い手を袋に突っ込み、中身を出そうとし始めた。
「――こら! これは食っちゃだめだって!」
「にゃー!」
中身のひとつが転がり落ちた。イチゴのイラストが描いてあるパッケージの、イチゴジャムパンだ。さすがに猫には食べさせられない――黒猫が落ちたジャムパンの袋に爪を立てようとする寸前、春田は慌てて拾い上げた。
「だめだって言ってんだろ。おまえのごはんはちゃんとあるから!」
「にゃあああ!」
たかだかイチゴジャムパンひとつで猫とケンカなんかしたくない。呆然としている和泉の前で、春田は飛びついてくる黒猫から身をかわす。
どこかで食べて味を覚えてしまったとしても、猫にとって良くなさそうなものは食べさせたくない。
「……春田、何してるんだ。ねこたんと遊んでるのかっ」
内見客にモデルルームを案内していた武川が戻ってきた。遊んではいないのだが。
「こいつがジャムパンに食いついてるんすよ!」
「……あら? この袋の中、全部イチゴジャムのパンねえ」
レジ袋の中身を全部出した舞香があまり驚くふうでもなく呟いた。春田が先ほどレジ袋の中身と和泉の顔を見比べてしまったのは、和泉が買ってきたパンがすべてイチゴジャムのパンだったから。種類やパッケージの違いはあっても、「適当に」とはそういうことでもない。
「飲み物は全部牛乳ねえ。なんだか張り込みでもするみたい」
「刑事ドラマじゃあるまいし……ドラマだとあんパンじゃないか?」
舞香と武川の『張り込み』『刑事』という言葉に、一瞬和泉が表情をかたくしたように春田には思えた。春田の手からジャムパンを奪おうとしていた黒猫もおとなしくなる。
イチゴジャムのパンが和泉に、または黒猫に何らかの因縁を持たせているキーアイテムだったりするのか。ふたりの様子がそんな深読みをさせてくる。
「……春田さん、あの」
和泉がおどおどしながら、謝ろうとしてきた。春田は首を横に振って笑ってみせる。
「いいんすよ。おれ、イチゴジャム好きなんで」
こういう失敗は誰でもするものだから、あまり不安にならなくてもいい。上司として部下の失敗を責めるのではなく、次をよくするために一緒に考える。決して一人で抱え込ませない――これも、かつての上司から教わったことだ。
「あとで、営業所のみんながどういうの好きか教えますね」
「! ……ありがとうございます」
あの大きな背中には程遠い。それでも部下を持った上司として、この年上の部下と一緒に成長していけば少しくらいは近づけるはず。
(……ぶちょー、おれ頑張ります!)
尊敬するかつての上司に春田は心の中で誓った――同時刻、どこかの家でほこり取りをしていたスーパー家政夫さんがくしゃみをしていたのは知らずに。
「なー!」
黒猫が昼ごはんを要求してきたのに春田と和泉は顔を見合わせ、苦笑いした。
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