猫と春。⑥

 黒猫は今夜は絶対に泊まる気のようで、新しい円形のクッションの上でもうまるくなっている。好きな男のやらかしに拗ねて、ふて寝したとも言える。
 キスのことはともかく、和泉が過去の話をしてくれたのは信頼されている証だろうと春田は思う。完全にまでとはいかないまでも、ある程度信頼に足る人間だと認めてもらえたようで嬉しかった。
 玄関のドアを開けて、隣の部屋へと帰っていく背中に安直な励ましは言えないけれど、
「和泉さん、おやすみなさい……また明日」
 当たり前で、当たり障りのない挨拶なら口にできる。
 そう言うと、和泉はゆったりと振り返り、また春田の部屋へと近付いてきた。
 外灯の明るさが陰影を作り出す。和泉がどんな表情をしているのか、それははっきり見えなかったものの――重なってきた生あたたかさははっきりわかった。
 速いテンポで白く溶けていく吐息。唇の厚みを測るように舌がなぞる。
 右手に後頭部が押さえられて、左腕が背中に巻き付く。混ざり合った唾液は顎を伝い、喉仏の輪郭を撫でて流れた。春田も和泉の背中に腕を回して、寛げられていたワイシャツの後ろ襟をぎゅっと掴む。
 このまま、和泉に委ねてしまってもいい気はした。牧との恋は終わったのだから、新しい恋を求めたって別にいい。決まった型には当てはめず、肉体だけ求め合った次の朝には何もなかったように取り澄ましていてもいい。
 男とのセックス経験もあるし、やり方もわかる。優しくはしてくれなくていい、強引にでも構わない。呼吸も奪い去るキスのまま、本性もさらけ出してくれたら――。
「――春田、さん……」
 唇から吐き出された音と息。きつく閉じていた目を開ければ、眸のギラつきが照らし出される。二月の夜気の冷たさに反して、二人とも体温は上がっていた。
「その……秋斗とは、全然違うと、わかっているんですが…………あ、いや、違うとわかったからと言うか」
 ぼそぼそと、くっついた距離だから聞き取れるボリュームだ。キスに関しての言い訳ならしなくても気にしないのに。
「……ガマン、できなくなっちゃいました?」
 性欲というところでは誰でもそんな時はある。本能に刻まれてる、生きるための欲だから。
 素直に頷いた和泉がなんだか可愛いと、春田の胸は高鳴る。猫が見てないところでと言ったことも和泉は覚えてくれていた。
「いいですよ、おれは。和泉さんの上司だもん」
「……それだと、私が、春田さんに逆にセクハラしてる感じになりませんか……?」
「そうっすね……。でも、相手がいないと、キスしたくても出来ないし」
 和泉が本当にキスをしたい相手がいないから、目の前にいた自分が選ばれただけだ。
 皮膚の下から鼓動が「自覚しろ」と胸を殴りつける。和泉幸が気になるのではなく、和泉幸に惹かれ始めているのだと自覚を促してくる。
 しかし、好きだと口に出すのはまだまだ早い気がした。
「そう、ですよね……キスも、相手がいてこそですから」
 抱かれたままの後頭部と背中、その指先にきゅっと力が入ったのを春田は感じる。
 じっとまっすぐ見つめられて、熱くて、恥ずかしくて、それでも目は逸らせない。
 自分は和泉に何を期待しているんだろう。相手の思惑も見えないのに……深みにハマったら絶対に後戻りできなくなる予感しかないのに。
「春田さんも、キス、したくなる時があるんですよね……?」
 ごく至近距離の相手は意地悪でも何でもなく、疑問を投げかけてきた。頷いても、「はい」と口を動かしても唇が触れる寸前。
「……こうしたいと感じるのも、生きているから……なんですよね」
 どんなに血を流しても、心臓や脳がこの肉体を生かそうと細胞に命令するうちは生きている。
 どんな悲しみや絶望に襲われようと物理的ではない限り、そういった目に見えないものがすぐ人体を死へと追い込むことはない。じわじわと弱らせ、やがて死に至るものだ。
 心臓が動き続けて鼓動を鳴らすうちは、欲から逃れられない。人間も動物の一種に過ぎないと、嫌でも思わされる。
 そんな欲を満たすために、時には相手が必要にもなる。キスしたいと強烈に感じた時、春田の目の前には和泉がいたし、和泉の傍には春田がいた、それだけ。他にキスをしたい理由は見つからない。
 理由なんか見つけたくないのに、胸の奥で頭をもたげているその芽が存在感を徐々に強くする。
「…………和泉さん……っ」
 近付けた唇を、和泉は抵抗なく受け入れてくれた。たとえ勘違いでも、ただの本能から湧き起こった欲望だけのものでも、キスはとろけるほどに甘くて、熱くて、せつない。
 こんなことで関係性が劇的に変わるでもなく、明日の朝になれば普通に顔を合わせて「おはよう」を交わしている。男と男が恋に至るまでは簡単ではないことを、誰よりも春田自身が覚えている。
 ――だから、こんな、恋人同士のようなキスは…………今夜だけのもの。



 冷え切った外にいたのに、身体じゅう熱い。
 玄関のカギを閉めてリビングに戻ると、黒猫はクッションの上でぷーすーと寝息を立てている。
 和泉は黒猫の想い人なのにキスなんて悪いことをしたと反省する一方で、止め切れていない火照りも残っているのも自覚する。さすがにリビングでそういうことは出来ないので、春田はトイレに駆け込んだ。
(…………AVでも男同士でキスしても、反応するもんだな)
 牧と付き合い始めてからは大人の映像作品をレンタルしたり観たりすることもなかった。
 風俗サービスとも縁はないし、そういう行為自体三年以上してない。そりゃ少子化が進むわけだ……性欲は本来、種の存続のための本能だし。
 それならやっぱり、本気で彼女をつくる方を優先すべきか。実家の母は何も言ってこないけど、一人息子だし、お嫁さんをもらって孫の顔を……といった希望はほんの少しくらいは持っていると思う。母も母で若い恋人はいるから、孫の世話より彼氏を優先してもそれは母の自由である。
 トイレで火照りを流して、リビングからキッチンに向かう。冷蔵庫に入れておいた、和泉からの差し入れの缶ビールを一本取り出す。
「…………んにゃ」
 おつまみは準備せず、缶ビールだけ持って座椅子に座ると、黒猫が起き上がって近づいてきた。
「……猫はビールじゃなくてマタタビだっけ。うちにはありませんー」
「にゃー」
 春田の膝によじ登って来た黒猫だが、ビールには興味ありませんとそっぽを向く。
 ローテーブルの上に置いていた猫用の水は、ペットボトルに半分ほど残っていた。黒猫が膝から退けそうにないので、春田はボトルキャップに水を入れて猫の口元に寄せてみる。器が小さくて飲みづらいかもしれない。
 それでも黒猫は器用に舌で水をすくい、キャップ一杯分はあっという間に飲み干された。
 キャップに水を入れて黒猫が飲む、を繰り返す中、春田の唇からは自然と想いが零れ出す。
「……どうしよう、おれ…………和泉さんのこと、好きかも」
 出会ってからまだ一ヶ月経ったばかりで、相手のことも知らないことばかり。刺し傷の手当てや前職のこと。食事への考え方の違い、事務仕事はまだまだ頼りないけれど、頼りにできる面もあること。失恋の話を聞いてもらったこと。
「おまえが、和泉さんのこと好きなのはわかってるんだけど……いや、好きになるのも早すぎだって自分でも思うんだけどさっ……」
 自覚の芽はすでに生えてしまっている。黒猫は和泉のことが好きで、和泉は和泉で亡くしてしまった恋人を想い続けている。それぞれのベクトルも嚙み合っていない。
 そして、恋人を手にかけた犯人への復讐を目論み、自らの終わりさえ厭わない人間が簡単に気持ちを覆すとも春田には思えなかった。
「にゃ」
 春田の膝に座っていた黒猫が顔を上げ、前足をスウェットシャツに引っかける。背伸びするように後ろ足で立ち、春田の唇にすんすん鼻を寄せた後――口をぎゅっと押し付けてくる。
「っ!」
 和泉がキスをしたから真似でもしたのか。猫からもキスされるとは思わなかった。
 顔の毛とひげが少しくすぐったかった。そういうことは正しく好きな相手にしてやればいいのに……。
「ん……、な、あ…………あ、あー」
 黒猫が鳴き声を出す。いつものことだ。しかし猫の鳴き声だった音に、人間が発する声音が混ざって聞こえる。あくびをするような口の動きで、ただの鳴き声ではなく『ことば』と受け取れる感覚。
「あー、あああー。んんっ……よし、声出る」
 目の前で口を動かしているのは確かに黒猫なのに、聞こえることばが「にゃー」でも「なーん」でもなく、「声出る」。しかもなんだかイケボ。
 見慣れた金色の眼がきょろりと動いて、こちらを照らした。
「……オレが和泉さんのこと好きだって、わかってんじゃん春田」
 猫と人間の声帯って構造の違いはどうなってるんだっけ。猫ってこんなすらすら喋るの。驚きすぎて、逆に人間の春田が声を出せない。
「春田ってぼんやりしてて頼りなさそーって感じだけど、和泉さんのこと助けてくれて見直した。あと、ごはんくれんの助かる」
「……っ、あ、……お、おまえっ……誰っ?」
 つらつら喋り続ける黒猫に、春田はようやく声を出せた。おまえ誰だよ、その問いに黒猫がニヤリと笑った。

「…………真崎秋斗」
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