いつかきみに会いに行く
4.藍曦臣の作戦
妙華鏡が映す世界を藍忘機はぼんやりと眺めていた。
映っているのは焼け野原となった青丘の風景で、もうそこには魏無羨がいないことが分かっていてもそこから別の景色を眺める気にはなれなかった。
魔界を映せば魏無羨は映るかも知れない。
何の妨害もなく映せるかは定かではないが、試す気にもならなかった。
彼に拒絶されたことも辛いが、藍忘機が飽かずに見続けた生命に満ち溢れたあの明るい笑顔がもう見ることもないことが何よりも一番彼の気持ちを落ち込ませた。
「忘機」
兄の声に振り返る。
藍曦臣だけではなく、江澄も一緒に居り、二人とも複雑な表情を浮かべていたからすぐに何があったのかは覚ってしまった。
「何があったのです、兄上」
「温寧と出会ったが、取り逃がした」
「温寧?」
魏無羨を探しに魔界へ行った時、確か、藍忘機の妨害に入った男がそんな名前だった。
「あと少しで腕を食い千切ってやれたんだ」
と江澄が悔しそうに答える。
藍曦臣はそんな彼に苦笑しながらも、「忘機」と再び、弟に呼び掛けた。
「妙華鏡で魏公子の様子を見ることは?」
「分かりません。試していませんし、試す気もありません」
「そうか。お前が魔界へ降りた時、彼はどんな様子だった?」
「魏無羨と会ったのか?!」
一人だけ事情を聞かされていない江澄に、藍曦臣が説明を加える。
藍忘機は魏無羨を救うために魔界へ行ったこと。
彼を連れ戻すつもりが、魏無羨に拒まれ、温寧と闘いになり、勝負がつかずにいったん天界へ戻ってきたこと。
魏無羨と会った件で江澄は鼻筋に皺を寄せ、牙を向いて、毛を逆立てた。
「それで。魏無羨の奴は、自分が父上や母上を殺したことについて謝罪の言葉を口にしたか?」
「私に自分を殺せと。しかし勿論、私は出来ないと断った」
藍忘機の答えを聞き、江澄は拳を握り締めたかと思うと、憤慨した様子でその場を立ち去った。
途中、石柱に怒りをぶつけ、渾身の力で殴りつけ、姿を消してしまった。
困ったものだ、と藍曦臣は溜息を吐き、ひとまず江澄は追わずに藍忘機と向き合う。
「やはり、当時、魏公子は自制がきかない状態だったのだな」
はい、と頷き、藍忘機も「魏嬰は悪くありません」と続ける。
「自分が狐帝を殺したこと、青丘を滅ぼしたこと、すべて彼は覚えておらず、無意識のままことに及んだようです。魔尊の魂魄を身に取り込んだことで一時的に自我を放棄してしまったか、操られたかは分かりませんが、魏嬰の意志ではなかったことは確かです」
「忘機、これは賭けなのだが」
「何でしょう」
藍曦臣は藍忘機の耳許に唇を寄せ、こそこそと何やらひそかに打ち明ける。
藍忘機の目が見開き、兄を見つめ、そしてしばらく考え込んだ後に、彼はしっかりと頷いて承諾した。
「しばらくお前への風当たりは強くなるだろう。しかし私は兄としてけしてお前を裏切らない。兄の言葉を信じるか?」
「勿論です。それで魏嬰を救うことが出来るのなら、例え、兄上に殺されようと私は構いません」
「そんなことにはならないから安心しろ。ついて来なさい、忘機」
目的の場所へ向かう間、藍曦臣は弟の手を取り、しっかりと握り締めた。
幼い頃の彼らはいつもこうして手を繋ぎ、どこへ行くにも二人一緒に行動して来た。
あの頃の藍忘機の手は幼児らしく、ふかふかと柔らかい触り心地だったが、今は骨張って力強く、成人した男性のそれになっている。
もう一度、弟の手を握り、ぽんぽんと軽く叩いた。
「この鏡に映し出されれば本来の姿へ戻る。私とお前は共に魔族の母を持つ身だ。龍にも魔にもなれる。お前の心に問い掛けなさい。ただし、再び元に戻れるかは定かではない。お前一人に押し付けるのは心苦しいが」
「大丈夫です、兄上」
藍曦臣はもはや天位を継ぐ身。
犠牲ならば弟の自分が請け負うのが当然だし、それに魏無羨の元へ行くのならこの手が確かに一番手っ取り早いだろう。
それに藍曦臣も言っていた。
「我々の母は魔族の姫であっても、高潔で、とても清らかな人であったと。龍族と魔族に何の違いがあるでしょう。ならば私は母の血を喜んで受け入れます」
「覚悟を決めたのなら、もう何も言うまい。では、始めるぞ」
「お願いします」
鏡にかけられた布を取り払うと、藍忘機の等身大の姿が目の前に映し出された。
神々しいまでの若い雄神の姿だが、彼は今自分の龍としての神格を捨てようとしている。
藍曦臣が祝詞を唱え始めると、藍忘機の表情が苦悶に歪み始めた。
身体中の血が沸騰する様な、そんな熱に魘され、大量の血が彼の口から吐き出される。
[[rb:金色 > こんじき]]に輝く龍族の血が白い大理石の床に流れ、龍の姿に戻った藍忘機は冷たい石の上でのたうち回った。
兄の呪詛が頭の中に響き、「もう止めてくれ」と拒絶の言葉が衝いて出る。
本当に口にしたのかさえ定かではない。
藍曦臣は弟の妄言には耳を貸さず、果断に祝詞を唱え続けた。
やがて龍から人の姿に戻った藍忘機が昏倒し、彼の弟は何も発しなくなった。
まるで死んだように眠ってしまっていたが、その変化は彼の頭上に表れていた。
魔族の証である小さな角が髪の間から覗いている。
「忘機、忘れるな。お前は私の弟、含光君だ。お前の歩む道は常に光で照らされる。お前自身が光なのだからな」
気絶したままの弟の身体を抱き、藍曦臣自身、仙力を大量に使いすぎてしまった身体で、ふらふらと天界の道を進む。
彼らの母が墜ちる選択を選んだ誅仙台へと向かうと弟の身体を紫雲の中へと投げ捨てた。
「行きたい場所へ行け。そして会いたい者と会うと良い」
藍曦臣の言葉は小さく、いつの間にか背後にいた江澄の耳には届いていなかった。
彼に「沢蕪君?」と呼ばれ、初めて江澄に見られていたことに気が付く。
「阿澄」
「なんで藍忘機を突き落としたんだ。ここは、誅仙台だろう? 青丘にいた俺でも知ってる。この場所から下界へ落ちると仙力も失い、記憶もなくすんじゃ」
見たところ不仲どころか非常に仲の良い兄弟に見えていたのに、江澄にはさっぱり分からないようだった。
「藍忘機を殺したいのか?!」
「確かにここは誅仙台だ。しかし死にはしない。弟は龍族として生きるよりも、ある者のそばで生きることを選んだ。故に、追放した」
「ある者?」
藍忘機が墜ちて行った先は仙気がまるで雲のように立ちこめ、もはや彼の姿も見えなくなっていた。
この場所へ不用意に墜ちた者は、霊力のすべてを失い、ただの人間へと墜ちてしまう。
神仙と呼ばれる力を失ってしまうのだ。
「あんたの弟なのに……」
「そうだね。弟だからこそ、許されないこともある」
どうも普段、温厚で物腰の柔らかい藍曦臣の言葉とは思えない。
江澄は訝しみながら彼のことを覗き込んだが、藍曦臣はいつものように江澄に笑みを向けるでもなく、その表情は確たる揺るぎない信念を信じ切っている狂信者のそれだった。
思わず身震いがして後退った江澄の手を藍曦臣が掴んだから、思わず警戒して全身の毛が逆立ってしまう。
「沢蕪君、まさか俺のことも落とすつもりじゃ……」
「きみを? きみは、青丘の次期狐帝だ。きみにはやるべきことも、やらねばならない信念もある。しかし弟は、魔族の君の助力になることを選んだ。故に追放した」
「魔族の君って───」
「魏無羨。きみが一番良く知る男だ」
この一言で江澄の表情が変わった。
藍忘機を庇うのは止め、藍曦臣の手を自ら振り払おうと上下に振るが、何度振ってもきつく掴まれた彼の腕は自由にしては貰えなかった。
「沢蕪君、今すぐに俺たちで藍忘機を追おう。あんたたちまで離れてしまうことはない。藍忘機は一時、気の迷いが生じただけだ。彼の様な男が魏無羨の味方になんて 」
「弟はもはや、龍族ではない。私の弟でもない。説得など無駄なこと。それに阿澄」
振り返った藍曦臣に腕を引っ張られ、彼の胸元に引き寄せられた江澄は今度こそ、背筋がぞくりと冷えた。
彼の目の前に立つのは、慈悲深い反面、その慈悲深さ故に、冷厳過ぎてしまう天帝としての姿そのものだった。
威厳を放ち、その瞳は宇宙の様に深く、静かだが、感情の揺らぎや彼らしい慈悲深い温かみなどまったく皆無な表情をしていた。
「沢蕪君……」
「私は龍族の主、四海八荒に生きる統べての者を従える天帝だ。青丘の皇子である君も例外ではない。今後は私の言に従うように」
「あんた、何を言っているのか分かってるのか。俺は誰にも従……、沢蕪君!」
「来なさい」
藍曦臣に引き摺られ、江澄は抵抗することも出来ずに誅仙台から引き剥がされてしまった。
藍忘機が消えた穴から白い光が立ち昇る。
白光は龍となって空へと昇り、七色の彩雲の向こうに消えてしまった。
龍としての藍忘機は死んだ。
死んでしまった。
それを見上げる藍曦臣の横顔は、何とも言えない哀しみに包まれていた。
熱いマグマが噴き出し、荒れた大地から煙りが立ち上る。
魏無羨が今自分の拠点としているのはそんな大地──、地の底に広がる魔界だった。
終がある彼ら人とは違い、魔族の者は肉体を消滅させたとしても魂魄を握り潰さねばなかなか死んでくれない。
この地で魔尊の魂魄を受け継ぐ者として、温若寒の息子たちを誅して回る覚悟を決めた魏無羨だったが、その成果は日進月歩と言うわけには行かず、特に温晁についている手練れの温逐流に悩まされていた。
彼の能力、化丹手は触れるだけで相手の霊力を奪ってしまう。
温寧の馬鹿力だけで何とか進んで来たが、魔尊の力を秘めているとは言え、その半分も使い熟せない魏無羨では到底太刀打ち出来ない相手だった。
「温情、もっと温若寒の力を使い熟せる施術を進めてくれ」
と医師の温情に頼むのだが、彼女には「無理よ」と止められている。
「今でもぎりぎりの瀬戸際なのに、今のあなたの霊力でこれ以上の施術をしたら、あなたの精神が温若寒に乗っ取られてしまうわ。それこそ温晁たちの思うつぼじゃない」
江楓眠を殺し、虞紫鳶も殺し、青丘も滅ぼしたと言うのに、肝心の魔族を殲滅出来ないなんて、魏無羨は自分の不甲斐なさに頭がおかしくなりそうだった。
人間だった頃と変わり、今の魏無羨の身体はだいぶ魔族の力に侵されている。
頭の角こそ生えてはいないが、明るかった笑みは消え、彼の目尻には紅く血で染まった線がくっきりと浮き出ていた。
その目が温情をじろりと睨み、彼女でさえ怯ませたが、しかし気丈な温情は魏無羨の言いなりにはならず、あくまでも彼の身を案じて、「駄目よ」と繰り返した。
そこに「魏公子」と温寧がいつもののんびりした口調で近付いてくる。
つい苛立っていた魏無羨は、「来るなと言っただろう!」と温寧に向かって怒鳴り、彼を怯えさせてしまった。
すぐに口が過ぎたことを反省し、「ごめん」と謝ったが、温寧は余り気にしてはいないようだ。
いつもの人懐っこい笑みを浮かべ、
「う、魏公子に、お、お客さん」
と伝える。
「魏無羨に客? 誰なの、阿寧。もしや、温晁が来たの?」
「まさか、江澄か?」
そのどちらでもなかった。
温寧の後ろから彼と同じぐらい背は高く、温寧よりもほっそりした立ち姿も美しい男が姿を現す。
「ら…藍湛?」
思わずその名前を呟いてしまった魏無羨だが、彼に近付こうとして途中で足が止まった。
確かに姿は藍忘機にそっくりだが、彼の姿はまるで彼らと同じ魔族の様に、角を生やし、目尻が紅く染まった、白く、神々しい龍族とはかけ離れた姿だった。
しかし藍忘機にそっくりな魔族など存在するだろうか。
その証拠に彼は「魏嬰」と呼び、魏無羨の額に触れ、彼の顔にかかった髪を撫でつけてくれた。
「きみに会いたかった」
「……ら、藍湛なのか、本当に?」
「そうと言えれば良いが、今の私は何者でもない。私の名はきみがつけると良い」
「俺がつけると良いって、そんなの藍湛以外に何があるってんだ」
魏無羨を一人にしても問題ないようだと思った温情は、きょとんとして魏無羨を見つめている温寧を連れ、部屋から出て行った。
二人きりになった部屋で、魏無羨はもう一度目の前の男が藍忘機で間違いないかと頬に手を触れ、確かめる。
「藍湛──、含光君と呼ばれるお前がなんで魔族になんて」
手が震えて言葉にならない魏無羨のその手を取り、藍忘機は自身の手で包み込んでやった。
「私に流れる血の半分は魔族のものだ。私たち兄弟の母は魔族だった。故に、どちらを選んでも問題ない」
「でも、沢蕪君は天界にいるんだろ? 兄貴と争うことになっても良いのかよ」
「兄も納得の上のことだ。私はきみを守るためにこそ存在する。きみを失えば私の存在意味などなくなる」
「藍湛……、俺にそんな価値なんてないだろう。俺とお前が会ったのなんて一度きりで」
「うん。でも、その一度が、私にとって何よりも大事な一度だった」
「藍湛……」
彼の気持ちにどう反応したら良いのだろう。
手放しに喜ぶには藍忘機に申し訳なさすぎるし、嬉しくないと言えば彼の好意が無に帰してしまう。
困惑顔の魏無羨の頬を撫で、微笑む彼の顔を見、魏無羨の中の戸惑いも氷が融ける様に和らいだ。
その顔は
「きみは何も気にしなくて良い」
と言いたい藍忘機の心を代弁していて、その嘘偽りのない善意が魏無羨は嬉しかった。
「ありがとう、藍湛」
と声をかけると、彼らしい淡々とした声で、「不要」と断られる。
「魏嬰、今の情勢を」
「うん」
藍忘機と言う強い味方を得た魏無羨にもはや怖いものは何もない。
「藍湛、温逐流だけは気を付けてくれ。あいつは化丹手だ。奴に触れられると霊力が立ち所に消えてしまう。けしてあいつに近付きすぎないようにな」
「分かった。問題ない。温逐流は私が殺す」
「早速温寧、温情を呼んで作戦会議を開こう」
「魏嬰、その他にも私がきみを手伝えることがある」
「ん?」
魏無羨の手を掴み、藍忘機が引き留める。
「私の母は温若寒の娘だった。故に、私ならばきみの中にいる温若寒の影響を抑え、きみの力を解放することが出来る」
「本当か、藍湛?!」
「うん。兄からその使命を負って、きみを助けにこの地へ来た」
「沢蕪君が? と言うことは、沢蕪君もお前の味方ってこと?」
「それは分からない。この先、きみの力を解放し、魔族をまとめることが出来た時、きみが龍族にとっての敵になるか、味方になるかでそれは変わる。しかしひとまず、温若寒の件には終止符を打たねばならない」
「分かった。自分を制御できるか自信はないけど、やってみるよ。でももし、万が一、俺がお前らを傷付けることがあれば、その時は躊躇なく殺してくれ。それが俺の望みだ。青丘の、江おじさんたちを殺した罪を背負ってまで生き延びたくない。江澄にも顔向けできないし」
「……うん」
温情の力も借り、二人は魏無羨の中に封じられている温若寒を解き放つ施術を開始した。
「含光君、この施術はかなり危険を伴うわよ。魏無羨の身体は温若寒の魂魄のおかげで並みの人間より頑丈だけど、それでも彼の元神はないに等しいのだから、上手く自分を制御出来るかはかなりの賭けだわ」
「問題ない。私の元神を分け与える」
「そんなことをしたらあなたの力が弱まるわ」
施術を拒み、思わず高くなってしまった温情の声を遮る様に、藍忘機は人差し指を唇に当てる。
魏無羨が起きてしまうと言いたいのだ。
「問題ないと言った筈だ。私に何かあっても、龍族には兄がいる。下界に降りると決めた時に、私も兄も互いの立場を納得の上、覚悟を決めた。私が死んでも兄が龍族を守る」
「でも、温若寒の魔尊の力を抑えきれなかったら、その時はどうするの?」
「それも兄が考えている。きみは目の前の施術に集中したまえ」
「でも」
とまだ言い募る温情を一瞥し、藍忘機は無言でやれと顎をしゃくる。
彼女が何を言おうと既に彼らはあらゆることを想定し、決めてしまっている。
「どうなっても知らないから!」
そう呟いて、温情は魏無羨の霊力を最大限まで解放させる施術に取りかかり始めた。
外に追いやられた温寧は心配そうに洞穴の中を何度も覗き込んだのだが、姉から「絶対に入っては駄目よ!」と言い含められていたから、気を揉みながら、魏無羨と温情が出て来るのを待っていた。
「神様、ど、どうぞ、う、魏公子をおた、お助けください」
とぶつぶつ祈祷を唱えているが、果たして魔族の願いを聞いてくれる神などいるのだろうか。
洞穴から激しい光が放たれたかと思うと、地鳴りと共に周囲のマグマが放出し、温寧はあたふたと頭を抱え、逃げ惑う。
しかしその彼の顔が急に真顔になった。
彼らの敵が近付く気配を察したのだ。
「う、魏公子を、守らなきゃ……」
温寧は立ち上がり、光陰のように駆けて行く。
攻め込んで来る温晁側の勢力の中に温逐流を見つけた温寧は彼を目掛けて拳を握り、殴りかかった。
彼とは幾度も戦い、決着がついていない。
温寧の怪力を知っている温逐流も深追いはせずに逃げ回り、温寧が疲れるのを待っている様だった。
「温…、ち、逐流……! 魏公子は俺が守る!」
温寧の辿々しい悪態に怯むことなく、温逐流は唇の端を持ち上げて嗤うと、まるで彼に慈悲を与えるかの様な表情で霊力を瞬時に消してしまう右手を突き出した。
一度は跳んで躱し、温寧も再び反撃に出る。
すぐに二打目が脇を掠め、温寧は左手で防いで、渾身の力で彼の頬を殴りつけた。
「どうだ、参ったか!」
と猛々しく咆哮を上げたが、温長の飼い犬はそれ程甘くない。
「死んだな」
と呟く温逐流の声が温寧の背後で聞こえた。
彼の拳が温寧の背中に近付く気配を感じ、跳んで逃げようと思ったが、間に合わない。
死の宣告を目を瞑り、待ち続けたが、血飛沫が辺りに散った割りに温寧の身体はどこも痛くなかった。
恐る恐る目を開いて見ると、温逐流のものだった彼の右腕が地面に棒の様に転がっている。
何が起こったか彼にも分かっていないようで、落ちた腕に気を取られているうちに頭上から白い光が一閃し、頭から彼を真っ二つに割いた。
「ら、藍…二公子……!」
避塵についた血糊を一振りで払い、地面を這っていた温逐流の魂魄を踏み潰した藍忘機は温寧を一瞥し、「ついて来い」と彼に向かって言い放つ。
温逐流が死んだことで統率が取れなくなった温晁の部隊へ斬りかかり、鮮血の雨が降り注ぐ。
そして魔尊の力を最大限に発揮した魏無羨が天から降りて来て、残りの部隊を一気に消滅させた。
それからの戦は消化試合の様だった。
逃げ惑う温晁を追い回し、袋小路に閉じ込められた鼠の様に震わせる。
「魏無羨…、俺たちは同じ魔族だろう! お前の中にいるのは俺の親父の温若寒なんだぞ?!」
「ん? 俺がいつクソからクソみたいなクソオブクソのお前を産んでやったって言うんだよ。同じ魔族だって? ふざけるなよ。お前の親父の魂魄がこの身にあるってだけで寒気がする」
魏無羨に頼んでも無理だと悟った温晁は、彼の中に眠る筈の父親に救いを求めようと、幾度も「父上、父上」と叫んだが、結局、藍忘機が振り下ろした避塵によって、温逐流同様、一刀の元に真っ二つにされた。
彼さえ死んでしまえばもはや魔界で魏無羨に逆らう者は誰もいない。
残りの問題は龍族との確執だった。
「藍湛、俺は温情たちの為に、魔族にも日の当たる場所での生活を与えてやりたい。沢蕪君と話し合えないだろうか」
「出来なくもないが、叔父を説得するのが不可能に近い。それに魏嬰、きみには死んで貰わなきゃならない。それが兄上との約束だ」
「分かってるよ。でも、最期に、俺のことを助けてくれた温寧や温情に報いたい」
藍曦臣と交わした約束は、藍忘機を魔族として魔界へ送り込み、まずは温晁の反乱を制圧し、魏無羨に魔族を統一させた後、この世から魔尊の魂魄を完全に消すことだった。
魏無羨と言う容器に入った温若寒の霊力を一度解放した後に、彼の身体と共に消滅させる。
それで温若寒の件は解決する筈だった。
「きみを一人で逝かせはしない」
「藍湛。先に言っただろう? 俺は江おじさんや虞夫人、青丘にいる皆を殺した罪を背負って生きるつもりはない。死ぬ覚悟は出来ているが、その前に、魔族の言い分も聞いてやってくれ」
「────」
藍曦臣がその話に乗るかは不明だが、藍忘機の見解ではおそらく兄なら協力するだろうと思われた。
問題は藍啓仁を始めとする龍族だ。
魏無羨の手に自分の手を重ね、藍忘機は「自分も行く」と彼を見下ろした。
「でもその姿じゃ」
「どちらにしても既に私は龍族から離反したことになっている。それにどのみちきみと死ぬつもりだった。誰にどう見られようと構わない」
「藍湛、でも」
「魏嬰。きみを見た時、私は初めてこの世に生があると実感することが出来た。きみと出会う前の私は息をしていても生きているとは言い難い状態で、きみが眩しくて、きみのことをずっと見続けたいと思っていた。だから私にとっての太陽が沈むのなら、共に私も沈むことにする」
「藍じゃ…」
続けて反論しようとする魏無羨の顎を掴むと、藍忘機は自分の方へ手繰りよせ、そして最初で最後のの深い口付けを交わした。
魏無羨の目が見開かれ、やがて彼の身体から力が抜け、藍忘機の腕に体重がかかってくる。
あの日、出会った小さな命は藍忘機の腕の中で開花し、見事に美しく咲き誇って見せた。
もう思い残すことはない。
「きみの望みを叶え、きみと共に逝こう」
「……うん」
藍忘機の腕の中、魏無羨もこくりと頷き、そしてあの明るく、眩しい笑みを浮かべて見せる。
この笑顔が見たかったのだ。
それだけで本当に充分だった。[newpage]
4.終章
その日、天界は大騒ぎとなった。
永劫の静けさに包まれ、宇宙が尽きるまでこの地だけは変わらないと思っていた天界に、魔尊となった魏無羨と藍忘機が温寧まで引き連れて現れたのだ。
当然、藍啓仁は厳戒態勢をしき、彼らを門から一歩も通すまいと九重天の入り口に陣を張った。
藍曦臣に連れられた江澄も姿を現し、魔族となった義兄を見、憎しみの目を向けた。
「江澄……」
と魏無羨が彼に向かって呼び掛けたが、江澄は彼から目を逸らし、名を呼ぼうともしなかった。
「魏無羨」
藍啓仁に呼ばれ、魏無羨は江澄から視線を外して彼へと向き直る。
「その離反者と共にさっさと地界へ帰れ。そこがお前らに相応しい場所だ」
と宣っている。
まったく笑えると呆れるしかなかった。
「藍先生。お言葉だが、龍族が天界に棲み、魔族は地界に潜ると一体誰が決めたんだ。俺がお偉いお方なら、そんな不平等な采配は振らないな。争いごとを起こしてくれと言っている様なものじゃないか」
「貴様と話し合うつもりなど毛頭ない。忘機よ、龍族の誇りがまだ胸の内にあるのなら、そこの穢らわしい男を殺し、叔父の前で謝罪して見せろ。そうすれば不問にしないでもない」
「やれやれ。藍湛、お前の叔父上は何様のつもりなんだ? 天帝である沢蕪君を差し置いて、一番偉そうなことを宣っている」
「魏無羨……!」
藍啓仁が怒りで卒倒しそうになり、藍曦臣、そして藍忘機の気が逸らされた。
魏無羨も倒れた彼の様子に気を取られているうちに、いつの間にか江澄が彼の背後へ回っていた。
「魏無羨、お前に会える日を待っていたぞ」
「江澄……」
江澄の血走った目が魏無羨を睨み、その向こうで藍忘機が彼に手をあげようとするのが見えてしまった。
「藍湛、手を出すな! 温寧、お前もだ!」
魏無羨の声が届かぬうちに、藍忘機が抜いた避塵の切っ先は、すかさず駆け寄った藍曦臣の朔月に寄って弾き返された。
「彼には手を出さない約束だぞ、忘機」
「それは私の言い分です! 魏無羨と共に逝くのは私の役目だと」
二人が言い争う間にも、江澄が構えた剣は魏無羨の心臓を貫き、彼の身体を地面へと縫い付けていた。
「魏無羨! 信じてたのに! 絶対、絶対、お前は謝罪に来ると、すまなかったと、謝りに来ると信じてたのに……! お前は最期まで俺を裏切った!」
「江澄……、ごめんな……、ごめん、本当にごめん……」
「魏嬰!」
藍忘機に寄って突き飛ばされた江澄の身体は宙へ飛び、藍曦臣の腕が地面に叩きつけられる前に抱きかかえた。
「忘機、魂魄にとどめを刺せ!」
兄の𠮟咤の声が聞こえたが、藍忘機には到底出来なかった。
呼吸が消え入りそうに小さくなる魏無羨の身体を掻き抱き、彼の名を呼ぶことしか出来なかった。
「ら…、藍湛……、こ…れで、い…いんだ……、最期に、江澄にちゃんと謝れて……良かった…よ……」
「魏嬰!」
「江澄…、出来たら……、青丘に、帰りたい……」
その言葉を残して魏無羨は息を引き取った。
藍忘機の声が響き渡る。
彼の声を聞いたのはこれが初めてだと言う龍族もいたに違いない。
避塵を握り締めると彼もまた自分の喉を搔き切って魏無羨の上へと倒れ込んだ。
しかし、藍忘機はそれから七日の後、自身の寝台の上で目が醒めた。
見覚えのある──、ありすぎる白い天井を眺め、何も掴んでいない自身の手を顔の上まで持ち上げてじっと見つめる。
まるで長い夢を見ていたようだ。
首に巻かれた包帯が夢ではなかったことを証明しているが、藍忘機はどちらでも良かった。
起き上がり、ふらつく身体で妙華鏡の元へと向かう。
途中、彼の近習の者が気が付き、急いで藍曦臣を呼びに行き、藍忘機の身体は兄に支えられて部屋へと戻された。
「兄上──、約束が違う……!」
「忘機。お前はたった一人の私の弟だ。みすみす見殺しにはしない。最初からお前が命を絶った時に、魔族としてのお前は死に、龍族のお前が残る様、祝詞を唱えておいた」
「─────」
では、魏無羨はどうなのか。
そう問いたげな藍忘機の視線を兄が避けたのが答えだ。
「最初から、魏嬰だけを、殺すつもりだったんですね」
「───忘機。大局を見れば仕方のない選択だった」
「では、魏嬰は……!」
「阿澄が連れ帰った。温情、温寧の姉弟から、魏公子がどれだけ良心の呵責に苦しんで来たか、あのふたりから聞いたから、阿澄も彼の最後の遺言を聞き届ける気になったようだ」
ならば魏無羨の遺体は青丘に運ばれたのだろう。
藍曦臣の話では、青丘の蓮池に灰となって撒かれたらしい。
「しっかりしろ、忘機。食事を運ばせよう」
「いりません、何も」
「何か食べなくては駄目だ」
「いらないのです。出て行ってください」
頑なに拒む藍忘機に、藍曦臣もそれ以上は何も言えず、弟の部屋を後にした。
それから数日。
消耗した体力が戻るまでに幾分、日を要したが、藍忘機は今度こそ、妙華鏡のそばへと辿り着くことが出来た。
「魏嬰を───」
藍忘機の声に応えて、鏡が青丘の蓮池を映し出す。
焼け野原だった青丘の池に蓮の花が開いていて、藍忘機はとめどなく涙が溢れて来てしまった。
輝く、青丘の風に吹かれ、弓を引き絞る魏無羨の姿が見えるようだ。
「魏嬰───」
呼び掛けると、蓮池の蓮の花びらがぴくりと震えた様な気がした。
──いつか、必ず──
きみに会いに行く────
吹き抜ける風が花弁を揺らし、花の香を江澄の元へと届けて来た。
この花は彼の姉が大好きな花だった。
翡翠色をした池の水へと手を伸ばし、手のひらに掬い上げ、こぼれてしまう水をとどめおくことの難しさに顔を顰める。
「阿澄」
「───沢蕪君、またあんたか」
「きみが気を落としていないか、やはり気になってね」
「大丈夫だ。青丘の民は、逞しい。踏まれても、萎れても、必ず絶対に立ち上がる。それに、居なくても良い奴らに居座られているしな」
「ん?」
その居なくても良い奴らは、江澄の住まいの狐狸洞の修復にせっせと励んでいる。
龍族は彼ら魔族の為に領地を空けることはなかったが、魏無羨が世話になった御礼として、温寧と温情の姉弟だけは江澄が青丘に迎え入れたのだ。
無邪気に手を振る温寧の仕草に笑い、藍曦臣も手を振り返してやる。
「阿澄、今にきっと好転する。嵐がずっと続かない様に、きみの心もいつかは晴れる」
「だと良いな。今は、余計なことを考えないで、青丘の復旧に尽くすつもりだ。考え出すとろくなことが浮かびやしないし」
過ぎたことを呪っても仕方ない。
そう笑う江澄に安堵したのか、藍曦臣が彼の手を握り、江澄もそれに応えはしないものの、振り払わずに空を仰ぎ見た。
「いつかまた、会えるのかな、あいつに」
「どうだろうね」
江澄の手を擦り抜けた風は、蓮池の花を揺らし、水面に波間を立てた。
その中で金色に輝く蓮の花が、日の光を浴び、嬉しそうに震えていた。
(魏嬰────)
藍忘機の声に応え、蓮の花はぷるっと愛らしく揺れる。
(藍湛──)
その声が藍忘機の耳許に運ばれるのは何年先のことか。
(俺は必ず戻るから、まっていてくれよな)
妙華鏡の向こうで、魏無羨の存在に気が付いた藍忘機の口許に微笑が戻る。
彼は待ちきれずに青丘に向かい、飛び立っていた。
終わり
20240322
妙華鏡が映す世界を藍忘機はぼんやりと眺めていた。
映っているのは焼け野原となった青丘の風景で、もうそこには魏無羨がいないことが分かっていてもそこから別の景色を眺める気にはなれなかった。
魔界を映せば魏無羨は映るかも知れない。
何の妨害もなく映せるかは定かではないが、試す気にもならなかった。
彼に拒絶されたことも辛いが、藍忘機が飽かずに見続けた生命に満ち溢れたあの明るい笑顔がもう見ることもないことが何よりも一番彼の気持ちを落ち込ませた。
「忘機」
兄の声に振り返る。
藍曦臣だけではなく、江澄も一緒に居り、二人とも複雑な表情を浮かべていたからすぐに何があったのかは覚ってしまった。
「何があったのです、兄上」
「温寧と出会ったが、取り逃がした」
「温寧?」
魏無羨を探しに魔界へ行った時、確か、藍忘機の妨害に入った男がそんな名前だった。
「あと少しで腕を食い千切ってやれたんだ」
と江澄が悔しそうに答える。
藍曦臣はそんな彼に苦笑しながらも、「忘機」と再び、弟に呼び掛けた。
「妙華鏡で魏公子の様子を見ることは?」
「分かりません。試していませんし、試す気もありません」
「そうか。お前が魔界へ降りた時、彼はどんな様子だった?」
「魏無羨と会ったのか?!」
一人だけ事情を聞かされていない江澄に、藍曦臣が説明を加える。
藍忘機は魏無羨を救うために魔界へ行ったこと。
彼を連れ戻すつもりが、魏無羨に拒まれ、温寧と闘いになり、勝負がつかずにいったん天界へ戻ってきたこと。
魏無羨と会った件で江澄は鼻筋に皺を寄せ、牙を向いて、毛を逆立てた。
「それで。魏無羨の奴は、自分が父上や母上を殺したことについて謝罪の言葉を口にしたか?」
「私に自分を殺せと。しかし勿論、私は出来ないと断った」
藍忘機の答えを聞き、江澄は拳を握り締めたかと思うと、憤慨した様子でその場を立ち去った。
途中、石柱に怒りをぶつけ、渾身の力で殴りつけ、姿を消してしまった。
困ったものだ、と藍曦臣は溜息を吐き、ひとまず江澄は追わずに藍忘機と向き合う。
「やはり、当時、魏公子は自制がきかない状態だったのだな」
はい、と頷き、藍忘機も「魏嬰は悪くありません」と続ける。
「自分が狐帝を殺したこと、青丘を滅ぼしたこと、すべて彼は覚えておらず、無意識のままことに及んだようです。魔尊の魂魄を身に取り込んだことで一時的に自我を放棄してしまったか、操られたかは分かりませんが、魏嬰の意志ではなかったことは確かです」
「忘機、これは賭けなのだが」
「何でしょう」
藍曦臣は藍忘機の耳許に唇を寄せ、こそこそと何やらひそかに打ち明ける。
藍忘機の目が見開き、兄を見つめ、そしてしばらく考え込んだ後に、彼はしっかりと頷いて承諾した。
「しばらくお前への風当たりは強くなるだろう。しかし私は兄としてけしてお前を裏切らない。兄の言葉を信じるか?」
「勿論です。それで魏嬰を救うことが出来るのなら、例え、兄上に殺されようと私は構いません」
「そんなことにはならないから安心しろ。ついて来なさい、忘機」
目的の場所へ向かう間、藍曦臣は弟の手を取り、しっかりと握り締めた。
幼い頃の彼らはいつもこうして手を繋ぎ、どこへ行くにも二人一緒に行動して来た。
あの頃の藍忘機の手は幼児らしく、ふかふかと柔らかい触り心地だったが、今は骨張って力強く、成人した男性のそれになっている。
もう一度、弟の手を握り、ぽんぽんと軽く叩いた。
「この鏡に映し出されれば本来の姿へ戻る。私とお前は共に魔族の母を持つ身だ。龍にも魔にもなれる。お前の心に問い掛けなさい。ただし、再び元に戻れるかは定かではない。お前一人に押し付けるのは心苦しいが」
「大丈夫です、兄上」
藍曦臣はもはや天位を継ぐ身。
犠牲ならば弟の自分が請け負うのが当然だし、それに魏無羨の元へ行くのならこの手が確かに一番手っ取り早いだろう。
それに藍曦臣も言っていた。
「我々の母は魔族の姫であっても、高潔で、とても清らかな人であったと。龍族と魔族に何の違いがあるでしょう。ならば私は母の血を喜んで受け入れます」
「覚悟を決めたのなら、もう何も言うまい。では、始めるぞ」
「お願いします」
鏡にかけられた布を取り払うと、藍忘機の等身大の姿が目の前に映し出された。
神々しいまでの若い雄神の姿だが、彼は今自分の龍としての神格を捨てようとしている。
藍曦臣が祝詞を唱え始めると、藍忘機の表情が苦悶に歪み始めた。
身体中の血が沸騰する様な、そんな熱に魘され、大量の血が彼の口から吐き出される。
[[rb:金色 > こんじき]]に輝く龍族の血が白い大理石の床に流れ、龍の姿に戻った藍忘機は冷たい石の上でのたうち回った。
兄の呪詛が頭の中に響き、「もう止めてくれ」と拒絶の言葉が衝いて出る。
本当に口にしたのかさえ定かではない。
藍曦臣は弟の妄言には耳を貸さず、果断に祝詞を唱え続けた。
やがて龍から人の姿に戻った藍忘機が昏倒し、彼の弟は何も発しなくなった。
まるで死んだように眠ってしまっていたが、その変化は彼の頭上に表れていた。
魔族の証である小さな角が髪の間から覗いている。
「忘機、忘れるな。お前は私の弟、含光君だ。お前の歩む道は常に光で照らされる。お前自身が光なのだからな」
気絶したままの弟の身体を抱き、藍曦臣自身、仙力を大量に使いすぎてしまった身体で、ふらふらと天界の道を進む。
彼らの母が墜ちる選択を選んだ誅仙台へと向かうと弟の身体を紫雲の中へと投げ捨てた。
「行きたい場所へ行け。そして会いたい者と会うと良い」
藍曦臣の言葉は小さく、いつの間にか背後にいた江澄の耳には届いていなかった。
彼に「沢蕪君?」と呼ばれ、初めて江澄に見られていたことに気が付く。
「阿澄」
「なんで藍忘機を突き落としたんだ。ここは、誅仙台だろう? 青丘にいた俺でも知ってる。この場所から下界へ落ちると仙力も失い、記憶もなくすんじゃ」
見たところ不仲どころか非常に仲の良い兄弟に見えていたのに、江澄にはさっぱり分からないようだった。
「藍忘機を殺したいのか?!」
「確かにここは誅仙台だ。しかし死にはしない。弟は龍族として生きるよりも、ある者のそばで生きることを選んだ。故に、追放した」
「ある者?」
藍忘機が墜ちて行った先は仙気がまるで雲のように立ちこめ、もはや彼の姿も見えなくなっていた。
この場所へ不用意に墜ちた者は、霊力のすべてを失い、ただの人間へと墜ちてしまう。
神仙と呼ばれる力を失ってしまうのだ。
「あんたの弟なのに……」
「そうだね。弟だからこそ、許されないこともある」
どうも普段、温厚で物腰の柔らかい藍曦臣の言葉とは思えない。
江澄は訝しみながら彼のことを覗き込んだが、藍曦臣はいつものように江澄に笑みを向けるでもなく、その表情は確たる揺るぎない信念を信じ切っている狂信者のそれだった。
思わず身震いがして後退った江澄の手を藍曦臣が掴んだから、思わず警戒して全身の毛が逆立ってしまう。
「沢蕪君、まさか俺のことも落とすつもりじゃ……」
「きみを? きみは、青丘の次期狐帝だ。きみにはやるべきことも、やらねばならない信念もある。しかし弟は、魔族の君の助力になることを選んだ。故に追放した」
「魔族の君って───」
「魏無羨。きみが一番良く知る男だ」
この一言で江澄の表情が変わった。
藍忘機を庇うのは止め、藍曦臣の手を自ら振り払おうと上下に振るが、何度振ってもきつく掴まれた彼の腕は自由にしては貰えなかった。
「沢蕪君、今すぐに俺たちで藍忘機を追おう。あんたたちまで離れてしまうことはない。藍忘機は一時、気の迷いが生じただけだ。彼の様な男が魏無羨の味方になんて 」
「弟はもはや、龍族ではない。私の弟でもない。説得など無駄なこと。それに阿澄」
振り返った藍曦臣に腕を引っ張られ、彼の胸元に引き寄せられた江澄は今度こそ、背筋がぞくりと冷えた。
彼の目の前に立つのは、慈悲深い反面、その慈悲深さ故に、冷厳過ぎてしまう天帝としての姿そのものだった。
威厳を放ち、その瞳は宇宙の様に深く、静かだが、感情の揺らぎや彼らしい慈悲深い温かみなどまったく皆無な表情をしていた。
「沢蕪君……」
「私は龍族の主、四海八荒に生きる統べての者を従える天帝だ。青丘の皇子である君も例外ではない。今後は私の言に従うように」
「あんた、何を言っているのか分かってるのか。俺は誰にも従……、沢蕪君!」
「来なさい」
藍曦臣に引き摺られ、江澄は抵抗することも出来ずに誅仙台から引き剥がされてしまった。
藍忘機が消えた穴から白い光が立ち昇る。
白光は龍となって空へと昇り、七色の彩雲の向こうに消えてしまった。
龍としての藍忘機は死んだ。
死んでしまった。
それを見上げる藍曦臣の横顔は、何とも言えない哀しみに包まれていた。
熱いマグマが噴き出し、荒れた大地から煙りが立ち上る。
魏無羨が今自分の拠点としているのはそんな大地──、地の底に広がる魔界だった。
終がある彼ら人とは違い、魔族の者は肉体を消滅させたとしても魂魄を握り潰さねばなかなか死んでくれない。
この地で魔尊の魂魄を受け継ぐ者として、温若寒の息子たちを誅して回る覚悟を決めた魏無羨だったが、その成果は日進月歩と言うわけには行かず、特に温晁についている手練れの温逐流に悩まされていた。
彼の能力、化丹手は触れるだけで相手の霊力を奪ってしまう。
温寧の馬鹿力だけで何とか進んで来たが、魔尊の力を秘めているとは言え、その半分も使い熟せない魏無羨では到底太刀打ち出来ない相手だった。
「温情、もっと温若寒の力を使い熟せる施術を進めてくれ」
と医師の温情に頼むのだが、彼女には「無理よ」と止められている。
「今でもぎりぎりの瀬戸際なのに、今のあなたの霊力でこれ以上の施術をしたら、あなたの精神が温若寒に乗っ取られてしまうわ。それこそ温晁たちの思うつぼじゃない」
江楓眠を殺し、虞紫鳶も殺し、青丘も滅ぼしたと言うのに、肝心の魔族を殲滅出来ないなんて、魏無羨は自分の不甲斐なさに頭がおかしくなりそうだった。
人間だった頃と変わり、今の魏無羨の身体はだいぶ魔族の力に侵されている。
頭の角こそ生えてはいないが、明るかった笑みは消え、彼の目尻には紅く血で染まった線がくっきりと浮き出ていた。
その目が温情をじろりと睨み、彼女でさえ怯ませたが、しかし気丈な温情は魏無羨の言いなりにはならず、あくまでも彼の身を案じて、「駄目よ」と繰り返した。
そこに「魏公子」と温寧がいつもののんびりした口調で近付いてくる。
つい苛立っていた魏無羨は、「来るなと言っただろう!」と温寧に向かって怒鳴り、彼を怯えさせてしまった。
すぐに口が過ぎたことを反省し、「ごめん」と謝ったが、温寧は余り気にしてはいないようだ。
いつもの人懐っこい笑みを浮かべ、
「う、魏公子に、お、お客さん」
と伝える。
「魏無羨に客? 誰なの、阿寧。もしや、温晁が来たの?」
「まさか、江澄か?」
そのどちらでもなかった。
温寧の後ろから彼と同じぐらい背は高く、温寧よりもほっそりした立ち姿も美しい男が姿を現す。
「ら…藍湛?」
思わずその名前を呟いてしまった魏無羨だが、彼に近付こうとして途中で足が止まった。
確かに姿は藍忘機にそっくりだが、彼の姿はまるで彼らと同じ魔族の様に、角を生やし、目尻が紅く染まった、白く、神々しい龍族とはかけ離れた姿だった。
しかし藍忘機にそっくりな魔族など存在するだろうか。
その証拠に彼は「魏嬰」と呼び、魏無羨の額に触れ、彼の顔にかかった髪を撫でつけてくれた。
「きみに会いたかった」
「……ら、藍湛なのか、本当に?」
「そうと言えれば良いが、今の私は何者でもない。私の名はきみがつけると良い」
「俺がつけると良いって、そんなの藍湛以外に何があるってんだ」
魏無羨を一人にしても問題ないようだと思った温情は、きょとんとして魏無羨を見つめている温寧を連れ、部屋から出て行った。
二人きりになった部屋で、魏無羨はもう一度目の前の男が藍忘機で間違いないかと頬に手を触れ、確かめる。
「藍湛──、含光君と呼ばれるお前がなんで魔族になんて」
手が震えて言葉にならない魏無羨のその手を取り、藍忘機は自身の手で包み込んでやった。
「私に流れる血の半分は魔族のものだ。私たち兄弟の母は魔族だった。故に、どちらを選んでも問題ない」
「でも、沢蕪君は天界にいるんだろ? 兄貴と争うことになっても良いのかよ」
「兄も納得の上のことだ。私はきみを守るためにこそ存在する。きみを失えば私の存在意味などなくなる」
「藍湛……、俺にそんな価値なんてないだろう。俺とお前が会ったのなんて一度きりで」
「うん。でも、その一度が、私にとって何よりも大事な一度だった」
「藍湛……」
彼の気持ちにどう反応したら良いのだろう。
手放しに喜ぶには藍忘機に申し訳なさすぎるし、嬉しくないと言えば彼の好意が無に帰してしまう。
困惑顔の魏無羨の頬を撫で、微笑む彼の顔を見、魏無羨の中の戸惑いも氷が融ける様に和らいだ。
その顔は
「きみは何も気にしなくて良い」
と言いたい藍忘機の心を代弁していて、その嘘偽りのない善意が魏無羨は嬉しかった。
「ありがとう、藍湛」
と声をかけると、彼らしい淡々とした声で、「不要」と断られる。
「魏嬰、今の情勢を」
「うん」
藍忘機と言う強い味方を得た魏無羨にもはや怖いものは何もない。
「藍湛、温逐流だけは気を付けてくれ。あいつは化丹手だ。奴に触れられると霊力が立ち所に消えてしまう。けしてあいつに近付きすぎないようにな」
「分かった。問題ない。温逐流は私が殺す」
「早速温寧、温情を呼んで作戦会議を開こう」
「魏嬰、その他にも私がきみを手伝えることがある」
「ん?」
魏無羨の手を掴み、藍忘機が引き留める。
「私の母は温若寒の娘だった。故に、私ならばきみの中にいる温若寒の影響を抑え、きみの力を解放することが出来る」
「本当か、藍湛?!」
「うん。兄からその使命を負って、きみを助けにこの地へ来た」
「沢蕪君が? と言うことは、沢蕪君もお前の味方ってこと?」
「それは分からない。この先、きみの力を解放し、魔族をまとめることが出来た時、きみが龍族にとっての敵になるか、味方になるかでそれは変わる。しかしひとまず、温若寒の件には終止符を打たねばならない」
「分かった。自分を制御できるか自信はないけど、やってみるよ。でももし、万が一、俺がお前らを傷付けることがあれば、その時は躊躇なく殺してくれ。それが俺の望みだ。青丘の、江おじさんたちを殺した罪を背負ってまで生き延びたくない。江澄にも顔向けできないし」
「……うん」
温情の力も借り、二人は魏無羨の中に封じられている温若寒を解き放つ施術を開始した。
「含光君、この施術はかなり危険を伴うわよ。魏無羨の身体は温若寒の魂魄のおかげで並みの人間より頑丈だけど、それでも彼の元神はないに等しいのだから、上手く自分を制御出来るかはかなりの賭けだわ」
「問題ない。私の元神を分け与える」
「そんなことをしたらあなたの力が弱まるわ」
施術を拒み、思わず高くなってしまった温情の声を遮る様に、藍忘機は人差し指を唇に当てる。
魏無羨が起きてしまうと言いたいのだ。
「問題ないと言った筈だ。私に何かあっても、龍族には兄がいる。下界に降りると決めた時に、私も兄も互いの立場を納得の上、覚悟を決めた。私が死んでも兄が龍族を守る」
「でも、温若寒の魔尊の力を抑えきれなかったら、その時はどうするの?」
「それも兄が考えている。きみは目の前の施術に集中したまえ」
「でも」
とまだ言い募る温情を一瞥し、藍忘機は無言でやれと顎をしゃくる。
彼女が何を言おうと既に彼らはあらゆることを想定し、決めてしまっている。
「どうなっても知らないから!」
そう呟いて、温情は魏無羨の霊力を最大限まで解放させる施術に取りかかり始めた。
外に追いやられた温寧は心配そうに洞穴の中を何度も覗き込んだのだが、姉から「絶対に入っては駄目よ!」と言い含められていたから、気を揉みながら、魏無羨と温情が出て来るのを待っていた。
「神様、ど、どうぞ、う、魏公子をおた、お助けください」
とぶつぶつ祈祷を唱えているが、果たして魔族の願いを聞いてくれる神などいるのだろうか。
洞穴から激しい光が放たれたかと思うと、地鳴りと共に周囲のマグマが放出し、温寧はあたふたと頭を抱え、逃げ惑う。
しかしその彼の顔が急に真顔になった。
彼らの敵が近付く気配を察したのだ。
「う、魏公子を、守らなきゃ……」
温寧は立ち上がり、光陰のように駆けて行く。
攻め込んで来る温晁側の勢力の中に温逐流を見つけた温寧は彼を目掛けて拳を握り、殴りかかった。
彼とは幾度も戦い、決着がついていない。
温寧の怪力を知っている温逐流も深追いはせずに逃げ回り、温寧が疲れるのを待っている様だった。
「温…、ち、逐流……! 魏公子は俺が守る!」
温寧の辿々しい悪態に怯むことなく、温逐流は唇の端を持ち上げて嗤うと、まるで彼に慈悲を与えるかの様な表情で霊力を瞬時に消してしまう右手を突き出した。
一度は跳んで躱し、温寧も再び反撃に出る。
すぐに二打目が脇を掠め、温寧は左手で防いで、渾身の力で彼の頬を殴りつけた。
「どうだ、参ったか!」
と猛々しく咆哮を上げたが、温長の飼い犬はそれ程甘くない。
「死んだな」
と呟く温逐流の声が温寧の背後で聞こえた。
彼の拳が温寧の背中に近付く気配を感じ、跳んで逃げようと思ったが、間に合わない。
死の宣告を目を瞑り、待ち続けたが、血飛沫が辺りに散った割りに温寧の身体はどこも痛くなかった。
恐る恐る目を開いて見ると、温逐流のものだった彼の右腕が地面に棒の様に転がっている。
何が起こったか彼にも分かっていないようで、落ちた腕に気を取られているうちに頭上から白い光が一閃し、頭から彼を真っ二つに割いた。
「ら、藍…二公子……!」
避塵についた血糊を一振りで払い、地面を這っていた温逐流の魂魄を踏み潰した藍忘機は温寧を一瞥し、「ついて来い」と彼に向かって言い放つ。
温逐流が死んだことで統率が取れなくなった温晁の部隊へ斬りかかり、鮮血の雨が降り注ぐ。
そして魔尊の力を最大限に発揮した魏無羨が天から降りて来て、残りの部隊を一気に消滅させた。
それからの戦は消化試合の様だった。
逃げ惑う温晁を追い回し、袋小路に閉じ込められた鼠の様に震わせる。
「魏無羨…、俺たちは同じ魔族だろう! お前の中にいるのは俺の親父の温若寒なんだぞ?!」
「ん? 俺がいつクソからクソみたいなクソオブクソのお前を産んでやったって言うんだよ。同じ魔族だって? ふざけるなよ。お前の親父の魂魄がこの身にあるってだけで寒気がする」
魏無羨に頼んでも無理だと悟った温晁は、彼の中に眠る筈の父親に救いを求めようと、幾度も「父上、父上」と叫んだが、結局、藍忘機が振り下ろした避塵によって、温逐流同様、一刀の元に真っ二つにされた。
彼さえ死んでしまえばもはや魔界で魏無羨に逆らう者は誰もいない。
残りの問題は龍族との確執だった。
「藍湛、俺は温情たちの為に、魔族にも日の当たる場所での生活を与えてやりたい。沢蕪君と話し合えないだろうか」
「出来なくもないが、叔父を説得するのが不可能に近い。それに魏嬰、きみには死んで貰わなきゃならない。それが兄上との約束だ」
「分かってるよ。でも、最期に、俺のことを助けてくれた温寧や温情に報いたい」
藍曦臣と交わした約束は、藍忘機を魔族として魔界へ送り込み、まずは温晁の反乱を制圧し、魏無羨に魔族を統一させた後、この世から魔尊の魂魄を完全に消すことだった。
魏無羨と言う容器に入った温若寒の霊力を一度解放した後に、彼の身体と共に消滅させる。
それで温若寒の件は解決する筈だった。
「きみを一人で逝かせはしない」
「藍湛。先に言っただろう? 俺は江おじさんや虞夫人、青丘にいる皆を殺した罪を背負って生きるつもりはない。死ぬ覚悟は出来ているが、その前に、魔族の言い分も聞いてやってくれ」
「────」
藍曦臣がその話に乗るかは不明だが、藍忘機の見解ではおそらく兄なら協力するだろうと思われた。
問題は藍啓仁を始めとする龍族だ。
魏無羨の手に自分の手を重ね、藍忘機は「自分も行く」と彼を見下ろした。
「でもその姿じゃ」
「どちらにしても既に私は龍族から離反したことになっている。それにどのみちきみと死ぬつもりだった。誰にどう見られようと構わない」
「藍湛、でも」
「魏嬰。きみを見た時、私は初めてこの世に生があると実感することが出来た。きみと出会う前の私は息をしていても生きているとは言い難い状態で、きみが眩しくて、きみのことをずっと見続けたいと思っていた。だから私にとっての太陽が沈むのなら、共に私も沈むことにする」
「藍じゃ…」
続けて反論しようとする魏無羨の顎を掴むと、藍忘機は自分の方へ手繰りよせ、そして最初で最後のの深い口付けを交わした。
魏無羨の目が見開かれ、やがて彼の身体から力が抜け、藍忘機の腕に体重がかかってくる。
あの日、出会った小さな命は藍忘機の腕の中で開花し、見事に美しく咲き誇って見せた。
もう思い残すことはない。
「きみの望みを叶え、きみと共に逝こう」
「……うん」
藍忘機の腕の中、魏無羨もこくりと頷き、そしてあの明るく、眩しい笑みを浮かべて見せる。
この笑顔が見たかったのだ。
それだけで本当に充分だった。[newpage]
4.終章
その日、天界は大騒ぎとなった。
永劫の静けさに包まれ、宇宙が尽きるまでこの地だけは変わらないと思っていた天界に、魔尊となった魏無羨と藍忘機が温寧まで引き連れて現れたのだ。
当然、藍啓仁は厳戒態勢をしき、彼らを門から一歩も通すまいと九重天の入り口に陣を張った。
藍曦臣に連れられた江澄も姿を現し、魔族となった義兄を見、憎しみの目を向けた。
「江澄……」
と魏無羨が彼に向かって呼び掛けたが、江澄は彼から目を逸らし、名を呼ぼうともしなかった。
「魏無羨」
藍啓仁に呼ばれ、魏無羨は江澄から視線を外して彼へと向き直る。
「その離反者と共にさっさと地界へ帰れ。そこがお前らに相応しい場所だ」
と宣っている。
まったく笑えると呆れるしかなかった。
「藍先生。お言葉だが、龍族が天界に棲み、魔族は地界に潜ると一体誰が決めたんだ。俺がお偉いお方なら、そんな不平等な采配は振らないな。争いごとを起こしてくれと言っている様なものじゃないか」
「貴様と話し合うつもりなど毛頭ない。忘機よ、龍族の誇りがまだ胸の内にあるのなら、そこの穢らわしい男を殺し、叔父の前で謝罪して見せろ。そうすれば不問にしないでもない」
「やれやれ。藍湛、お前の叔父上は何様のつもりなんだ? 天帝である沢蕪君を差し置いて、一番偉そうなことを宣っている」
「魏無羨……!」
藍啓仁が怒りで卒倒しそうになり、藍曦臣、そして藍忘機の気が逸らされた。
魏無羨も倒れた彼の様子に気を取られているうちに、いつの間にか江澄が彼の背後へ回っていた。
「魏無羨、お前に会える日を待っていたぞ」
「江澄……」
江澄の血走った目が魏無羨を睨み、その向こうで藍忘機が彼に手をあげようとするのが見えてしまった。
「藍湛、手を出すな! 温寧、お前もだ!」
魏無羨の声が届かぬうちに、藍忘機が抜いた避塵の切っ先は、すかさず駆け寄った藍曦臣の朔月に寄って弾き返された。
「彼には手を出さない約束だぞ、忘機」
「それは私の言い分です! 魏無羨と共に逝くのは私の役目だと」
二人が言い争う間にも、江澄が構えた剣は魏無羨の心臓を貫き、彼の身体を地面へと縫い付けていた。
「魏無羨! 信じてたのに! 絶対、絶対、お前は謝罪に来ると、すまなかったと、謝りに来ると信じてたのに……! お前は最期まで俺を裏切った!」
「江澄……、ごめんな……、ごめん、本当にごめん……」
「魏嬰!」
藍忘機に寄って突き飛ばされた江澄の身体は宙へ飛び、藍曦臣の腕が地面に叩きつけられる前に抱きかかえた。
「忘機、魂魄にとどめを刺せ!」
兄の𠮟咤の声が聞こえたが、藍忘機には到底出来なかった。
呼吸が消え入りそうに小さくなる魏無羨の身体を掻き抱き、彼の名を呼ぶことしか出来なかった。
「ら…、藍湛……、こ…れで、い…いんだ……、最期に、江澄にちゃんと謝れて……良かった…よ……」
「魏嬰!」
「江澄…、出来たら……、青丘に、帰りたい……」
その言葉を残して魏無羨は息を引き取った。
藍忘機の声が響き渡る。
彼の声を聞いたのはこれが初めてだと言う龍族もいたに違いない。
避塵を握り締めると彼もまた自分の喉を搔き切って魏無羨の上へと倒れ込んだ。
しかし、藍忘機はそれから七日の後、自身の寝台の上で目が醒めた。
見覚えのある──、ありすぎる白い天井を眺め、何も掴んでいない自身の手を顔の上まで持ち上げてじっと見つめる。
まるで長い夢を見ていたようだ。
首に巻かれた包帯が夢ではなかったことを証明しているが、藍忘機はどちらでも良かった。
起き上がり、ふらつく身体で妙華鏡の元へと向かう。
途中、彼の近習の者が気が付き、急いで藍曦臣を呼びに行き、藍忘機の身体は兄に支えられて部屋へと戻された。
「兄上──、約束が違う……!」
「忘機。お前はたった一人の私の弟だ。みすみす見殺しにはしない。最初からお前が命を絶った時に、魔族としてのお前は死に、龍族のお前が残る様、祝詞を唱えておいた」
「─────」
では、魏無羨はどうなのか。
そう問いたげな藍忘機の視線を兄が避けたのが答えだ。
「最初から、魏嬰だけを、殺すつもりだったんですね」
「───忘機。大局を見れば仕方のない選択だった」
「では、魏嬰は……!」
「阿澄が連れ帰った。温情、温寧の姉弟から、魏公子がどれだけ良心の呵責に苦しんで来たか、あのふたりから聞いたから、阿澄も彼の最後の遺言を聞き届ける気になったようだ」
ならば魏無羨の遺体は青丘に運ばれたのだろう。
藍曦臣の話では、青丘の蓮池に灰となって撒かれたらしい。
「しっかりしろ、忘機。食事を運ばせよう」
「いりません、何も」
「何か食べなくては駄目だ」
「いらないのです。出て行ってください」
頑なに拒む藍忘機に、藍曦臣もそれ以上は何も言えず、弟の部屋を後にした。
それから数日。
消耗した体力が戻るまでに幾分、日を要したが、藍忘機は今度こそ、妙華鏡のそばへと辿り着くことが出来た。
「魏嬰を───」
藍忘機の声に応えて、鏡が青丘の蓮池を映し出す。
焼け野原だった青丘の池に蓮の花が開いていて、藍忘機はとめどなく涙が溢れて来てしまった。
輝く、青丘の風に吹かれ、弓を引き絞る魏無羨の姿が見えるようだ。
「魏嬰───」
呼び掛けると、蓮池の蓮の花びらがぴくりと震えた様な気がした。
──いつか、必ず──
きみに会いに行く────
吹き抜ける風が花弁を揺らし、花の香を江澄の元へと届けて来た。
この花は彼の姉が大好きな花だった。
翡翠色をした池の水へと手を伸ばし、手のひらに掬い上げ、こぼれてしまう水をとどめおくことの難しさに顔を顰める。
「阿澄」
「───沢蕪君、またあんたか」
「きみが気を落としていないか、やはり気になってね」
「大丈夫だ。青丘の民は、逞しい。踏まれても、萎れても、必ず絶対に立ち上がる。それに、居なくても良い奴らに居座られているしな」
「ん?」
その居なくても良い奴らは、江澄の住まいの狐狸洞の修復にせっせと励んでいる。
龍族は彼ら魔族の為に領地を空けることはなかったが、魏無羨が世話になった御礼として、温寧と温情の姉弟だけは江澄が青丘に迎え入れたのだ。
無邪気に手を振る温寧の仕草に笑い、藍曦臣も手を振り返してやる。
「阿澄、今にきっと好転する。嵐がずっと続かない様に、きみの心もいつかは晴れる」
「だと良いな。今は、余計なことを考えないで、青丘の復旧に尽くすつもりだ。考え出すとろくなことが浮かびやしないし」
過ぎたことを呪っても仕方ない。
そう笑う江澄に安堵したのか、藍曦臣が彼の手を握り、江澄もそれに応えはしないものの、振り払わずに空を仰ぎ見た。
「いつかまた、会えるのかな、あいつに」
「どうだろうね」
江澄の手を擦り抜けた風は、蓮池の花を揺らし、水面に波間を立てた。
その中で金色に輝く蓮の花が、日の光を浴び、嬉しそうに震えていた。
(魏嬰────)
藍忘機の声に応え、蓮の花はぷるっと愛らしく揺れる。
(藍湛──)
その声が藍忘機の耳許に運ばれるのは何年先のことか。
(俺は必ず戻るから、まっていてくれよな)
妙華鏡の向こうで、魏無羨の存在に気が付いた藍忘機の口許に微笑が戻る。
彼は待ちきれずに青丘に向かい、飛び立っていた。
終わり
20240322
5/5ページ