猫と春。①

 ――にゃあん、と足元から猫が鳴く声がした。朝、出勤時に部屋の玄関ドアを開けた時のこと。
 つやつやした黒い毛並みの美しい猫に春田創一はドキリとする。黒猫は春田をじっと見上げてきた。金色をした眸は朝日とは違った光を宿している。なんとなく身を屈めて背中を撫でてみても、逃げたりしない。
 きれいに手入れされている猫だし、どこかの家の飼い猫なのだろう。それ以上のことは考えず、春田は黒猫に手を振って駅へと歩き出した。

 今日は年明け最初の出勤日だ。四十歳の誕生日も五月に来るものの、伴侶どころか恋人もいない。
 正確には、春田にかつて恋人はいたのだ――同性で年下の、会社の後輩の牧凌太。
 春田自身はノンケだが、牧の熱意に押される形で交際を始め、春田も牧を恋人として強く想うようになっていった。同性同士という壁も乗り越え、仲も深まった頃に牧が天空不動産第二営業所から本社へと栄転になり、さらに海外への長期出張も決まった。
 もともと若くて優秀な牧が一介の営業職で終わるわけがない。職場が変われば必然的にすれ違いも増え、さらに海外出張が拍車をかける。
 連絡すらまともに取り合えず、放り出された形の春田は寂しさを募らせていった。それはいつしか苛立ちに変わり、なかなか繋がらない電話口で牧を傷つける言葉も溢れてくる。牧が優秀だから大事なプロジェクトを任されるのはわかっていても、それなら様々な葛藤を乗り越えて恋人になった自分の存在は牧にとってただの足枷にしかならないと感じられる。
 いっそ、この関係をやめてしまいたい――春田が言い出すよりも先に、牧から切り出してきた。出張先で好きになった人ができたから、別れたいと。春田に惚れて付き合ってみたけど、何か違ったと。
 笑いながらも牧の声はふるえていて、さすがに春田にも別れの理由にウソがあるとわかってしまった。でも、お互いに好きな人を傷つけるくらいなら、理由が下手でも別れた方がマシ。
 春田は牧の言葉を飲み込んだ。傷つける言葉を放ったことも謝った。今さら何もなかった状態には戻れないけれど、牧との時間にも意味があったといつか見つめ直せる日が来ると信じて、別れを選んだ。

 新年の空気には、冴えた清々しさを感じられる。白い吐息が朝日にきらきら、とけていく。
 牧と一緒に過ごした実家も出て、風呂トイレ付きの築二十年ばかりの単身者用アパートに引っ越して三回目の新年がやってきた。今年はどんな一年にんるのだろうと思いを馳せてオフィスに入る。
(…………あいつ、おれが帰るまでいるのかな)
 玄関先にいた黒猫のことをふと思い出し、帰りに猫用のおやつを買おうと決めた。



 新年最初の朝礼終わり、武川政宗営業部長が新入部員という男性の紹介を始めた。もう年度末も目と鼻の先だというのに、中途採用者なんて珍しい。
 背の高い武川に引けを取らない長身で、前髪で目元は隠れ気味ではあるが、整った顔立ちをしている。
「い……和泉、幸です……よろしくお願いいたします」
 なんだか心もとない挨拶のあと、礼をする姿勢がとてもきれいだった。前職は明かしたくないとのことだったが、きっと礼儀を求められる職場だったのだろう……。
「――春田! 係長! 和泉の教育係に任命する」
「――は? えっ、おれですかあ?」
 新人教育には何度か携わってきたが、全員年下だった。和泉は見るからに年上なのだが、老け顔で困っているという可能性もないわけではない。
 春田は和泉に近づいて、右手を差し出した。
「和泉さん、初めまして。春田創一です、よろしくお願いします! ……ところで和泉さん――」
「っ……!」
 自己紹介に続けて年齢を訊こうとしたら、和泉はひどく怯えた顔をしてオフィスから走り去ってしまった――何が起きたんだろう。初対面で、おそらく何もしていないのに何故逃げられた……?
「たっ……武川さん、おれ何かしましたっけ」
 傍らにいた武川に水を向けると、首を横に振られた。出会って数分で何も起こしようがない。
「……もしかしたら、春田の顔にトラウマでもあるとか、か?」
 同じ顔をした人間との間に過去、何かあったから反射的に逃げたくなったのかも。憶測に過ぎないが、世の中には自分と同じ顔をした人間が三人はいるというから、あながち合ってなくもない気はする。
 だが、教育係として顔を突き合わせる必要があるので、その辺のフォローはしっかりしなければ。
「もー……」
 入社早々、手のかかる新人だ。春田は和泉を探すためにオフィスを出た。

 にゃあ、にゃあと猫の鳴き声がした。オフィスビルの裏手に導かれるように行ってみれば、壁にもたれて座り込んでいる和泉と、その足元には黒猫がいる。
 春田の気配に黒猫は頭を上げて、にゃーんと一声。全然逃げない。
「和泉さん……あの、だいじょーぶですか」
 声をかけると和泉はそろそろと顔を上げ、春田の顔を見て再び俯く。この顔が何かしたんだろうか……。
 黒猫は前足でぺしぺし、和泉の脚にパンチを喰らわせる。怒っているのか構ってほしいのかはわかりかねるところだ。
「……すみません」
 挨拶の時の心もとなさをそのままに、和泉は謝罪の言葉を漏らす。
「あの……よく知っている奴と、春田さんが、あまりにも似ていたもので……」
 猫パンチはしつこく続いている。それでも和泉は俯いたまま、そう明かしてくれた。
 和泉の脚への攻撃を緩めない黒猫の頭を春田はそっと撫でで宥める。膝を突いた春田の背に猫は軽々飛び乗って「にゃあ」と鳴き、肩に顎を乗せてきた。もしかしてこの黒猫、アパートの前にいたやつか……?
 猫に対して疑問を抱くも、今は新人のケアが優先だ。
「この顔がダメそーなら、教育係、別の人に代わってもらいます? おれの顔のせいで仕事覚えられないのは困りますよね……?」
 教育係の交代を提案した春田に、和泉は小さくかぶりを振った。おそるおそる顔を上げて、不安の色濃いまなざしを向けてくる。そして、春田の肩に乗った猫にも。
「……頑張ります。春田さんは、あいつとは別人ですから」
 和泉の手がそっと伸びてきて、黒猫の小さな額に触れた。途端に猫は機嫌好さげな鳴き声をあげて、自ら和泉の手に頬擦りしにいく。だいぶ人懐っこい。
「この猫、和泉さんの知り合いですか?」
 野良か飼い猫かも知らないのに、黒猫が和泉の知り合いであるような気がして、春田は訊いてみる。
「……知り合い…………どうなんでしょうか……?」
 何故か曖昧な答えを口にした和泉の指に、黒猫がぱくりと噛み付いた。
「こいつは知り合いだって言ってるみたいですけど」
「……そうは言われましても」
 黒猫にパクつかれた指はそのままに、和泉はぼんやりとしてため息を吐き出した。
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