いつかきみに会いに行く

1.青丘に住む人間の子

 瑞々しい緑あふれる雄大な大地の上、すらりとした長身の少年が綺麗な姿勢で弓を力強く構えている。
 弦を引き絞る音が鏡の向こうからでも聞こえて来そうだった。
 狙いを定めた矢がびょうと軽快な音を立て、空を突き進み、空を横切っていた鳥を見事に仕留める。
 落下して行く鳥を見た少年は満面の笑顔になり、「よっしゃ!」と勝利の拳を天高く上げた。
 少年の名は、魏嬰。
 育ての親である狐帝から魏無羨と言う字を貰い、その名に恥じない堂々とした青年へと育った。
 何物も羨むことなく、飾ることもなく、自然体で生きている。
 花が散ることのない天界しか知らない藍忘機にとって、限りある命が奏でる生命の躍動はただただ眩しく、魏無羨と言う名のこの少年はその中でも一番輝き、彼こそが「生」そのものに見えた。
 妙華鏡を使い、何時間でも、時には寝食を忘れて何日でもあくことなく見続けることが出来る。
 魏無羨が感じている歓びや感動、風が肌を撫でていく感触や、照りつける太陽の陽射しに額から流れる汗を、魏無羨を通して藍忘機も感じることが出来る様な気がした。

(魏嬰───)

 藍忘機の声が聞こえたわけでもないのだろうが、魏無羨が空を見上げ、鏡から見下ろす藍忘機と視線を合わせたような気がした。

「忘機」

 良いところで兄の声に現実に引き戻され、藍忘機は渋々、振り返る。
 いつもの彼は冷静沈着でめったに感情を面に表すことはないのだが、幼い頃から、まるで彼の親代わりの様に何かと世話をしてくれた兄だけは別だった。
 ぷくっとむくれた顔をする弟の無邪気さに笑い、藍曦臣は歩み寄って来る。

「一体、氷のような含光君が何にそれ程ご執心なのかと思えば、ただの人間の、それも少年ではないか」

 妙華鏡の向こうでは獲物を捕まえた魏無羨が嬉しそうに後方へ獲った鳥を見せつけている。
 どうやら後方には彼の家族である江厭離と江澄の二人が同行していた様だった。

「これは」
「あの狐は駄目ですよ、兄上」

 無類の獣好きでもある兄が、子狐姿の江澄を見、身を乗り出す。
 子狐と言っても彼らは数万年は生きる霊体の中でも特に秀でた存在だから、普通の霊狐の三倍は大きい。
 姉の江厭離の腰の高さほどは体高があり、ふさふさと触り心地の良さそうな尻尾を振って、大きく伸びをしていた。

「九尾狐が居ると言うことは、これは青丘の風景か」
「兄上は魏嬰のことをお忘れですか?」
「ウェイイン? 聞いたことが」

 百年も前の話だ。
 藍曦臣が忘れていても無理はない。
 この妙華鏡は天界を創造した父君が作った法器で、天帝である兄弟の父でさえ、動かすことが出来なかった。
 藍忘機が下界を見たいと言い出した時、弟想いの兄も「協力しよう」と二人で日々、妙華鏡に通い詰めたのだが、父でさえ無理だったことを息子の彼らが二人がかりでも出来る筈もなく、藍曦臣はさっさと諦め、弟の奇行に付き合ってくれることもなくなっていた。
 それから百年間、藍忘機は単独で妙華鏡に通い詰め、そしてようやく稼働させることに成功したのだ。

「まさかあの時の少年に会いたいが為に、妙華鏡を動かす努力をしていたとは。我が弟ながら、お前の執念には本当に畏れ入る」
「兄上とて最年少で上神の試練を乗り越えたではありませんか。私より優秀です」
「忘機。私がお前の未来を予知してやろうか」
「結構です」
「そう言うな。お前は必ず、私の最年少の記録を絶対に塗り替え、最年少で上神となる。私に予知能力などないが、お前のことなら大体分かる。違うか?」

 藍忘機はそれには答えず、兄の言葉に笑ったが、勿論、そんな目論見は持っていた。
 兄は最良のライバルで、藍忘機が心から信頼し、尊敬もしている存在だ。
 だからこそ藍曦臣が四万歳で上神の試練を乗り越えたのなら、藍忘機は三万歳で達成して見せる。
 本当は今すぐにでも試練を受けたいが、能力に満たない挑戦は危険を伴う。
 二万歳の今ではまだ叔父の許可が下りず、三万歳になった時、藍啓仁の承諾得ずとも挑戦する心積もりだった。
 最低でも三万と九千年。
 絶対、兄より優れた結果を出したかった。

「しかし、忘機。一つ分からないのだが、彼があの時の少年ならおかしくないか?」
「魏嬰の年齢のことでしょうか?」
「ああ。今でもあの姿なら、あの時我々が出会った少年は人の子ではなかったと言うことか。何の仙力も感じなかったのだが、しかしあれから百年。人の子ならとうに死んでいる筈だ」
「私もそれは疑問に思いました」

 もしかしたら彼はあの時の少年の子や孫なのではと思ったこともあった。
 しかし魏無羨は江澄に向かい、確かに自分は神様に助けられたと言っていた。
 おそらく魏無羨に天界の知識などなく、兄弟の神々しい姿を見て、神様と勘違いしたのだろう。
 その話を藍曦臣に伝えたところ、彼も「うーん」と首を捻っていた。

「それにしても九尾狐の毛皮はなんと美しいのだろう。特に狐帝の息子は茶褐色の和毛で、ほら、日の当たり具合によって紫にも黒にも見える」
「ですから、兄上、あの狐は駄目だと言っているではありませんか。けして兄上の手には入りません。諦めてください」
「分かっている。でも褒めるぐらいは自由にして良いだろう」

 藍曦臣は藍忘機同様、至極、真面目で勤勉な男なのだが、こも猛獣好きな一面があり、数多の霊獣を次々と見つけて来ては自身の屋敷の中で飼っているのが困りものだった。
 白虎や朱雀、霊獅子など、一匹で万の軍隊に匹敵する力を持つ霊獣ばかりだが、肝心の闘いはもう数万年、起きていない。
 その藍曦臣がかねてより手に入れたいと思っているのが青丘の霊狐、霊狐の長たる存在で、森の主、動物たちの生命の根源でもある九尾狐だった。
 勿論、九尾狐を捕らえたりすれば、青丘の怒りを買うことになる。
 またもや天界で恐々として語られる虞紫鳶を召喚してしまうことになるのだから、到底叶わぬ望みだった。

「霊獅子一匹でも充分なのに、何故他も欲しがるのか、私には理解出来ません」
「お前があの人間の子に執念を燃やすほうが私には理解不能だよ。天界の美女に一切目もくれない、出来すぎた弟のお前が何故、あの人の子にこだわる?」
「兄上は美女がお好きなのですか?」
「わ……っ、わ、私は、単に狐が可愛くて好きなだけだ。見てみなさい、あの愛くるしい姿。無邪気で何と可愛らしい」

 藍曦臣が褒める前で、子狐姿の江澄は草原を飛び跳ねて踊り、そして一匹の蟷螂を見つけるとそれを爪で引っ搔き、追い回して、最後にはがりがりと歯で噛み殺していた。
 その様子を見ていた藍曦臣の顔が引き攣る。

「確かに。愛らしいですね。小さいのにとても獰猛だ。兄上のペットには向かないのでは」
「た、たまたまだ! あの子はまだ子狐だから、無邪気で無頓着なんだよ」
「あれはおそらく狐帝の息子、江晩吟でしょう。彼は狐としてはまだ未成熟ですが、見た目は魏嬰と変わりません。つまり魏嬰は江晩吟と同じ成長を遂げている。兄上が仰る通り、魏嬰は何者でどこから来たのでしょうか」

 藍忘機の言葉も終わらぬうちに蟷螂を噛み殺していた江澄は、ペッとそれを口から吐き出し、そしてするっとまるで衣を脱ぐかのような気軽さで、狐から人の姿へと変貌した。
 年の頃は人間で言う十六、七の少年で、見た目だけなら確かに魏無羨とそれ程変わらなく見えた。

「姉さん、阿羨が雉を仕留めたよ。行こう」
「待って、阿澄。走ったら転んでしまうわ」
「大丈夫! 転んだら、俺と魏無羨で支えてやるから。そうだろう、魏無羨」
「ああ。安心して幾らでも転がってよ、師姉!」
「もう、二人とも!」

 江澄に手を引かれる江厭離の薄桃色の衣が風に舞い、花弁の様にふわりと広がる。
 青丘にはここ天界にはない瑞々しい命があり、その生命の輝きが何の変哲もない植物たちを目映く見せていた。

「美しさなら天界に勝る場所はないが、お前が青丘に惹きつけられる理由も分かる。ここには限りある命の輝きが満ち、生命で溢れている。美とは、いずれ衰え、失われるものだからこそ、慈しみたくなるものなのだな」
「ええ」

 枯れることなく、常に花を結ぶ天界の祝福を受けた草花たち。
 その姿は下界のどの草花より完璧で美しいが、青丘に目を向けるとその美が偽りであることが良く分かる。
 花も命も、限りがあるからこそ美しい。
 出来のよいものと出来の悪いものの両方があって、初めて、美が輝きを得るのだ。
 彼ら兄弟は龍族としてはまだ若輩の身であるが、彼らの精神は既に天界の恒久的な時間に疲れ、疲弊している様に見える。
 藍曦臣は獣を飼うことで満たされない気持ちを癒し、藍忘機は限りある命を愛でることで自分の生き甲斐を求めている。
 兄弟は沈んだ気分を一掃する為に話題を変えた。

「兄上、普段、めったに立ち寄らない妙華鏡を訪れたと言うことは、何か私に用だったのでは?」
「そうだ。狐が余りに愛らしすぎて大切な用件を忘れていた。お前には朗報かもな。出掛けるぞ、忘機」
「朗報?」

 一体、どこに行こうと言うのか。
 藍曦臣から出た答えは「若水」だった。

「若水に何の用事が?」

 若水とは青丘を抜けた東の果てにある海辺の地名だ。
 藍曦臣は理由は行く途中で話すと言い、

「若水に行くには、青丘を通る。あの少年に出会えるかも知れないぞ」

と付け足した。

(若水といえば、東皇鐘か。何か変事が───?)

 青丘に立ち寄れるのは確かに好都合だが、藍曦臣が持ってきた話は手放しで歓迎出来るものではなさそうだ。
 魏無羨のことはひとまず置いておき、藍忘機は真顔に戻って、即座に避塵を手に取り、後を追った。

「兄上、もしや向かわれる先は東皇鐘なのでは?」
「うん。父上の容態が芳しくない。不穏な寝言も多いし、叔父上に様子を見て来いと言われたんだ」
[newpage]二.魔族の姫との出会い

 藍忘機が生まれる前。彼らの祖父がまだ天帝の位についていた時代のことだ。
 天族の皇太子に選ばれた青衡君は、龍族の長に相応しく、四海八荒の頂点に君臨する者に求められる技量と品格を身に着けようと猛者修行を思い立った。
 四海八荒を統べると言うことは四つの海と八つの大地。それぞれを治める様々な種族をあまねく統率し、世界の均衡を調整し、掌握していかなければならない。
 地界に棲む魔族の王、魔君と、そして八荒を治める九尾狐族の狐帝。東海、西海、南海、北海を統べる水君。
 その下にまた比翼鳥族や鮫人族、翼族と言った魔族の近親もいれば、青丘の桃園に棲息してはいるが、狐帝の配下とはなっていない鳳凰族などもいる。
 龍族と懇意な一族もあれば必ずしも好意的ではない種族もおり、世界は概ね、天族と魔族が二分する形で均衡を保っていた。
 生来、争いごとを好む好戦的な魔族が台頭しない為に、龍族の長は彼らを畏怖させるだけの力が求められる。
 兄弟の父、青衡君は、自分が皇位を継いだ暁には必ず魔族との因縁も解決し、恒常的な平和の均衡を成し遂げると強い意志
を持っていた。
 彼は生真面目で何事に置いてもお堅く考える龍族の中で異質な存在で、生まれつき明るい気質で何事にも果敢に打ち込み、善良で慈悲深く、およそ欠点など何一つないような人柄だった。
 ただ一つだけ、これは龍族全体に蔓延している心の病なのだが、四海八荒の頂点に立つ彼らは常に高慢で、青衡君もそんな一面は持っていたが、本人にその自覚はまったくなかった。
 この性格は藍曦臣、藍忘機の兄弟にも多少見受けられる傾向があり、生まれた時から天上に住み、下界を見下ろして育つ彼らが故に、致し方ないことだった 
 青丘の九尾狐族はそんな天界の龍たちには見向きもしていなかったし、彼らが高慢だろうと自分達の方が優れている自負があったし、彼らの生活に干渉さえしてこなければ他の種族のことはどうでも良かった。
 龍族のこの高慢な性格を鼻持ちならないと激昂していたのは、龍族に劣らない力を持つ地界の覇者、魔族だけで、彼らは昔から龍族の支配を良しとしていなかった。
 争いを避ける為に出来るだけ相手の領土には踏み込まない仕来りを頑なに守ってきた両族だったが、それを分かっていながら、青衡君はタブーを犯し、敢えて魔界を修行の地として選んだ。
 これは彼の挑戦だったのだ。
 魔族も龍族も共に手を取り、恒久的な平和を手に入れる。
 逆らうのであれば天族の皇子として彼らを誅し、友好を望むなら、喜んで彼らに手を差し伸べるつもりで青衡君は彼の地に足を踏み入れた。

「龍族の若造が魔界に足を踏み入れただと?」

 勿論、この判断は魔君を激しく怒らせた。
 青丘にまで揉め事が波及するのを危惧した狐帝の江楓眠も魔界で修行を始めた青衡君の元を訪れ、馬鹿な真似は止めろと諭したが、一点の曇りもなく、自身の正当性を信じていた青衡君は、敵が来れば打ち負かし、江楓眠の説得にも耳を貸さなかった。
 そんな時に出会ってしまったのだ。
 魔君の娘で魔族の姫である彼の女性は、琥珀色の瞳を持ったそれは見目麗しい女性で、青衡君は彼女を一目見るなり、心を奪われてしまった。
 乳のように白い肌を持ち、惜しげもなく艶めかしい素肌を晒す妖艶な美女は、瞑想に耽る青衡君に近付き、花の息吹で彼の思考を乱し、淫靡な笑いで性欲を掻き立てた。
 天界にも美女は多いが彼女らは貞淑を旨としている為、魔族の姫のように豊満な胸元を見せびらかす様な衣服は絶対に身に着けない。
 ましてや露わにした太腿を晒し、その腿に隠した小刀で、笑いながら青衡君に斬りかかって来るなど、天族の女性なら絶対にしないことだった。

「止めなさい、魔族の姫。か弱き[[rb:女性 > にょしょう]]と剣を競うつもりは毛頭ない」
「か弱き女性? ふうん、もしかして龍族のお坊ちゃん、あんた、私が怖いのか。だったらさっさと御母堂が待つお家に帰ったらどうだい。ここは誰の土地だと思っている。私たち、魔族の土地だよ!」

 幾度も剣を交わし、その都度、青衡君は彼女を打ち負かしたが、魔族の姫は諦めるどころか、ますます憤慨して彼に襲いかかる。
 剣の腕前は青衡君の方が上だった為、大した怪我を負うこともなかったが、彼の方はこの美しい女性を傷付けることが出来なかった。
 一向に闘う気にならない彼に激昂した彼女は、

「闘う気がなくとも、殺してくれる!」

と彼の喉元に小刀の狙いを定めたが、それでも避けるだけの彼に業を煮やし、その日は小競り合いだけで帰って行った。

「また明日も来ると良い。其方が私の存在を受け容れるまで、私は毎日、其方と剣を闘わせたい」
「ふざけるな。次は必ず、お前の命を取るぞ!」

 そして何度も戦いを繰り返すうちに、魔族の姫の青衡君への態度にも変化が表れた。
 露出の多かった服は清楚なドレスへと変わり、手には塗り薬を携え、そして無言で自分がつけた数多の傷の手当てをし始めた。
 ぽつりぽつりと会話も交わすようになり、青衡君にもこの魔族の姫が実に知性的で、情に深い女性なのか理解出来る仲へと発展していた。

「龍族の公子。あなたはそろそろ天界へお帰りになるべきです。あなたたち龍族は、魔族もあなた方に従うべきだと諭すが、そもそもあなたたちに何故従わねばならないのか、そこをあなたはまったく理解していらっしゃらない」
「其方が私の妻となれば、両族の関係は良い方へ好転するに違いない。其方もそうは思わないか?」
「私が、あなたの妻に?」

 これだから世間知らずのお坊ちゃんは、と言いたげな苦笑が彼女の口許に浮かぶ。
 ただ切れ長の美しい姫の目は、けして青衡君のことを拒んではいなかった。
 頭を振り、「やっぱり駄目です」と魔族の姫は否定する。

「あなたは魔族のこと、そして私の父のことを知らなすぎる。我々は誰にも隷属しない。父だけではなく、魔族のすべては龍族に従うことを良しとしていない」
「だとしても、私が妻にしたいと願うのは其方ただ一人だ。其方が拒んでも、私は其方を天界へ連れ帰る」
「公子……っ、何を……!」

 こうして青衡君は魔界での修行を終え、魔族の姫を妻として天界へ連れ帰った。
 しかしこの婚姻が両族の関係に火種を生み、結果、どちらの種族からも歓迎されないものになってしまった。

「よりにも寄って、魔族の姫を太子妃になんて」
「天界にも美女は数多いると言うのに、何故、淫乱な魔族の娘など妻に選ぶのか。子が出来たとしてもその子に魔族の角が生えてるやも知れないぞ」

と龍族からは非難の嵐で、娘を攫うも同然に天界へ連れ帰られてしまった魔族の王は、

「娘を返さんと天界へ乗り込むぞ!」

と怒り心頭だった。
 しかし姫の身体には既に妊娠の兆しがあり、その子が誕生した時、無数の五彩鳥が飛び、吉兆を告げた。
 常に晴れの空が広がる天界に宵闇が訪れ、星々が瞬き、彩雲も輝いて、五彩鳥が光を放ち新しい生命の誕生を祝った。
 この吉兆で魔族の姫とその子供を非難する者は天界からいなくなり、やがて青衡君が天帝の位についた。
 しかし魔族の王だけは相変わらず娘を誘拐同然に攫われたことに納得しておらず、孫の誕生さえ彼には怒りが一つ増えただけに過ぎなかった。

「其方の父上との関係を修復したいのだが、何をすれば喜ぶと思うか」

と姫に尋ねても、父親のことを良く知る彼女は「何もしないことです」としか答えなかった。
 実際、それが一番最良だったのだが、青衡君の願いは万民が平穏に、そして平等に、争い事を起こさず、暮らす世界にあった。
 何とか義理の父との関係を修復しようと彼は贈り物に自分の気持ちを綴った手紙を添えて魔界へ送ったのだが、これが悪手となった。
 孫も生まれたことだし、これからは義理の親子としてより良い関係を築いて行こうと、単にそれだけの言い分だったのだが、魔族の王に彼の誠意は通じなかった。
 ここでもまた龍族の高慢な態度が魔族の怒りを買ってしまったのである。

「これまでの所業は不問に致す、故に其方も譲歩しろだと! あの若造、どこまで人を見下し、馬鹿にするつもりだ!」

 青衡君の手紙を破り捨て、怒りを頂点まで爆発させた魔君はたった一人の娘を勘当し、親子の縁を切って、龍族に宣戦布告をした。
 天族と魔族の大きな戦が勃発し、この争いは大きな火種となって鮫人族なども巻き込んだ。
 青丘の東の海に住む鮫人族が戦に参戦したことで、それまで中立を保っていた青丘も参戦を余儀なくされてしまった。
 戦は二万年続き、その間に魔族の姫は藍忘機を生み、そして青丘にも新しい命が虞紫鳶の腹の中に息衝いていた。
 息子の安住を守る為に江楓眠の制止も聞かず、虞紫鳶も身重の体で参戦し、大いに活躍した為に、以来、彼女の名は「青丘の女狐」と知れ渡っている。
 しかしそれでも大戦はなかなか鎮まらず、泥沼と化していた。
 青丘が天族の側についたことで数での優位に立ちはしたが、形勢不利と見た魔君が味方の鮫人族を呑み込み、彼らの力を体内に取り込むことで魔尊となった。
 止む気配のない戦に自分の呵責を感じ、精神的に追い詰められていた藍曦臣、藍忘機の母は、生まれたばかりの藍忘機を藍曦臣の手に預けると、自身は仙誅台から身を投げ、人間の身に堕ちてしまった。
 その話を聞き、青衡君は戦を放り投げ、彼女の元へと駆け付けたがその時の彼女には既に魔族の姫としての記憶は微塵も残っていなかった。
 彼が話しかけてもぶつぶつと世迷い言を呟くだけの老婆に変わってしまった妻の姿を見、青衡君の精神も壊れてしまった。
 その怒りは争いの元となった魔君へと向けられ、最終的には青衡君が自身の全仙力と父君から授かった天帝としての祝福の力を使い切り、東皇鐘に魔君を封じ込めることで決着はついた。
 この頃、既に二万歳になっていた藍曦臣は周囲の反応から何となく事情を察し、そして廃人同然となった父を見、これからは自分一人で弟を守って行かねばならないと悟ったが、生まれたばかりの藍忘機は何も知らされず、九重天の奥で大事に育てられた。

「母上が亡くなった時、私は叔父に連れられ、骨となったあの人を埋葬したが、忘機には知らせずにいた方が良いだろうと叔父に言われ、我々の出生については以降、口外無用となったんだ」

 自分の体に流れる血の半分は魔族のものと知り、藍忘機はショックを受けるより、むしろこれまで疑問を抱いて来たことへ答えを貰った気がした。
 何故、天帝である父はずっと寝たきりで、一度も自分と言葉を交わしたことがないのか。
 そして同年代のどんな少年たちより優れた彼ら兄弟を見る周囲の目に、畏怖の念が入り混じっているのまか。
 藍曦臣があれ程焦り、危険を冒してでも、僅か三万歳で上神の天劫に挑戦したのも、単に力の誇示ではなく、龍族としての自分の血の正当性を証明する為だった。
 実際、彼が上神となって以来、龍族の誰もが藍曦臣が太子となることを歓び、祝福している。
 兄にそんな心の葛藤があったなんて藍忘機は露にも思わなかったし、自分はその兄を上回ってやると意気込むだけで、兄を苦しめていた事情などまったく理解していなかったことを恥じた。

「兄上、何故、何も話してくれなかったのです。私は兄上のたった一人の弟ではなかったのですか?」

 藍忘機の問いに、藍曦臣は苦笑を浮かべ、「詮無きことだ」と曖昧に答える。

「お前に真実を伝えたところで何になる。私の様に天族と魔族、両族の血を受け継いでしまった葛藤に心を悩ませるだけだ。見てご覧。真実を知る私と、これまで何ら真実を知らなかったお前。どこに違いがある。私の弟は私より秀でていて、心根も真っ直ぐで、優しい子に育った。私たちの母も生前はとても美しく、身分の隔てなく、侍女にも優しく接していたと聞いている。天族は魔族のことをふしだらで、姦淫を好む下等な存在と信じて育つが、魔族の姫である私たちの母は天界のどの美女よりも聡明で気高く、そして高潔な女性だったそうだ。常識と言う真実を歪める鏡に惑わされている大半の者の与太話など、聞いても詮ないこと。大事なのは自分の目で見、聞いたことだけを信じることだ、忘機。だからお前には私の口からは告げなかった」

 確かに藍忘機が知ったところで大して益はない。
 むしろ彼の性格なら母を追い詰めた己の父や、天界の身内に対し、激しい怒りを向けかねない。
 それだけ兄から信用がないのだと覚ったし、実際、その通り、藍忘機自身、自分の未熟さを充分に理解していたから、この件はそれ以上、何も聞かなかった。
 それよりも気になるのは父の容態だ。
 話しかけても虚ろな顔で宙を見つめる姿しか見たことがないから、殆ど父の宮殿に近寄ることもなかったが、それ程容態が悪いとは知らなかった。

「父上は、ご無事なのですか?」
「何とも言えない。今は東皇鐘を封印する為に仙力を使い果たしてしまっているから、あれを破壊しない限り、父上が目を覚ますことはないだろう。しかし、破壊すれば誰があの魔尊を再び封じ込める」
「──その、魔尊とは、それ程強大な存在なのですか?」
「魔族の形勢が不利となり、挽回する為に魔君が味方である鮫人族を滅ぼし、その精気を吸い尽くして魔尊になった。当時の鮫人族が何人いたか考えればその力がいか程かは想像に易い。父上は魔尊の封印の為に自身の仙力だけでなく、天族の長として父君から授かった恩恵のすべてを使って封じ込めている。つまり、私か、お前、どちらが父上の後を継ぎ、天帝の位についたとしても、父君からの加護は得ることが出来ないんだ。故に、我々は己の力だけを頼みに龍族の権威を維持しなければならない。やる気になったか、忘機」
「皇位継承など、微塵も興味はありません。私はただ弟として兄上を支えるだけです」
「うん。お前の誠意に素直に感謝するよ。東皇鐘の結界に緩みが出ている。まずはその調査を始めねば。若水まで急ぐぞ、忘機」
「はい」[newpage]三.覚醒


 二人が青丘の丘に辿り着いた頃、青丘では人の子の魏無羨と若い狐の江澄が特にすることもなく、ふらふらと遊び歩いていた。
 百年前、魏無羨が二人の神官に狐帝の元へ連れて来られて以来、魏無羨のやるべきことと言えば、毎日、江澄と遊び回る事だった。
 最初は高慢で気分屋な江澄の相手をすることに本気で辟易していたが、今では種族の壁を越え、兄弟以上に兄弟らしく育っている。
 それもすべて温厚な狐帝の教育方針の賜物だった。

「成す者は常になり、行う者は常に至る」

 何事もやろうとすれば出来るが、やろうとしなければ何事も達成出来ない。実践することが寛容なのだ、と狐帝は説教の度に、この言葉を二人に諭したものだった。
 色々な広義の意味に解釈出来る曖昧な言葉だが、異種族であっても、互いを信頼し、慈しめば、血は繋がらずとも兄弟になることは出来る。歩み寄らなければ距離は埋まらず、二人の心次第なのだと狐帝は言いたかったに違いない。
 魏無羨は元より人懐っこい性格であったし、おおらかで細かいことを気にしないたちだったから、細かいことや過ぎたことをいつまでもぐだぐだと気に病んでしまう江澄との相性は最良だった。

「随便、随便。江澄、お前は青丘の主の九尾狐族なんだぞ。江おじさんの後を継いだら、お前があいつらの主になるんだから。だから今日の小っさい喧嘩のことなんていつまでも引き摺るなよ。お前はいずれ皇帝になる身なんだからな。で、俺がお前の一の子分だ!」

 魏無羨のその前向きな姿勢は、常に江澄の背中を押し、彼の不安を洗い流してくれた。
 ただの人の子。
 仙力を持たない、仙界ではかたわの様な存在だとしても、剣術、弓術は誰よりも優れていたし、また聞いたことは一回で覚え、知識欲は人一倍あった。
 その反面、物忘れは激しくて、どうでも良い記憶はきれいさっぱり忘れ去ってしまう欠点もあったが、江澄の生活に魏無羨は居なくてはならない者となり、彼の姿が見えないと大騒ぎで一日中、青丘中を探し回る程だった。
 魏無羨の方も小さい頃に受けたトラウマのせいで野犬と狼が大嫌いなのだが、江澄と一緒ならその悩みも一掃出来、まったくの無問題だった 。
 青丘中で一番霊力の高い九尾狐族の、それも狐帝の息子だから、江澄にかかれば、霊力を持たない野犬や狼など道端を飛ぶ蜻蛉や昆虫を踏み潰すよりも容易い。

「またあの悪ガキ二人組がやりやがった!」
「江公子! その人間と一緒に悪戯ばかりしてると、御父上に言い付けるよ!」

 日々、青丘で騒ぎばかり起こし、二人で面白おかしく笑い合っていた。
 江楓眠に𠮟られる時も仲良く一緒に拳骨を貰い、罰として二刻の間、床に跪くのも一緒だった。

「九尾狐族は他のどんな種族よりも強いんだ。これしきのことで根をあげるかよ。人間のお前とは違うんだから」
「へえ、じゃあ、江澄。最強と言うなら、天にいる龍族とも闘えるのか? あいつらは雨を降らして、嵐や雷も呼ぶんだぞ」
「それが何だよ。母上なんか九重天に乗り込んで、仏塔や宮殿を破壊して回ったんだぞ。九尾狐族が本気を出せば、龍族なんか敵にもならない」
「あー…、[[rb:虞夫人 > あのひと]]は特別だよ。青丘の女狐に歯向かえる相手なんてどこにもいやしない。江おじさんでさえ夫人に牙を剥かれたら、なんやかんや理由つけて尻尾を巻いて逃げてるし」
「あれは戦略的逃走だよ。父上は逃げたりしない」
「あはははは! 確かに、戦略的逃走だな」
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