猫と春。①

 翌日の朝も、玄関ドアを開けると黒猫は佇んでいた。「おはよう」と春田が声をかけると、一瞥をくれて「にゃあ」と返事をしてくれる。
 昨日の仕事帰りに買っておいた猫用のおやつを出してみると、金色の目がぴかっと光る。
 どこから来ている猫なのか昨日の今日ではわからなくても、こういう友達も悪くないような気がしてきた。
 おやつに満足した猫は春田の足元を一周した後、アパートの隣室の玄関前に立った。隣はずっと空室だったのだが、年末に入居者が来ると大家のおばさんに教えてもらっていた。
 隣人に会ったことはまだない。表札も出していないが防犯上、そうしている家もあるから気にはしていない。
 顔を合わせる機会があれば挨拶すればいいや。軽く考えていた春田の耳に、不意にガリガリと何かが擦れる音が入ってくる。
「……あっ! こらっ、ダメだろ!」
 黒猫が伸び上がって、隣室の玄関ドアで爪とぎをしている……! 猫の身体思ったより長っ! じゃなくて、ドアが爪とぎに適した材質ではないし、目立った傷なんてつけようものなら決して安くはない敷金が吹っ飛ぶ! ヒトの事情なんて猫には関係ないけれど、春田が黒猫の所業を止めに行くと、隣室のドアが開く――出てきたのは、和泉だった。
「……春田さん……? こんなところで何を……?」
 隣の部屋に和泉が住んでいることに春田も驚いたが、和泉も和泉で驚いた顔をしていた。
「すんません、こいつがドアで爪とぎしちゃって!」
 のんびりと「にゃん」と言う黒猫を抱えた春田が見たままを告げると、和泉はドアを閉めて一歩近づいてくる。
「なんの音かと思ったら、おまえか」
 声音に含まれる柔らかさと、唇に佩いた微笑み。「にゃあっ」と可愛らしく鳴いてみせた黒猫の小さな頭に、和泉がそっと右手を置く。
「あんまり悪戯するんじゃないぞ」
 黒猫と和泉の間に漂う、穏やかな空気。たぶん知り合いではない一匹と一人なのに、何故か親密さが感じられるよう。猫は機嫌がいいとゴロゴロ喉を鳴らすと言うが、抱えている春田にもゴロゴロ音が伝わってきている。
「……春田さん」
「はい……?」
 いつの間にか和泉は黒猫から手を離していた。猫もするりと春田の腕から逃れて、春田と和泉の間に座る。
「こちらのアパート、ペット可なんですか?」
「いえ、ペット禁止です……」
 この猫も昨日どこかからふらっとやって来たのであって、自分の飼い猫ではない。春田がそう答えると、和泉は足元に座る黒猫に視線を落とした。そして春田の手元にも目をやる。
「……それなら、餌付けはすべきではないと思います」
 ついさっき黒猫に与えていた、猫用おやつの空袋を持っていたのを春田は失念していた。
 和泉はそれ以上責めるでもなく、小さく頭を下げてアパート前の道路に踏み出す。
 あっという間に遠ざかっていく背中に、寂しさが浮かんで見えたのはどうしてだろう……。
「にゃー!」
「!」
 黒猫の一声に、自分も同じ職場に向かうのだと春田は思い出した。慌てて和泉の後を追いかける――その前に。
「じゃあな。もうおやつ、やれねえからな?」
 黒猫に声をかけて、駆け出した。残ったおやつは保護猫施設に寄付しよう。残り物だけでは味気ないから、何種類か買い足して……。
 そう考えながら和泉の後を追いかける、そんな背中を黒猫がじっと見つめていることに春田は気付かなかった。



 ――数日後の早朝、玄関の方から小さく聞こえてくる引っ掻き音で春田は目を覚ました。
 今日は公休日、寝坊できると思っていたのに何事だろう。のっそりと布団から身を起こし、寝巻にしている襟ぐりがヨレたスウェットのまま玄関へ行ってみる。ふつうに寒い。
 引っ搔き音はまだ続いていて、その合間に「なー!」「にゃああん!」と猫の鳴き声も混ざった。あの黒猫におやつを与えていたのを近所の野良猫にでも見られていたのか――猫は猫同士で独自のネットワークを持っているというまことしやかな都市伝説もあるし、ここのうちに来れば食べ物がもらえるとでも広まったか……?
 うちに来てもおやつはない、と説得してお帰りいただくしかない。春田はカギを外し、そっとドアを開けてみる。
「なあああ!」
 遅えよ!と言わんばかりの大声に足元を見れば、金色の目をしたいつもの黒猫がいる。
 たしんたしん、長い尻尾を地面に打ち付けているようにしている様子はご機嫌斜めのように見えた。
「なんだ、おまえかよ。もうおやつないぞ」
 和泉に餌付けはどうなのかと苦言を呈されたので、先日買った猫用おやつはもう手元にはない。ユニコーンの称号を持つスーパー家政夫さんが紹介してくれた保護猫カフェに、買い足した分と合わせて寄付済みだ。
 春田が言うと、黒猫は首を横に振った。おやつをもらいに来たわけではないらしい。
 しなやかな身体を翻し、どこかへ歩いていく。見送るつもりで玄関先に突っ立っていた春田に振り返り、「付いて来い」と言うふうに目配せをしてきた。
 冬の朝の空気は凍て付き、肌が露出している部分にじかに突き刺さってくる。布団で温まっていた身体もあっという間に冷えそうだ。サンダルをつっかけて黒猫に付いて行ってみれば目と鼻の先。隣室の玄関前だ。
「……っ!」
 視界に入ってきたのは、黒猫とは異質な黒い影。人が、倒れている?
 その黒い影の傍らに猫は座り、にゃあにゃあ鳴いている。黒い影と思っていたものはコートらしく、それは和泉が着ているコートとよく似ていた。
 胸騒ぎがする。こんなに凍える朝に不自然に倒れている人影なんて、救急車か警察に通報しなければいけないかもしれない。
 春田はおそるおそる、倒れている人の顔を覗き込む。
「いっ……和泉さんっ……?」
 何時間この寒さにあたっていたのか、血色は決して良くない状態だ。和泉の頬に触れ、口元に耳を近づけてみて、呼吸はしていると確認はできた。
「にゃー! にゃああおう!」
 焦りを感じさせる黒猫の鳴き声に、春田は和泉の顔から視線を移した。コートの黒と、猫のつややかな黒色――そして、日常の光景には異質めいて浮かぶ鮮やかな赤色。それは和泉の右側腹部を中心に、白いシャツに染み広がっていた。
「え……なにこれ…………和泉さん……?」
 ただ転んだくらいで、こんなところに傷ができるものではない。転んだ先に鋭利な刃物や、頑丈な植物の枝でもないと……。そうでなければどこかで刺されたか、撃たれたのか――そういう傷だと春田も察する。
「和泉さん、大丈夫っすか! 和泉さん、目開けてっ!」
 じわじわとシャツの白を遠慮なく染め替えようとしている血を止めるために、春田は自分の手で傷口にあたる部分を強く押さえた。ぬるつきにぞっとしながらも、和泉に呼び掛ける。
「和泉さん! 和泉さん、起きて!」
「なああああんッ!」
 春田の声に呼応するように、黒猫も大声で鳴いて前足で和泉の頬を叩く。すると、かたく閉じられていた瞼がうっすら開いた。
「……あ、…………あき、と……?」
 ふるえる唇が、知らない誰かの名前を呼ぶ。短く鳴いた黒猫を他所に和泉の腕が持ち上がり、春田の頬に血まみれの手が添う。
「……生きてた、のか……」
 ぼんやりと開いた眸は淡く笑んでいて、まなざしは春田を捉えているようでいながら、別の場所でも覗いているようで。意識をこちらの世界へ呼び戻すために、春田は叫んだ。
「和泉さんっ! 大丈夫なんすかっ!」
 眉間に皺が刻まれるのが見えた。声はきちんと届いている。それなら救急か警察に連絡する時間は取れるかも、と和泉の傍を離れようとしたのだが――スウェットのヨレた襟ぐりを握られ、強い力で引き寄せられる。
「――……相変わらず……うるせえ、唇……な」
 吐き出された息のスローなテンポ、押し付けられる唇の弾力。腰の辺りを黒猫にパンチされた気配はあるものの、意識と感覚のすべてが和泉へと向かう。
 怪我をして、意識があまりはっきりしていないにしても、どうしてキスをしてきた? うるせえのは仕方ないにしても、物理的に唇を塞がないといけないくらいうるさかった……?
 疑問は頭の中をぐるぐる回る。考えてもわからない。名残惜しそうに濡れた音を立てて離れていく和泉の唇と、その意識と――。
「にゃ! にゃー! にゃああっ!」
「いってっ」
 ジャンピング猫キックで春田は我に返った。くるっと綺麗に宙返りして着地した黒猫は、和泉の部屋の玄関ドア前に走った。隅にひっそりと、ひっくり返されて置かれている植木鉢を小突いている。
「もー……、おまえも和泉さんも何なんだよ……」
 黒猫が前足で小突く植木鉢を持ち上げてみると、鍵があった。部屋の鍵を今どきこんなわかりやすいところに置く人間はいない気がするが、思った通り和泉の部屋の鍵だった。
 和泉がコートの内ポケットに入れていたスマートフォンで救急と警察への通報をしようとしたものの、悉く黒猫に邪魔をされたため、春田は已む無く和泉を部屋の中へ運び込んだ。
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