猫と春。⑥

 和泉は、春田が風呂から出てきたタイミングで再び訪ねてきた。
 白だしベースの鍋はほとんどできていて、あとは豆腐を入れて温めるだけにしてある。
 手渡されたコンビニエンスストアのレジ袋にはビールが数缶入っている。飲まなきゃやってられない日はあるが、和泉にとって今夜がそんな日なのかもと春田は感謝だけ言うにとどめた。
 ビールが入ったレジ袋を受け取った時に触れた、和泉の指は冷たかった。
「お手伝いもしないで、すみません……」
「いいんすよ。おれが好きで和泉さんとごはん食べてるんすから」
 怪しげな小型機器が乗っていたローテーブルに、湯気の立つ鍋が置かれている。
 鍋の具は白菜が多めだ。スーパー家政夫さんが道の駅で買ってきてくれた白菜が春田の頭より三周りくらい大きくて、鍋の具以外の調理法もいろいろ探ってはみている。
 食事の時くらいは嫌なことから離れたいし、離れてほしい。差し入れられたビールをグラスに注ぎ合って、乾杯する。
 黒猫に人間の食べ物は与えられないので、給料日に買っておいたいつものフードより高級なキャットフードを出してみた。少し食いつきもいいような気がする。
 キャットフードはぱっと見ではわからない場所に隠し置いていたので、大家のおばさんが家探しまでしなかったことに春田はほっとしていた。
「――……春田さん、あの」
 だし汁とポン酢に白菜と豆腐が浸かった取り皿と箸を、和泉がテーブルにそっと置く。
 一拍おいて、手を伸ばすのは結び目の緩んだネクタイ、ボタンが外れたワイシャツの襟の下――そっと取り出される、銀色のロケットペンダント。
 ロケットの中で笑っている、自分と同じ姿をした人物が誰なのか。アキトという名前以外、春田は知らない。
「……話を、聞いてもらってもいいでしょうか」
 ごく個人的なことだから、つまらない話かもしれない。薄く苦笑を浮かべる横顔に、春田は頷いた。
「おれで良かったら……なんでも話、してください」
 部下の悩みを聞いて、相談に乗るのも上司として大事な仕事だ。元上司のようにとはいかなくても、出来るだけ和泉の力になりたいとは思う。
 どんと来い。胸に拳を当ててみせると、和泉は浅く息を吸った。
「私の、前職…………警察官、でした」
 今まで隠そうとしたり、ぼやかしていた前職をはじめて和泉からはっきり明かしてくれる。

 和泉は、警察組織の中でもあまり表立っては動かない公安部という部署にいた。
 刑事ドラマなどによく出てくる捜査一課などの刑事部とは違い、国家や国民の安全を脅かす組織や人物を対象に秘密裏に捜査活動を行う部署らしい。
 ロケットペンダントの中の、春田そっくりの青年――真崎秋斗は、和泉が公安警察時代にバディを組んでいた一人であり、その前は警察学校で和泉が受け持った生徒だった。
「態度も悪いし、言うことも聞かない問題児ながら、学校での成績は断トツのトップでした。将来も有望視されて、交番勤務からすぐ公安部に配属されたような奴です」
「それって、めっちゃエリートってやつっすよね……。てか、和泉さんだってエリートじゃん……」
 第二営業所での危なっかしさを思うと、この和泉がエリート警察官だったのがにわかには信じられない。けれど、時々鋭いところはあるし、盗聴器やカメラの撤去も時間をかけずにやってのけたあたり、その片鱗は感じられる。
 エリートの言葉に和泉は首を横に振った。いちばん大切なものを守れなかったのだから、そう言われる資格もないと。
「秋斗は、私のバディで、生徒であると同時に……恋人でもあったんです」
 恋の始まりは、秋斗からのアプローチだった。
 恋愛経験もあまりなかったし、まして同性からそのような想いを向けられることには大いに戸惑った。
 それは春田も経験したから、和泉の気持ちは少しわかる。女の子の理想は『ロリ巨乳』からかなりかけ離れたところからのアプローチにはどうしたらいいか困ったから。
 生意気な口調に反して、秋斗の和泉への想いはいつでもまっすぐだった。振り向かないなら横道に逸れるではなく、どこまでもまっすぐに見つめてきた。
 そんな相手のことを少しでも、無意識にでも好ましいと感じていたから、自分でも行動に出たのかもしれない。『好き』をはっきり自覚しなくたって、恋の速度は上がる。
 気付けばそういう関係になっていたなんて言い訳がましさの裏側に、はっきり言い出せなかった恋心はあった。
 秋斗が傍にいて、自分を好きでいてくれることは当たり前であって、変わらないと心のどこかで高を括っていた己がなんて愚かしい。喪ってしまうその時になって、「愛している」と強い自覚が湧き出した。
 こと切れてしまった唇からはもう、生意気な言葉遣いも「好き」も聞けないし、「愛している」と叫んでもその耳には届けられない。
 いつでも秋斗は傍にいる、伝えようと思えばいつでも「好き」を伝えられる。唐突に訪れた死が、残酷にも不可能を突き付けてきた――。
「秋斗が、この世からいなくなるって時に気付くなんて、本当に愚かだった……。いつ命を落とすかわからない仕事をしていながら、俺は甘えていたんです」
 死はすぐ傍に、背中合わせにあるのに、どうして秋斗がずっと生きているなんて思えたんだろう。年下だったから、順番通りに自分が先、と刷り込みはあった。そんな平和な環境に身を置いている立場ではなかったのに。
 与えられた想いの大きさや、相手を大切に想う自分自身に気付くのはどうして、相手がこの手から遠ざかっていってしまった時なのか。もっと、普段から気付けていたら、現在は少し変わっていたはず。
(……おれも、牧と別れなくて済んだのかな)
 終わってしまった恋に思いを馳せても、あの頃の衝動やときめきは心に戻らない。牧とははっきり、二人で終わらせたから戻れもしない。
 今、目の前にいて、泣いているのは和泉だ。春田は自身の頬を濡らす涙はそのままに、両手を伸ばして和泉の頭を胸に抱きしめる。
「……幸せだって思ってる時って、普通、自分や相手が死んだらとか……考えないっすよ」
 この幸せがずっと続くと信じていくし、最悪なんか考える余地もない。終わりのかたちは誰にも見えないからこその背中合わせ。
「…………春田さん……でも、私は……俺が、秋斗を殺してしまったようなものなのに……っ」
 独断専行は秋斗の悪い癖だった。それでも追いつくことは出来たし、守ることも出来た――盾になったのが秋斗ではなく自分だったら、どんなに良かったか。
 和泉の広い肩も、大きな背中もふるえていた。このひともたったひとりで、後悔を抱えて長い夜を耐えて生きてきたのだと春田は知る。
「……だからっ、せめてっ……秋斗に、報いるためにっ……! 秋斗をっ、殺した、やつをっ……道連れに、死ぬ、つもりで……生きて、来たんですっ……!」
 警察を辞めて天空不動産に入社したのは、秋斗を殺した犯人が属する犯罪グループの潜伏先の目星をつけ、あぶり出すため。公安部も水面下で捜査しているだろうが、関係ない。
 秋斗がいなくなったのだから、復讐を遂げれば生きている意味もない。
 生きる目的さえ果たしたら、この命は愛とともに永遠に真崎秋斗へ捧げよう。
「…………和泉さんっ……!」
「春田さん…………私は、こんな愚かで、弱い男なんです……。あなたに、優しくされる価値なんか、ありません……」
 和泉の右手が腹に押し付けられる。しかし、力まかせに押し返されはしなかった。
 溢れてくる涙がスウェットシャツにしみて、肌までも伝わった。
 和泉幸の命をどう使うかは、和泉自身が決めること。生きる選択肢にもこの世から去る選択肢にも、春田は決して口出し出来ない『他人』だ。抱きしめているぬくもりが明日には消えてしまっても、それが和泉の選択なら引き止めようもない。
 それでも――少し、違うと思うことはある。
「……おれが、誰に優しくしようと、おれの勝手なんで――価値とか、わかんないっす」
 優しくしているつもりはなくてもそう受け取られるのなら、優しくするのは自分が勝手にしていることだ。別に気にしてくれなくたっていい。
「でも、泣いてるひとのことは、ほっとけないっすよ……?」
 自分が泣いているとき、和泉は屋上まで探しに来てくれたし、涙が止まるまで抱きしめていてくれた。どんなに優しく柔らかく、こわれものを扱うように大事に包んでも完全には癒せない胸の奥の深い傷――二度と取り戻せない愛がそのまま、和泉の傷になっているのだ。
 そんな傷口から流れる涙を受け止められるのは、真崎秋斗だけだ。春田創一ではない。そうわかっていても、目の前で泣いているひとを無視できない性格だから仕方ない。
「にゃあ」
 黒猫が和泉の膝に乗って、泣いた子を慰めるように穏やかな声を出す。多分、黒猫としても、好きな男が泣いていればどうしたのかと思うだろう。
 春田が泣いた日も、黒猫は傍に駆けつけてくれた。なんだかんだ優しいやつだ。
「…………春田さん、ありがとう、ございます」
 胸の下から涙声の「ありがとう」が聞こえた。もぞりと和泉の頭が動いて、腕を緩めると涙に濡れたままの両眼と頬。年齢よりも頼りなく見えるのに、何故か色気ものぞかせてくる。
 腹に押し当てられていた右手がスウェットから首筋、後頭部へと辿り上って――気付くと、目の前に距離もなく和泉の顔があった。
「ぎゃにゃー!」
 黒猫は大声で鳴いた。わかりやすく怒っている。そうは言われても自分からしたことではないから、春田としても大いに戸惑っている。
 和泉の唇が唇に触れて、重なって、離れていかない。後頭部を右手で押さえられているから、抗うにも和泉の肩を押すしかないのだけれど――上唇と下唇から割り入ってきた舌の動きがいかにも慣れたふうで、濃厚なキスもご無沙汰だった春田には刺激が強すぎた。口の端から溢れた唾液までも余さず舐め取られる。
 わずかに唇と唇との隙間ができた時に逃げるつもりが、肩で息をするのがやっとだった。
「にゃー! にゃー!」
 叫び声の方を見れば、和泉が猫パンチのラッシュを腹に喰らっている。この浮気者!の体で。
「っ……ちょ、おま、……まだ傷治ってないかもなんだから、やめろって」
「にゃあああ」
 傷が塞がってきていてもそこにパンチを喰らわせてやるな。腰砕け一歩手前になりながら、春田は和泉の膝の上から黒猫を抱き上げる。それでも黒猫は両手足をぶんぶん振り、和泉に飛びかかる気満々だ。爪まで出ている。
「和泉さんっ! ……さっきみたいなの、猫が見てるとこで、するのは」
 猫の情操教育があるかはさておいて、人間のマネをしたら良くない。強く注意するつもりだったのに、勢いはすぐにしぼんでしまった。それ以前の話というか、前は前で意識朦朧とした時にキスをしてきて、今ははっきりした状態で。
 軽いどころか口の中を舐め回すキスは確実に故意だ。無意識でしたでは許されないし、笑って受け流せない。
 そして胸の皮膚の下で、拍動を速めている心臓は嘘を吐けない。拒否しようと思えばちゃんと拒否できたのに、しなかったのは自分自身だから。
「でも……なんだか、春田さんとキスしたくなってしまって……。猫が見ててもキスしたいと思う時はありますから……」
 耳をぺしょりと下げた大型犬の姿が、和泉に重なって見えてしまった。
 反省している姿勢を取って、本当に反省しているかは掴めないが、和泉とキスをしたいと感じた先日の自分がいただけに今夜のところは引かないと負けそうだ。
 まだまだ暴れる黒猫からは裏拳のとばっちりを喰らう。
 けれども、キスしたいと思ったのが自分だけじゃなくて良かったと春田は安堵していた。そういう衝動は多分、誰にでもあるものだし、人間は決まった発情期がないから偶然和泉のキスしたい周期に当たったと考えれば……いや、もう考えるのはやめよう。鍋が煮詰まってしまう。
「……メシ、食いましょ! お腹空いてるから、おれのこと食べ物だと思っただけっすよね?」
「……」
 なんとなくいたたまれない空気の払拭を試みるも、重なった唇の感触は生々しく残っているし、潜んでいた性欲が危うく目覚めかけた。
 三大欲求は三大欲求を満たしてどうにかしよう。だから、ごはんを食べよう。
 どこか危うげで、色の残るまなざしから春田はわざと目を逸らした。
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