張屏と蘭珏

 擁国の皇都。朝廷の高官たちの住まいがある一画で、朝からそぐわしくない大声が響き渡る。
「蘭大人ダーレン! 蘭大人! 張兄が大変なんです、助けてください!」
 蘭家の使用人が何事かと門を開けて見ると、科挙を受けに皇都にやって来た若者、蘭珏とは確執の深い張屏の友人である陳チュウが額に汗を滲ませ、血相を変えて立っていた。
 勿論、蘭珏に会わせる前に、まずは侍従の旭東に伝えられ、陳籌は彼から尋問を受ける羽目になってしまった。
「旭東、私は早く蘭大人に会わせて貰いたいんだ。こんなところで時間を無駄にせずに、早く大人に会わせてくれよ」
「旦那様はまだご就寝中だ」
 この陳籌、とにかく口から先に生まれたんじゃないかと言うぐらい良く喋る。
 科挙を受けに田舎から皇都に上京してきたぐらいなのだから、地元ではそこそこの秀才だったのだろうが、彼が親しくしている男がずば抜けた天才振りを発揮する張屏のおかけで陳籌はどこか間が抜けて見えた。
 そんな陳籌に旭東は張屏の何がどう大変なのかを事細かに尋ねる。
 彼の主である蘭珏はとにかく細かく、目端の利く、やはり張屏に負けず劣らずの秀才な為、少しでも報告に粗があれば、叱られるのは旭東なのだ。
 主に報告する前に、蘭珏に聞かせるだけの内容かどうかは旭東が判断し、精査する。
 陳籌の説明がいまいち要領を得ず、幾度も聞き直しているうちに、騒ぎを聞きつけた蘭珏が顔を出してしまった。
「旭東、どうした」
 朝方の為、両耳にかかる髪だけを頭頂部で軽く結い、残りは肩へと垂らした蘭珏が姿を現す。
 今の季節に良く合った萌黄色の服を身に着け、毎日その姿を見慣れている旭東でさえ、目映さに目を細めたくなるような美男振りだった。
 しかし主の美しさに見惚れていては、冗談がまったく通じない蘭珏に叱られてしまう。
「この者が張屏のことで大人に会わせろと」
「陳籌か?」
「蘭大人! おはようございます、張屏が大変なんです、すぐにうちに来ては貰えませんか?」
「張屏が?」
 張屏の一大事と聞けば、彼を弟の様に思っている蘭珏としても見過ごせない。
「旭東、出掛けるぞ」
「はい」
 常に身辺を警護する旭東を連れ、陳籌の案内で張屏の家に向かった蘭珏はそこでとんでもないものを目にしてしまった。
「これは…、一体……」
 思わず絶句し、立ち止まってしまった蘭珏の代わりに旭東が部屋を検分する。
 散らかった部屋の中央には、やはり散らかった机が置かれ、そこで張屏が突っ伏して眠っていた。
 それは別に良いのだが、数日前に彼と会った時よりも、優に二倍は身体が大きくなっていたのだ。
 元々、がっしりとした骨格で、身体も大きかった張屏だけに、寝ているその姿はまるで大きな熊のようである。
 蘭珏は事情を知る陳籌を振り返り、「彼に何があったのだ」と問い質した。
「ずっと食べ通しなんです!」
「食べ通し?」
「蘭大人のせいですよ! 張屏が死んだら、どうするんですか!」
「私のせいだと?」
 やはり陳籌の説明では全く要領が得ない。
 自分のせいだと言われては蘭珏も放ってはおけず、旭東に目線で張屏を起こす様に指示を出し、出来る限り綺麗な場所を見つけて腰を下ろした。
「大人、張屏が起きました」
「ここへ連れて来い」
「はい」
 旭東に連れられた張屏が項垂れて──、いや、完全にふてくされた顔で、政府高官に向けたおざなりな挨拶をする。
「蘭大人」
「張屏、朝から何の騒ぎだ」
「……知りません」
 騒いでいるのは陳籌であって、張屏ではないと言いたいのだろう。
 しかし良くもまあ、会わないでいた数日のうちに随分と太ましくなったものである。
 大きく膨れた張屏の腹を指差し、「何があったのだ」と蘭珏は改めて質問を繰り返した。
 実を言うと、先日、蘭珏と張屏は少し揉めたばかりだった。
 蘭珏の友人、いや、ただの友人ではない。
 己のことをまるで自分の様に理解してくれる蘭珏の大切な知己である疏臨シュリン──辜清章を、張屏は何故か彼が怪しいと疑ってかかり、蘭珏が「彼に限ってあり得ない」と幾ら否定しても食い下がって、「絶対、彼が犯人に違いありません!」と譲らないのだ。
 辜清章とは十年前に出会い、同居人として楽しい日々を過ごした蘭珏としては当然、面白くなく、
「それ程疏臨を疑うのなら、お前はもう蘭府に来ずともよろしい」
と切って捨て、張屏を屋敷から追い出してしまったのだ。
 確かにそんな経緯はあったが、しかしだからと言って、太って見せたところで一体、蘭珏にどんな当てつけになると言うのか。
「張屏や、お前が意固地な性格であるのは今更語るまでもないが、それにしたってその風体は……」
「蘭大人には、関係ありません」
「………」
 蘭珏は張屏を可愛がってはいるが、けして寛容とは言えない性格だ。
 彼は自分に厳しいが、勿論、人にも厳しい。
 とりわけ理由も語らず、食ってかかられることが何より嫌いな性分の為、彼の眉間に皺が寄ったのを見て、張屏の友人の陳籌の方が慌てて仲裁に入った。
「張屏、蘭大人に謝れ! 旭東、お前からも何か言ってやってくれ」
「お、おう……、張屏、ご主人様に謝罪するのだ」
 陳籌に急かされ、何故か旭東まで張屏を宥める役回りをさせられたが、そんなことで意固地な張屏は我を曲げなかった。
「自分は間違えてなどいない」
「何を言ってるんだ、張兄、良いから蘭大人に謝れよ」
「辜清章こそ、鏡湖先生で間違いありません! 蘭大人は真実から目を背けている!」
 だからと言って、それで何故、暴食をしてその身体なのだと、蘭珏はほとほと呆れてしまったが、このままでは埒が明かないから、旭東と陳籌の二人には外へ出て貰った。
 二人が扉を閉めたのを確認し、蘭珏は立ち上がって、太ましい身体になってしまった張屏のそばへと座る。
 それに気付いた張屏が尻を動かして逃げる素振りを見せたから、肩を掴んで自分の方へと引き寄せた。
 じっと顔を見つめると、明らかに蘭珏の視線から逃れようと無駄な足掻きを繰り返している。
「張屏」
 ゆっくりと、落ち着き払った声で名を呼ばれた張屏は、やっと諦めて蘭珏の隣で大人しくなった。
 太ったとは言え、元々顔立ちの良い男っぷりはそのままだから、なんとも言えない愛らしい動物を目にした感覚に蘭珏は笑いが込み上げてしまい、堪えるのが大変だった。
「笑ってる場合ですか」
「笑わせてるのはお前だろう、張屏。何故、そんなに身体が大きくなるほど暴食をした」
「別に。考え事をしていたら、いつの間にか食べてしまっていただけです」
「いつの間にか?」
「はい」
 真摯に、とても生真面目な顔で太った張屏がしっかりと頷く。
 やはり動作の鈍い熊を見るようで、蘭珏はまたもや噴き出してしまった。
 考えごとに夢中になって知らず知らずのうちに食べすぎるなんてなんとも張屏らしい無茶振りである。
「では、何をそれ程考えていたのだ。疏臨のことをまだ鏡湖先生だと疑っているのか?」
「疑いではありません。辜清章が鏡湖先生なのは間違いなく、確信を持って断言出来ます。俺が考えていたのは、大人のことです」
「私の?」
 じっと蘭珏の切れ長の美しい目に見つめられ、張屏の頬が紅く染まり、彼はすっと目を背ける。
 もしかして、とようやく蘭珏にも事情が飲み込めて来た。
 彼は辜清章が事件の黒幕だと確信し、蘭珏と意見が割れているのは納得しているが、蘭珏が辜清章を庇い、張屏の言うことに耳を貸さないことに怒っているのだ。
「張屏や、そなた、もしかして疏臨に嫉妬しているのか?」
「し、してません!」
 繰り返すが張屏は意固地な性格である。
 頑固な故に、自分の感情をごまかすことも出来ず、その顔にはありありと「辜清章に嫉妬しています」、「私は蘭大人が大好きで、自分を信じてくれない蘭大人に腹を立てています」と書かれていた。
 そんなことでこんな暴飲暴食をしたのかと思うと、蘭珏の口からは深い溜め息が吐いて出る。
「安心しろ、張屏。お前のことは弟だと思っている」
「………」
「お前も私の大切な友人だし、そして疏臨も大切な友人だ」
「俺は…、蘭大人を友人だなんて思っていません」
「当然だ。お前は科挙を受けに来た挙人で、私は科挙の観察人だぞ。友人ではあるが、線引きは必要だ」
「俺が言いたいのはそう言うことじゃありません! わかっているのにごまかすのは止めてください!」
「ごまかす?」
 蘭珏には張屏が言いたいことはさっぱり分からなかったが、彼の顔を見ているうちに何となく察しがついて来た。
 つまり、張屏は蘭珏を別の意味で好きだと言っているのだ。
 そして辜清章との仲を、別の意味で勘違いしている。
 この誤解は解いておかねば、後々、彼らの間の障害にもなるだろう。
「張屏や。これまで言っていなかったが」
「なんです? まだ俺に何か隠し事が?」
「私は、既婚者だ。妻は早くに亡くなったが、一人息子を疎開させている。私のそばに置いては何かと物騒だからな」
「………」
「私は一児の父だ。疏臨とはお前が考える様な仲ではないし、お前の気持ちに応えることも出来ない。分かってくれ」
「………」
 外で成り行きを見守っていた旭東と陳籌だが、当然、張屏の喚き声が聞こえ、二人は慌てて扉へと駆け寄ったが、走り出てきた張屏に突き飛ばされ、二人で地面に尻もちをついてしまった。
「張屏?! 待てよ、どこへ行くんだよ!」
と陳籌は慌てて後を追いかけて行ったが、旭東は自分の主の元へと急いで駆け寄る。
「旦那さま、どうされました?」
「うーん……」
 こればかりは蘭珏にもどうすることも出来ない。
「蘭府へ帰るぞ。後で張屏を見舞ってやれ」
「ええ」
 そう旭東に言いつけ、大人しく帰ることしか出来なかった。

 そして更に三日後。
 またもや陳籌が大泣きしながら蘭府の門を叩いたが、蘭珏は彼とは会わず、耳も貸してやらなかった。
 それが功を表したのか、そのまた三日後にはいつもの体型に戻った張屏が、いつもの場所で麺を打つ姿がようやく見られる様になった。
 仏頂面で麺を打つ張屏を見つけ、
「麺を一つ」
と注文する蘭珏に、張屏が不満げな目線を向ける。
 どうやら拗ねていても蘭珏の関心を引くのは無理だと諦めた様で、自分の中で折り合いもつけ、すっきりしたようだった。
「蘭大人にお出しする様な高級な麺はうちでは取り扱いがありません」
「礼部の持郎に出す麺はなくとも、お前の哥哥に出す麺はあるだろう」
「……」
 哥哥の言葉に反応した張屏がいささか拗ねてはいるが、それでもやはり蘭珏が好きすぎてたまらないと言いたげな目を向ける。
 にっこり笑いかけると、いつもの張屏に戻り、蘭珏の為に特製の麺を打ってくれた。
「麺は五文で良かったか」
「ええ」
 いつもの二人の姿に陳籌と旭東もほっと一安心したが、張屏の気持ちが蘭珏に通じる日はやって来るのか。
 蘭珏の手から渡された五文を張屏は愛しげに握りしめ、
「まいどあり」
と淡々とした声で、しかしめったに見せない明るい笑顔で蘭珏に微笑みかけた。

終わり
20240903
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