いつかきみに会いに行く

3.帰れない日々へのそれぞれの想い

 ここはどこだろう。
 額に落ちてきた水滴で目が醒めた魏無羨が真っ先に思ったのはそのことだった。
 いつの間にか彼の身体は見覚えのない洞穴の中に在り、周囲には江澄の姿も見当たらない。
 それに何よりここに来るまでの記憶が魏無羨にはすっぽりと抜け落ちていた。
 琥珀色の瞳が魏無羨を見つめ、「魏嬰」と必死に彼の名を呼んでいた気がする。
 あれは確か───。
 
(江澄はどこに行ったんだろう)

 鈍い頭を持ち上げ、身を起こし、周囲を見回して見ると一人ではなかったことにはっとした。
 あの白面の男が目の前にいる。
 急いで跳ね起き、「お前は誰だ!」と威嚇するが、白面の男は哀しげに魏無羨を見つめるだけで特に危害を加える気はなさそうである。
 とは言え、やはり警戒を解くわけにはいかなかった。

「う、魏…公子」

 そう言えば意識がなくなる前もこの男は魏無羨の名を知っていで呼びかけてきた。
 魏無羨の中に彼の記憶は微塵もないが、彼はどこかで魏無羨のことを見たのだろうか。
 おどおどと手を伸ばしてくる彼からは相変わらず敵意を全く感じなかったから、魏無羨も警戒はしたまま、相手の言葉に耳を傾ける姿勢を見せた。

「お前は? どうして俺の名を知っている」
「あ、あなたは、う、魏公子。お、俺は、う、温寧だから、た、助ける」

 温寧と名乗る彼は、吃音が酷く、上手く喋れないようだ。
 最初の登場はともかくとして、彼の吃音と一生懸命に何かを伝えようとする姿勢が何か可愛らしくて、魏無羨の緊張も緩まざるを得なかった。

「分かった、分かった。お前は温寧、俺の敵じゃないって言いたいんだな」

 こく、こく、と何度も温寧は頷き、「魏公子、け、怪我は?」と彼を労る様子まで見せてくれる。
 見た目はともかくこの白面はまるで兎のように愛らしい。
 魏無羨が再び口を開こうとした時、奥からキツい目つきをした女が一人現れた。

「阿寧、彼は起きたの?」
「姉上、う、魏公子、お、俺の、姉さんで、お、温情。魏公子の、け、怪我をななおしたの」

 温寧の姉、温情は弟の様な愛らしさは微塵もなく、どことなく虞紫鳶に雰囲気が似ていた。
 秀麗で賢そうな顔つきをしているがその顔に笑顔はなく、非常に取っつきにくい。
 魏無羨と目が合っても不快そうに顔を顰めるだけで、愛想の片鱗さえ見せなかった。
 しかし魏無羨の手当てをしてくれたと言う温寧の話は本当の様で、寝台脇に置かれた薬瓶から塗り薬を指につけ、魏無羨の手を取り、怪我した部分に塗ってくれた。
 彼女に手を取られ、魏無羨は自分が負傷していたことに初めて気が付いた。

「魏公子、この薬を火傷した部分に塗って。数日もすれば痕も綺麗に治るわ」
「どうして火傷なんて」
「何も覚えていないの?」

 覚えていない。
 頭を振る魏無羨に、温情はまるで歯が痛んだような顔をして見せ、こめかみを押さえて、「阿寧」と弟を𠮟る素振りを見せた。

「何故、俺はこんな火傷を負った?」
「誰かがあなたを傷付けたわけじゃない。あなた自身がしでかしたことよ。自分がしてしまったことの記憶もないの?」
「しでかした事だって?」

 きょとんとする魏無羨に薬を手渡した彼女は、薬で汚れた指先を拭きながら立ち上がる。
 彼女が話したところでは彼女たちは魔族の一族で、魔尊とは言わば親戚同士、同じ温家だが、大梵山温家と言う傍流だと説明してくれた。

「つまりここは魔界なのか。しかし何故、こんな洞窟に住んでいる?」
「住んでいる? 先祖の頃はこんな日の射さない地の下ではなく、私たちだって日光の当たる場所で堂々と生活をしていたのよ」
「まさか地界って、こんな洞窟ばかりなのか? これじゃ作物だって育たないだろう」
「私たちは魔族だもの。育つ作物がなければ、ここでも育つ物を作るだけ」
「どうしてこんな地の底に棲んで、日の当たる場所へ出て行かないんだ。ひょっとして魔族って暗がりが好きなのか?」
「あなたそれ本気で言っている?」

 魔族のことは魏無羨も詳しくは知らない。
 彼らは獰猛で、好戦的で、残虐性に富んだ一族だから、どの種族も余り関わりを持とうとしなかった。
 特に青丘は天界の龍族と懇意にしていた為、魔族の淫猥で快楽に溺れたがる性質は好きではなかったし、魔族と聞けば大体の狐族がぺっと唾を吐きたがるぐらい毛嫌いしていた。
 温情もそんな事情は察しているのだろう。
 魏無羨の顔に浮かんだ嫌悪の表情を見、苦笑しながらも醒めた目つきで続けて話す。

「さっきも言ったでしょ。昔、私たちの先祖は地上の大半を所有していたの。父君が天上に天界を作る前の話よ。父君が誕生した時、私たちの先祖は彼の高慢な態度が許せなくて反抗したわ。その結果がこれ。父君は私たち魔族を地界へ押し込め、そして天上には龍族を、四海八荒のうちの八荒は狐帝に与え、彼は天上からすべてを支配する様になった。その父君が姿を見せなくなってからは、龍族が台頭し始めたわ。あの時以来、私たち魔族と天族の反目は続いている。少しはお互い歩み寄りが出来そうかもねと思った時に、龍族の皇子が私たちの姫を攫って自分の妃にしてしまったのよ。それが今の天帝である青衡君」

 その名前は魏無羨も聞いたことがある。
 現天帝と言えば、藍曦臣、藍忘機の父親だ。
 彼らの半分に魔族の血が流れているとは青丘でも聞いたことがなかった。

「姫の父親である温若寒は勿論、娘を帰せと激怒したわ。でも姫も天界へ上がることを望んでいて、いえ、天界へじゃないわね。一人の男として好きになってしまった相手が龍族の皇子だっただけ。可哀想に彼女は自分が龍族と魔族との間に確執を産んだ火種となったことを後悔し、自らを人間の身に落として死んでしまったわ。勿論、当事者の姫が死んだだけで起こってしまった戦は終結するわけにいかなかったの。それはあなたも聞いたことがあるでしょう。天帝の青衡君が東皇鐘の中へ魔尊となった温若寒を封じ込め、自身の霊力の全部を使い、一生出られない結界を張った」
「東皇鐘?」

 若水にあったあの法器だ。
 段々、記憶が戻って来た。
 白面の男が魏無羨の腕を掴み、あの法器へと押し当てた。
 そして魏無羨の身体は東皇鐘に呑み込まれ、藍忘機が「魏嬰!」と彼の名を叫びながら、必死で腕を引っ張り、彼を救い出そうとしていた。
 これで話が繋がった。

「で、でも、う…魏公子が戻ったから」

と姉の話に同乗する温寧の襟首を魏無羨は力尽くで掴む。

「俺が戻ったって、どう言うことだ?! お前は一体、俺に何をした! 俺は江澄が心配だし、すぐにでも青丘に戻るぞ!」
「やめて、魏公子! あなた、本当に自分が何をしたのかまったく覚えていないのね」
「こいつが俺をあのくそったれの東皇鐘とやらに押し付けて、そして魔界へ送り込んだんだ! すぐに青丘へ帰せよ!」
「青丘はもうないの! 魔尊を受け容れたあなたにすべて焼かれて、今残っているのは燻った焼け跡だけよ。狐帝も死んだし、妃の虞紫鳶も死んだ。手を下したあなたが青丘に帰れるわけがないじゃない。永久的にあなたは彼の地の者たちから追放されるわよ!」
「何だって?」

 青丘が滅んだ───?
 温情の言葉は理解出来たが、魏無羨はそれを受け入れることが出来なかった。
 青丘が焼け野原になった話なんて信じられないし、江楓眠や虞紫鳶が死んだなんて話はもっと信用出来ない。
 ましてやそれをやり遂げたのが、魔尊を受け容れた魏無羨のせいだなんて。


「ははは」

と乾いた笑いが込み上げる魏無羨を、温情と温寧が同情の色を浮かべた視線で静かに見守っていた。
 初見はキツい女性だと思ったが、彼女は名の通り、情に深く、温かい女性だった。

「魏公子、あなたは温若寒の魂魄の容れ物になっていたのよ。あなたのご両親が死んだのも、赤児だったあなたを奪いたかったから、温若寒の息子の温晁が画策したの。温寧は温若寒に懐いていたから、だから温晁に利用されてあなたを東皇鐘のある若水に来るように仕向けてしまったの。その件は謝るけれど、いずれにしてもあなたは温若寒の手に落ちる運命なのよ。魂魄の容れ物にされた時点でこれは逃れられなかったこと」

 なんでそんなことに……、と言う言葉しか浮かんで来ない。
 あの優しかった江楓眠や、言葉尻は厳しくて、しょっちゅう怒ってばかりだったけど、その実、情に厚く、時折、優しい顔も見せてくれた虞紫鳶が死んだなんて到底信じられるわけがなかった。
 ましてや───。

「俺が……、みんなを殺した……?」

 ようやく現実が把握でき、魏無羨の目からぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。
 彼の手に残る火傷の痕が真実を物語っていた。
 死の間際、虞紫鳶が叫んだ言葉もうっすらと蘇って来た。

「お前を拾って育ててやった恩返しがこれなのかい!」

 江澄の泣き叫ぶ顔を見ながら、自分は嗤っていたのではないか。
 段々と魏無羨の脳裏にもあの時の記憶が悪夢のように襲いかかって来た。

「う、魏公子、だ、大丈夫だよ! もう仙力も戻ったし、い、以前のよ、ように、りゅ、龍族と闘える!」

 魔尊だと? 誰のことだよ、と疑問がぐるぐると巡る。
 込み上げる吐き気を堪え、魏無羨は温寧を突き飛ばし、ふらふらと立ち上がって、洞穴の外へ向かって見た。
 江澄たちと暮らしていた狐狸洞は、ここと同じくしっとりと湿った土の中だったが、洞穴から出ると草花の匂いを乗せた風が頬を撫で、爽快な青空が彼を出迎え、祝福してくれる。
 阿羨、今日は何をして遊ぶんだい、と青丘のすべてが魏無羨に笑いかけてくれるようだった。
 しかし洞穴から出ても、そこに青空はなく、ゴツゴツした岩肌と、暗い土で覆われた天井があるだけで、魏無羨は発狂した声を上げそうになってしまった。

「俺は魔族なんかじゃないぞ! 俺の住処は、青丘だ! 俺は、人間の、魏無羨だ!」

 叫んで見たところで何が変わる訳でもない。
 江澄の背に乗り、若水の淵に行ったことが遥か彼方昔のことのようだ。
 あの時、若水に行きたいと言った江澄を引き留めていればこんなことにはならなかった。

「江澄……。ごめん、俺を許してくれるのか……。もう、二度と会えないのかよ。俺はどう償ったらいいんだ……! いっそ、殺してくれ……!」

 啜り泣き、地面を叩き、泣き続ける。
 いつの間にかそばにやって来ていた温情が彼の肩を叩き、「ついてきて」と静かに誘った。

 温情が連れて行ったのは、地界の宮殿の様な場所だった。
 様なと感じたのは、狐帝の狐狸洞の方がまだ宮殿らしかったし、暗い蠟燭で灯されたその場所はただの広い洞穴に過ぎなかったからだ。
 中には大勢の角を生やした魔族が集まっており、盛大な宴が開かれていた。
 一人、際立つ派手な格好をした男が居り、お世辞にも上品とは言えない笑みをこぼしながら、侍らせた女に豪語する声が聞こえてくる。

「狐帝の野郎がおっ死んだ時のあのツラを、お前たちにも見せてやりたかったぞ! 青丘の女狐はまあ、相変わらずおっかねえ女だったが、俺たち魔族の敵じゃない!」

 あのご満悦になっている男が温若寒の息子、温晁だと温情が教えてくれた。

「つまり、貴方の息子ってことだけど、年齢は貴方よりずっと上。もうじき六万歳よ」
「結婚どころか、女も知らないのに、なんであんなクソから生まれたクソ野郎の父親にならなきゃならないんだ」

 魏無羨の悪態に眉を顰めながらも、温情は説明を続ける。
 こうして魔族の集団を眺め、比較してみると、温情、温寧の兄弟はあのケダモノたちとは別の生物に見えた。

「仕方ないわ。貴方はただの人の子として生まれた。でもあなたのご両親は容器としての適性に優れていたんでしょうね。温若寒の依り代に選ばれ、そして子を奪うために殺されてしまった。貴方の中には温若寒の魂魄が眠っていて、東皇鐘の中に封じられた温若寒と接触してしまった。それを企てたのが[[rb:温晁 > あいつ]]。阿寧は上手く利用されただけ。あの子は生まれつき、知能に障害があるの。だから利用されてしまったのよ。本当にごめんなさい」
「温情。そう言うきみだって魔族の一員だ。ならばきみも青丘を滅ぼすことに賛成だったのでは?」
「馬鹿にしないで。これでも私は医者なのよ。命を救うのが私の役目であって、命を取るのは仕事じゃない。確かにこの地底で燻る生活は、永遠の不毛に閉じ込められた感覚ではあるけれど、だからと言って関係のない青丘の民を殺す理由にはならないわ」
「何故あの野郎は青丘を滅ぼすことに決めたんだ」
「彼じゃなく、貴方の中で眠っている温若寒よ。温晁には何の力も思想もない。あいつはただのたわけ者。でも魏公子、貴方があの温晁を引きずり下ろせば、もう少しまともな集団になると思うの。そうすれば青衡君が為し得なかった両族の関係の修復も出来ると思わない?」
「両族の関係、修復───」
「うん。私たちも外へ出たい。この理不尽から解き放って欲しい。あなたならきっと出来る筈よ」

 唐突に階下にいる魔族たちが騒然とし始めた。
 入り口の方から、「龍族が攻めてきた!」と叫ぶ声が聞こえてくる。

「龍族だと?」

 温晁の質問に駆けこんで来た魔族が答える。

「りゅ、龍族の皇子が、魔境の入り口で仲間を次々殺しています!」
「龍族のクソ野郎目! 温逐流! まずはその皇子とやらを殺してしまえ!」

 温晁の命を受け、立ち上がった男は声には出さず、寡黙に頷き、そして部下を数名引き連れて出て行った。
 精悍な眉と感情の起伏の乏しそうな細目をした男で、事情を知らない魏無羨にもその男が相当な手練れであることが見て取れた。
 龍族の皇子───。
 どこかで聞いたような、と記憶を探る。
 どこかどころか、ついさっきのことだ。

「沢蕪君と、含光君?」

 正直、藍曦臣のことは余り覚えていない。
 江澄を抱いて、彼に引っ搔かれていたのは覚えているが、魏無羨の頭に真っ先に浮かんだのは、あのどこか懐かしさのある琥珀色の瞳だった。

「藍二公子?」
「彼らと知り合いなの? 魏公子」
「分からない。でも彼なら助けなきゃ。俺は一度あいつに助けられてる」
「ならば急いだ方が良いわ。温逐流は危険よ。温寧を呼んでくる。貴方は先に行って」
「うん。温情、ありがとう!」
「ありがとうなんて」

 温情は途中まで言い掛けたが、結局、止めてしまった。
 良いから早く行ってと魏無羨を急かし、自分は弟を呼びに自分の住みかへと走って行く。
 言われずとも魏無羨も魔境の入り口とやらに急いで向かった。
 道は知らずとも皆が其方へ走って行くから、彼らの後をついていけばいいだけだった。

 剣戟の音が近付く。
 魏無羨が想像した通り、乗り込んで来たのは藍曦臣ではなく、藍忘機の方だった。
 二人はそっくりな見た目で初見では区別がつきにくいが、魏無羨にはもうどちらが藍忘機で、どちらが藍曦臣かはっきり区別がついた。
 藍忘機ではない方が藍曦臣で、藍忘機は藍忘機だとすぐに分かる。
 温逐流が放った部下を易々と斬り捨て、彼の周囲には死体の山が築かれていた。

「龍族の皇子。何が望みだ」

と温逐流が問い掛ける。
 剣を下げ、振り返った藍忘機の目つきの鋭さに、陰から見守っていた魏無羨も背筋が冷えた気持ちになった。

「魏嬰を返せ」

 その一言を搾り出すと、藍忘機は温逐流に剣を突き付ける。
 静かな声だが、その声には気力が漲り、温逐流の頬をひくりと痙攣させた。

「あの子供は、この藍忘機が命を救い、青丘に預けた命だ。魔族の好きにはさせん」
「龍族の皇子。お前は何も知らぬから、そのようなことを申す。あの御方は元々、我々魔族の指導者で、温若寒殿の魂魄を内に秘めている。あの人間の依り代のことは諦めろ。どのみち容器になった時点で死んだも同然だ」
「魏嬰は容器ではない。彼は私が助ける」
「藍湛!」

 どうして藍忘機の名を呼んだのか、そこは魏無羨にも分からない。
 藍忘機の本名が湛である事は四海八荒に身を置く者なら誰でも知っている。
 ただ、誰も口にしないのは彼が龍族の、天族の皇子と言う貴い身分だからだ。
 でも魏無羨の口からは自然と「藍湛!」と彼の名前が出てしまった。
 唐突に姿を現した魏無羨を見、藍忘機、そして温逐流のどちらにも驚きの表情が広がる。

「魔尊……!」

と温逐流に手を伸ばされたが、魏無羨はそれを拒み、藍忘機の方へと飛躍した。
 青丘を滅ぼした時の様に魏無羨の目が紅く光り、彼の手のひらに焔が燃え立ち、火の玉となって温逐流を追う。
 魏無羨の心の内で「余計なことをするな」と声が響いたが、その声に支配されることなく、魏無羨は藍忘機を掴むと周囲に向かって火の玉を解き放った。
 焼かれて死んでいく者、火がつきながらも逃げ惑う者。
 しかし肝心の温逐流は拳で焔を受け止め、握り潰して、消失させてしまった。

「魏公子、こっちです!」

 温寧の言葉に、魏無羨は藍忘機を引っ掴んで其方へと飛ぶ。

「邪魔をするな、温寧!」
「う、魏公子に、て、手出しをしては…いけない!」

 彼が温逐流を防いでくれる間に、温情の案内で魏無羨は藍忘機を連れ、魔界の奥へと逃げ込んだ。
 そのまま走り続けていたのだが、藍忘機が魏無羨の腕を掴み、走ることを止めさせてしまった。
 肩を掴まれ、「魏嬰、やはり無事だったか」と彼の安堵した顔が確かめるように覗き込む。

「藍湛、一人で魔界に乗り込むなんて、無茶で無謀な真似は止せって。含光君に何かあったら、それこそ魔界と天界の争いに発展しちまう」

 どうやら温情は気を利かせて場所を外してくれたようだ。
 否、単に弟のことが気懸かりで戻ったのかも知れない。
 どちらにしても魏無羨にとっては、温寧より目の前の藍忘機だ。
 魏無羨を見、ほっと安心した様子を見せる彼に魏無羨も笑いかける。
 しかし温情から聞いた話を思い出し、安堵からかその笑顔は涙でぐしゃぐしゃになってしまった。

「藍二公子」
「さっき呼んだ様に、私のことは藍湛と呼んで良い。魏嬰、きみが無事で本当に良かった」
「ぜんぜ、良くないよ」

 涙が溢れ出て止まらなかった。
 どうして良いか分からず、困り顔をする彼に無理して笑い、「江澄は?」と声を絞り出す。
 語尾はまた嗚咽が込み上げてしまい、まともに喋ることが出来なかった。

「江晩吟は無事だ。今は天界の私の屋敷に棲まわせている」
「青丘に帰らないのか?」

 つまり温情が言ったことの証明で、青丘は焼け野原となり、とてもじゃないが住める状態ではなくなったのだろう。
 あの地には狐族だけでなく、様々な種族が共存し、緑溢れる楽園だったのに、そのすべての命が失われたのだ。

「師…姉は? じゃ…江おじさんは──」

 返事がないのが答えと言うことだ。
 今度こそ嗚咽を洩らして泣き出した魏無羨を、藍忘機は慰めるでもなく、好きに泣かせてやった。

「江澄、俺のことを恨んでるよな」
「魏嬰、原因を探ろう。今のきみに邪気は感じない。しかし青丘を襲った時のきみはまるで別人だった」
「別人だよ! 俺は魔尊とやらの依り代にされたと言っていた。俺が死ねばその魔尊とやらも死ぬんだろ? だったら今すぐ俺をここで殺してくれ、藍湛!」
「それは無理だ。私はきみを生かしたい」
「でも、俺が生きてる限り、何をするか分からないんだろう! だったら死んだ方がいいよ! 江おじさんや師姉や虞夫人や、青丘のみんなが俺のせいで死んだなんて、俺には重すぎてその責任は背負えやしない!」
「魏嬰。私が何とかする。必ずきみを助ける」

 藍忘機はそう言っているが、彼にも解決する手立てなどないに決まっている。
 命には、命で償うしかない。
 魏無羨たった一人が死んだところで青丘の代わりにはなれないが、それでもこのまま生きていくことは出来なかった。

「殺してくれ、藍湛!」

 魏無羨の切羽詰まった叫びに、藍忘機の顔が苦痛で歪む。
 彼には到底、手は下せない。
 藍忘機が立ち上がり、歩き回って、考えを廻らせる間、魏無羨は自分の内部で彼に向かって呼び掛ける声を聞いていた。

(そいつを殺せ。龍族を滅ぼせ。悪いのは奴らだ)

ともう一人の魏無羨が言っている様だった。
 藍湛は悪くない、と幾ら頭で念じても、まるで頭痛の様にこびりつき、彼を殺すビジョンが頭から離れない。

「藍湛、早くここから出て行ってくれ! 俺のことは大丈夫だから、代わりに江澄のことをよろしく頼む! あいつ、我が儘で、口うるさくて、生意気だけど、でも、根はいい奴だから。出来たら、青丘に帰らせてやってくれ」
「魏嬰、私はきみを連れて行く」

 藍忘機が魏無羨の手を取り、立ち上がらせようとするのだが、魏無羨はその手を振り切り、

「温寧!!!」

と大声で彼の従者を呼んだ。
 まるで近くにいたかのようなスピードで温寧が魏無羨の前に現れ、藍忘機へと掴みかかる。

「そいつを魔界から追い出せ! 二度と来られないように、足ぐらいは折っても構わないぞ! さっさと追い出せ!」
「わ、わかったよ、魏公子」
「魏嬰……!」
「ここは魔界だ! 龍族が来る場所じゃない!」

 魏無羨の命で温寧が藍忘機の脚を掴み、へし折ろうと力を入れてくる。
 勿論、藍忘機もただでやられるつもりはない。
 避塵を抜き、温寧に斬りかかったのだが、魏無羨の反撃に遭い、止むなく飛んで後退した。

「魏嬰、馬鹿な気を起こすな! 私がお前を天界へ連れ帰る!」
「連れ帰ってどうするつもりだ。天界のルールに従って、俺を磔にでもするつもりか。さすがは龍族様々だな。高慢で、自分たちだけは四海八荒、どこに現れても構わないと思っている。だが、お前たちに従う者など、この魔界にはいない! 殺されたくなければ、さっさとここから出て行け!」
「魏嬰……」

 藍忘機の表情が哀しみに変わり、そして諦めへと変わるのを、魏無羨は涙を堪えながらジッと凝視していた。

(ごめん、藍湛───、でも、江澄のことは、よろしく頼む!)

 本当は魏無羨だってこのまま天界へ連れ帰って貰いたい。
 けれども自分のしでかした罪の償いはしなければならないし、天界へ行ったところで、彼の命はどのみちないだろう。
 それならばここで、この魔界でするべきことがある。

「う、魏公子、あ、あいつのことを追った方が良い?」
「いいよ。龍族なんて放っておけば良い。それよりも温寧、お前は俺に忠実に従うんだな」

 温情もやって来て、温寧の隣に並び、こくりと頷く弟を心配そうに眺める。
 彼女には悪いが、魏無羨は温寧も自分と一緒に自滅して貰うつもりだった。

「まずやるべきことは魔界の掌握だ。温晁の野郎を玉座から引きずり下ろし、俺が魔界の王になる」
「魏無羨、あなた、自分が言っていること分かっているの? 温晁は魔尊の息子、つまりがあなたの息子なのよ? その覚悟が出来たってことでいいのね?」
「だから俺がいつあんなクソ野郎の父親になったってんだ。俺を魔尊と崇めるなら、それで結構。ただし、俺のやり方に従ってもらう。まずは温晁の奴をぶっ殺す」

 また頭痛が暴れ回ったが、魏無羨は無視をして、温寧を引き連れてまずは修行に出ることにした。
 魔尊の力を手に入れたとは言え、これまで人としか生きてこなかった。
 仙力の使い方も分かっていないし、何より、青丘を滅ぼした時の様な暴走だけは二度と起こしたくなかった。
 魏無羨が山に隠って二ヶ月後のこと。
 魔族は勢力が真っ二つに割れ、魏無羨こと魔尊を頂点に抱く側と温晁につく従来の魔族の貴族たちの間で内乱が起こっていた。
 その情報は天界にいる龍族にも伝わり、藍啓仁はこれは好都合と言い放った。

「好きなように殺し合えば良い。力を消耗してくれるのならば、こちらにとっても申し分ない」
「しかし叔父上。魔君が鮫人族の精を吸い、魔尊となったように、どちらか勝利した方が、より強大な力を手に入れるのではないでしょうか」

 藍曦臣の言うことはもっともで、集まった龍族の士族たちは特にこれと言った手立ても浮かばず、ひそひそと言葉を交わし合った。
 その一画で怒りを露わにし、唇を噛む九尾狐の生き残り、江澄が拳を握り締めていた。
 天帝の座に座る藍曦臣にもその姿は見えてはいたが、彼は今やそう易々と下に降りて声をかけられる存在ではなくなってしまった。
 皆が彼の言葉に耳を傾け、彼の言葉に従って動いてくれる。
 実際は叔父の藍啓仁の言いなりだとしても、今の藍曦臣は江澄に気安く声をかけられる立場でないのは明らかだった。

「後のことは、天帝と私で話し合う」

 藍啓仁のこの一声で、皆がわらわらと散っていった。
 江澄も仕方なく退出し、一人で藍忘機の屋敷へと向かう。
 藍忘機はこう言った会合に集まることは殆どなく、今も焼け跡しか映らない妙華鏡で魏無羨を探しているに違いなかった。

「阿澄」

 藍曦臣が彼を追って声を掛けてきた。
 彼の姿を視界に入れたものの、江澄は軽く会釈をしただけでさっさと歩きだしてしまった。
 ここに来て二月の歳月は陽気で溌剌としていた彼を陰鬱な影を引き摺った寡黙な青年へと変えていた。
 以前の江澄を垣間見たことがあるだけに、事情を知る藍曦臣の心も痛む。

「阿澄、何か不足している物があるなら、何でも言いなさい。すぐに支度をさせるから」
「何でも用意してくれますか?」
「うん。気晴らしにどこかに行くかい?」
「なら、魏無羨の首をここに持ってきてください。その願いを叶えてくれるなら、俺は生涯、あなたの手足となって働きます、沢蕪君」
「阿澄……」
「そうでないのなら、時間の無駄だ。俺に話しかけないでください」

 元々、虞紫鳶の容貌にそっくりだった江澄だから、眉間に皺を作り、強張らせた顔で冷たい視線を放つと、容姿の刺々しさだけが際立ってしまう。
 藍曦臣は溜息を吐いたが、諦めず、江澄が部屋を宛がわれている藍忘機の屋敷まで共に歩いた。

「阿澄、きみと魏公子は兄弟のようにして育った。きみのことを良く知るのは彼だったし、彼のことを良く知るのもきみだった筈だ」
「逆に聞きますが、沢蕪君なら許せますか? 目の前であなたの家族の命を奪った相手を兄弟と呼ぶことが出来ますか? 俺には到底、無理です。あいつを許すことが出来るとすれば、あいつの亡骸を火の中にぶち込んで灰に変えてやった時だけです」
「阿澄、彼を信じる気持ちを捨ててはいけない。その気持ちをなくしてしまったら、きみ自身の良心も消えてしまう」
「ならば藍忘機を魔界へ乗り込ませて、魏無羨を殺して来いと命令しろ! あんたも自分の弟があいつに殺されれば俺の気持ちが分かるだろう! 時間の無駄だと言ってるんだから、話しかけるな!」
「阿澄!」

 バタンと藍曦臣の目の前で扉が閉まり、何度か中へ声を掛けても江澄が再び顔を見せることはなかった。
 確かに藍曦臣の言葉が偽善に聞こえるのは彼にも自覚はある。
 しかし魏無羨を恨む気持ちを持ち続けたままでは、江澄自身が自分を深い恨の念へ追い込んでしまうのもまた事実だった。
 どうしたものか、と頭を悩ませる。
 時間が解決するとは言え、この場合、幾ら時間を掛けても江澄の気持ちは修復出来そうになかった。
 それこそ、本当に魏無羨の首でも持って帰らねば、彼が以前の様に笑うことはないだろうと思われた。

「阿澄、私の霊獅子に会ってみないかい?」

 江澄の部屋の窓の方へと回り、そこから中へと話し掛ける。

「きみは霊獅子を見たことがないだろう。白い毛皮の猛獣で、たてがみまで真っ白なんだ。こんな太い脚をしていてね、その爪と来たら、龍の鱗さえ剥がす」

 中から水が飛んでくる気配がした為、さっと避けると、案の定、江澄が花瓶の水を藍曦臣に向かい、ぶちまけていた。

「沢蕪君! 去れと言うのが分からないのか!」
「きみに私の自慢の霊獅子を評価してもらいたい。蓬莱山で手に入れるのにものすごく苦労したんだ」
「─────」
「すごく、可愛いよ!」

 どうやらこの「すごく可愛いよ」が江澄の関心を惹いたようだ。
 そもそも九尾狐族は動物らしい無邪気さを皆、持っていて、純真だから、その心はどこか幼児と通じるものがあるのである。

「ちょっとだけだからな」

とふてくされて出て来た江澄の手を取り、藍曦臣は自分の秘蔵のペットたちの元へ彼を案内し、色々説明してやった。
 蓬莱山で決死の覚悟で捕まえた霊獅子は、今では穏やかで従順なペットとなり、藍曦臣が与える霊芝を食べ、ごろごろと喉を鳴らしている。

「沢蕪君、これは!」
「それは[[rb:天馬 > ペガサス]]だよ。物凄い速さで空や陸や、水上も駆ける」
「空も飛べるのか?」
「うん、飛べるよ」
「でも俺たちは自分で飛べるから、別に天馬に乗らなくてもいいな」

 しかし羽根の生えた馬は江澄のお気に召した様で、鼻面を撫で、しきりに可愛がっていた。
 藍曦臣が欲しいならあげようか、と尋ねると、慌ててぶんぶんと首を横に振る。

「ここの緑は天界の緑と少し違うな」
「さすがは阿澄。実を言うと、こっそり青丘から芽を摘んで来てはここで育てているんだ。水をやらねば枯れてしまう弱い草花だが、だからこそ青丘には生の美しさがある」
「青丘の、花?」
「うん。ここに来たければいつでも自由に来て良いよ。きみにこの子たちの世話をお願いしたいのだけど、引き受けてくれるかな?」

 勿論、江澄の答えは即答だった。
 藍曦臣が植えた青丘の草花に熱心に水をやり、枯れたものは摘み、足りなくなれば藍曦臣と共に下界へ下りて草花を摘み、また天界へ植える作業を繰り返した。

「沢蕪君、サンザシ飴が売ってる!」
「サンザシ飴なんて欲しいのかい、阿澄」
「欲しい!」
「なら、そのサンザシ飴を十本ください」

 青丘の火はまだ燻り続けていた為、二人が訪れるのは専ら人間界だった。
 江澄は呑気に買い物を楽しんでいたが、藍曦臣は気を緩めず、辺りに注意を払いながら、人混みの中を江澄にはぐれないようにして進んでいた。
 人間界は魔界に近く、ここならば魔族が人になりすましていてもバレにくい為、人の皮を被って良く魔族が出没するのだ。
 彼らの地界では作物が取れにくく、それもあって、人間界にやって来てはしょっちゅう、盗みや殺人を繰り返している。

「阿澄、はぐれないように」

 サンザシ飴を買って貰ってご機嫌の江澄の腰を抱き、自分の方へと引き寄せた藍曦臣だが、何故か、江澄の怒りを買い、引っ搔かれてしまった。
 なめかけのサンザシ飴を突き出し、「俺に触るな」と江澄が威嚇して来る。
 生意気な以前の彼が戻ったようで藍曦臣はおかしくて笑ってしまった。
 不意に「きゃあ」と女の悲鳴が上がる。

「この人、化け物よ! 真っ白な顔をして気持ち悪い!」

 化け物と言われた男の姿を見た江澄の表情も一変した。
 その化け物は例の白面の男、魏無羨を東皇鐘に押し入れた温寧だったのだ。

「沢蕪君! あいつだ!」
「待ちなさい、阿澄!」

 九尾狐になった江澄が白面の男を追った為、場はますます混乱し、藍曦臣も身動きが取れなくなってしまった。
 仕方がないから龍に変貌し、空へと上がると、人々は悲鳴をあげ、逃げ惑ったり、あべこべに拝んでその場へ跪いたりと更なる大騒ぎへと発展する。
 空中から江澄を見つけると、龍の姿のままの藍曦臣は彼を掬い上げ、首に乗せたまま、白面の男を追った。
 温寧を見つけると天から雷を落として、彼に食らわせる。
 それだけでは死ななかったが、かなりのダメージを与えたようだ。
 藍曦臣の首から飛び降りた江澄が食いついて、温寧に飛び掛かり、彼を地面に転がした。
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