いつかきみに会いに行く

 これは四海八荒、様々な種族がいる世界の物語。
 世界は父君によって治められ、多種多様な神仙や妖精が存在しているが、藍忘機が生を受けたのは天界を辷ることを父君に許された龍族。彼らのことを人間界では天に棲まう者の呼び名として神族に位置付け、対する地に生きる強力な神仙のことを魔族と呼んでいた。
 魔族と神族の間に大きな相違はない。
 闘争心が激しく、性に奔放。自由気ままな生き方を好む者が魔族となり、水生の龍族は元々は湖畔で生きていたが、彼らの勤勉と篤実さに大いに感心した父君が自分の棲む天界に共に暮らす様に天の覇権を与えたのである。
 そして他には代々、仙力の強い九尾を狐帝として頂点に置く動物たちの精が暮らす青丘。特に何ら特殊な能力は持たないか弱い存在の人族がいるのだが、今回の話はその青丘で暮らす魔族の少年の話である。
 その子の名は魏無羨、本名を魏嬰と言った。

 龍族の皇族、藍家の第二公子である藍忘機はついこの間二万歳の誕生日を迎えたばかりのまだ若い神仙だったが、その高い仙力は兄の藍曦臣と共に父君の再来と呼ばれ、将来が有望視されていた。
 勤勉で真面目、寡黙過ぎる嫌いはあるが、性格は物静かでめったに言動を荒げたりしない。
 神仙としてこの世に生を受けた者は総じて美しい外見を持つが、藍の兄弟の美しさは天界のみならず、「まるで女神のようだ」と広く四海八荒にも伝わっていた。
 しかし龍族は元々が禁欲的な性格を持っている。
 藍忘機もその例に洩れず、顔の美醜などまるで頓着していなかったから、自身の美にも臈長けて神々しい神仙の生まれの女性たちにも微塵も興味が湧くことはなかった。
 ただ彼の心にずっと巣くっている病魔が一つだけあった。
 その病魔の名は「退屈」である。
 生まれて数百年の間は、藍忘機も他の子供の神仙同様に、書や音楽を見たり、聴いたりして喜んだり、涙を流していたりしたのだが、一万年を超えた辺りから無我の境地に至る様になっていた。
 天界にも一日のサイクルはあるがここでは陽が東から西へ沈むことはなく、月もまた定位置で常に西の空でうっすらとその影を見せている。
 彩色の空を望めば数え切れない星たちが煌々と宝石の様に輝いているのも見えるのだが、これもまた常に同じ位置に存在している為、百年も生きる頃には空を見上げることもなくなっていた。
 美しい色とりどりの花も、澄んだ泉を泳ぐ金色に輝く鯉も同様である。
 それらは藍忘機が生まれる前よりそこに存在し、枯れることも死ぬこともなく、永遠にそこにあり続ける。
 それに気が付いてしまった時、藍忘機の心に変化が起きた。
 この天界にも一日があり、一年があり、この先も彼は緩やかに歳を重ねて行くのだが、龍族の死の殆どは閉関である。
 生きることに飽き、死ぬことも出来ない為、自ら廟にこもり、世界との関係を断ってしまう。
 見た目だけはまだ幼かったのだが、自分もいつかそんな日が来るのだろうと藍忘機は悟った。
 自らの心に巣くう静謐が藍忘機の病名である。
 生も死も無常なもの、ならば生きるとは何の意味があるのだろうかと彼は日々、考えながら一万年を過ごして来た。
 そんなある日のこと。
 兄に散策に誘われた藍忘機はさほど興味は惹かれなかったが、兄の命ならば仕方ないと諦め、読んでいた書物を机の上に置き、久方ぶりに外の景色を眺めに出た。
 兄の藍曦臣は藍忘機と非常に良く似た容貌をしているが、彼の心に藍忘機と同じ病気が巣くうことはなかったようで、この緩慢な天界の生活にも飽きず、常に穏やかな微笑を湛えていた。

「ここ数千年、何を考えら部屋にこもってばかりいるのだ、忘機。昔のお前は私と共に良く妖獣狩りにも出掛けたものではないか」
「別に──、狩りに飽いただけです。兄上の元には既に何頭もの神獣や妖獣が居るのに、いまだに新しい獣が欲しいのですか」
「その言い方は酷いだろう。私は単に彼らが好きなだけだよ。酷使した覚えもないし。それはそうと、忘機は青丘の九尾を知っているかい?」
「青丘?」

 青丘とは数多の動物精が棲む自然豊かな森の名で、その地は狐帝の江楓眠が治めている。
 動物精は彼ら龍族に比べ、仙力は落ちるが、九尾だけは特別で尚かつ彼らは天族にも魔族にも媚びず、怯えず、けして従属することはなかった為、天族と魔族との軋轢にも常に中立を保っていた。

「今日はその青丘に行ってみよう」
「あの場所は狐族のものです。迂闊に近寄っては狐帝の機嫌を損ねるかも知れません」
「だとしても青丘の動物に危害を与えねば、温厚な狐帝は気になさらないさ。心配なのは奥方の方だけど」

 江楓眠の妻、虞紫鳶の苛烈さは天界にも伝わっている。
 一度、天族の一人が青丘の狐を傷付けた時に彼女が天界に乗り込んで来て、それはもう凄い騒ぎを巻き起こした。
 当時、藍忘機はまだ数百歳の幼さだったのだが、牙を剥いた恐ろしい形相の女の影が天界の空を覆い、普段、嵐など起こることのない天界の至る場所に竜巻を起こし、それはもう甚大な被害をもたらしたのだ。
 結局、狐帝の江楓眠が夫人を抑えに来て、平謝りしていった為、こともなく済んだが、あれ以来、龍族の間でも「青丘の狐族だけには手を出すな」とまるで教訓の様に語られている。
 だから藍忘機も青丘に行きたいと言う兄を止めたのだが、兄はまったく心配していないようで先に下界へと降りてしまった為、渋々、藍忘機も龍の姿になり、青々と緑が広がる青丘の丘へと降りて行った。

 青丘の生い茂る草叢は、天界は勿論、人間界に自生している植物たちともまるで色艶が違う。
 肥沃な大地とはまさに青丘の土地を表現する言葉で、この地に棲まうものは小さな虫たちでさえ、まるで意思を持っているかの様な知性を感じさせた。

「綺麗だね」

と朝露を纏った花弁を藍曦臣が指先で撫でると、まるで美男の彼に触れられたのが嬉しくて堪らないかのように花たちが震えて歓喜する。
 藍忘機は初めて青丘の地に足を踏み入れたが、この地の空気を胸に吸い込み、水分を豊富に含んだ瑞々しい大地の香りに満たされると、数万年、彼の口許から消えていた笑みが自然と戻って来た。
 そんな藍忘機の様子に満足したのか、藍曦臣は白い衣を朝露で濡らしながら、森の中へと入って行く。
 命の宿る動植物を傷付けるのは狐族の怒りを買うが、その動植物を傷付ける妖獣を仕留めることは感謝されこそすれ、文句を言われることはない。
 やはり藍曦臣は新しい妖獣を飼いたいのだと半ば呆れながら、藍忘機も後をついて行ったのだが、ふと子供の泣き叫ぶ声が彼らの耳に届いて来た。
 兄と顔を見合わせ、瞬時に兄の同意を得た藍忘機は声のする方へ素早く移動する。
 丘の上を小さな子供が泣きながら走り回り、その子の背中を四頭の狼が執拗に狙っていた。
 青丘で動植物を傷付ける行為は狐族の怒りを買うが、他の生物を脅かす獣についてはまた別だ。
 背中に背負った矢筒から矢を二本引き抜くと、二頭に狙いを定めて弦を引き、仕留める。
 藍忘機を追って来た藍曦臣がもう二頭を仕留め、死んだ狼たちから立ち上る気が別の何かに変異した物も、二人で天から雷を喚んで頭上に落とし、瞬時に消し去った。
 転んで怪我をしたのか、狼に襲われていた少年はぼろぼろと涙を流しながら、「痛いよ!」と泣き喚く。
 藍忘機がその子の涙を拭ってやると、少年の大きな瞳が藍忘機を見つめ、そして不意に泣き止めて、にっこりと明るい笑顔をして見せた。

「良い子だね、坊や。怪我を見せてごらん」
「…ん、大丈夫。ちょっとびっくりしただけだから」
「ちゃんと薬を塗らないと。大丈夫だから見せてごらん」

 藍曦臣の穏やかな声音に安心したのか、少年は擦り剥いた膝小僧をボロボロになった衣服をまくって見せ、兄弟の瓜二つな容姿に相変わらず目をぱちくりと瞬かせていた。

「お兄ちゃんたち、神様なの?」
「違うよ。私は藍曦臣、きみを真っ先に助けたのは弟の忘機だ。私たちは兄弟なんだ。だから顔も良く似てる」
「そう。とても綺麗なお顔だね!」

 少年の無邪気に笑う笑顔に見入ってしまい、藍忘機は兄のように彼の怪我を手当てしてやることをすっかり失念してしまっていた。
 腕の中に抱いたままだったせいか、少年がもぞもぞと藍忘機の腕の中で動き出す。

「ありがとう、お兄ちゃんたち。でも俺、食い物探さなきゃならないからもう行っても良い?」
「食べ物? きみはお腹が空いているのかい?」
「うん。さっき、やっと美味しそうな木の実を見つけたのにさ、あいつらに追われてる途中でどこかに落としちゃったんだ。またどこかで見つけないと」

 見たところ、少年はまだ十にも満たない年齢の様だった。
 こんな幼い少年を残して、彼の両親はどこへ消えてしまったのか。
 腹が空いているのでは気の毒だと、兄弟は一番近い青丘の市場へと少年を連れて行った。

「うおー、人がいっぱいいる!」
「人じゃないよ。彼らは狐族だ」
「狐族? 狐ってこと??」
「そう。尻尾や耳は見えないけどね」

 しかし中には尻尾を隠さず、ふさふさと見せつけている者もいて、少年はまん丸い目を輝かせ、しきりに感嘆の声を上げていた。
 さっきまでお腹が空いたと泣いていたのが嘘のような無邪気さだった。
 手頃な屋台で少年に麺と饅頭を買ってやり、彼がガツガツと平らげるのを二人で根気よく待ち続けた。
 その少年の食べっぷりはけして上品とは言えないが、食べ物が美味しくて堪らない、お腹が満たされるのが嬉しくてしょうがない少年の気持ちが言葉で言い表せそうなぐらい笑顔に滲み出ていて、それだけで藍忘機の心を満たしてくれた。

「きみの名は」

と藍忘機が尋ねると、少年は食べ物に噎せながら、「魏嬰」と答える。

「ご両親はどこへ?」
「二人とも死んじゃった。だから俺は一人で生きている」
「死んだ? どうして死んだ」
「魔物に襲われたんだ。でも良く覚えていない。俺の両親は俺のことだけは逃がそうと、俺をロバの背に乗せて、それでロバの尻を叩いて走らせちゃったから。後で急いで戻ったけど」

 その先は思い出すのも辛いだろう。
 藍曦臣が「もっとお食べ」と饅頭の山を少年の方へ差し出した為、魏嬰は喋るのも忘れて口いっぱいに饅頭を含み、また「えへへ」と嬉しそうに笑った。
 果たしてこの孤児の少年をどうするべきか。

「天界へ、連れ帰ります」
「それは無理だ。我々、龍族の掟は厳しく、この人間の子が暮らすには不適切だろう」
「では兄上はこの子を見捨てろと?」
「そうは言っていない。忘機、忘れたか、ここは青丘だ。あらゆる動物精が自由気ままに暮らす穏やかな土地だよ。狐帝の江楓眠ならこの子を見捨てることはないだろう」
「では狐帝に謁見すると? 我々が青丘に足を踏み入れたことが皇后に知れたら、彼女の怒りを買うのではないでしょうか」
「知れたらね」
「?」

 クスリと笑う藍曦臣に藍忘機は疑問を抱いたが、彼がこっそりと少年を狐帝の住み処のそばに置いてきたことで話が飲み込めた。
 住み処と言っても狐帝の巣穴だ。
 けして粗末な穴ではなく、岩場を削った石造りの宮殿の様な場所だった。
 眼下には湖が広がり、綺麗な蓮の花が咲き誇っている。
 この地もまた仙界の為、緩やかな時を刻んでいるが、天界と違うのはこの地には朝日が昇り、その陽が西へ沈むと夜になり、静かに大地を照らす月と夜空を飾る満天の星々を眺めることが出来る。
 星々の運河の美しさに見惚れ、空を見上げていると、背中に背負った魏嬰が嬉しそうに藍忘機の髪を引っ張った。

「ここで良い。忘機、その子をここに下ろしてやりなさい」
「はい」

 しっかりと繋がれたその少年の手を離す時は心が痛んだが、少年は藍曦臣に「あの穴の中へ行きなさい」と言われると、大人しく言われた通りに進んで行った。
 そっと物陰から様子を窺っていると、穴倉に少年が近付いたことに気が付いたのか、中から九尾の狐の子が飛び出てきて少年に襲いかかる。
 咄嗟に藍忘機は出て行きたい衝動に駆られたが藍曦臣に止められ、思い留まった。
 子狐は狐帝の息子の江澄の様で、しばらく少年に向かい、敵意を剥き出しにして呻っていたが、魏嬰に悪意はないと分かると人の姿に戻り、中へ家族を呼びに行った。
 すぐに狐帝の江楓眠が出て来て、魏嬰を抱き上げ、巣穴の奥へと連れて行く。
 これで一安心だ。
 あの少年は青丘のもっとも安全な場所で、人としての短い歳月を生き、天命を終えるだろう。

「我々も在るべき場所へ戻ろう、忘機」
「───」

 兄に促され、藍忘機も頷き、立ち上がったが、青丘に置いてきた少年のことが気懸かりでならなかった。
 天界へ戻ってからもずっと少年の安否が気に掛かり、何度か青丘へ向かうことも考えたが、また狐族の女后が天界へ乗り込む騒ぎになったらと思うとその決心もつかなかった。
 そして古い文献を読んでいて見つけたのだ。
 この天界には父君が使っていた妙華鏡なるものが残されていて、それを使えば四海八荒すべての景色が手に取る様に分かるのだと言う。
 父君しか使えない法器の為、父君が姿をお隠しになってからは誰もこの妙華鏡が残された場所に近付くことはないが、空を見上げればキラキラと輝く鏡面が屋敷からでも見て取れる為、妙華鏡の存在を知らない者はいなかった。
 ただ父君以外は誰にも扱うことが出来なかった為、忘れ去られていただけだった。
 藍忘機は早速兄の元へ行き、妙華鏡で下界を見てみたいと説明した。

「本気か?」

と驚かれたが、勿論、本気だ。
 ただ幾ら父君の血を引く皇家の出とは言え、一人では妙華鏡を扱える自信がなかったから、兄と一緒に向かうことにした。
 二人で念を送り続け、何度も失敗しながら、百年経った。
 既にあの少年はこの世に存在していないだろうと藍曦臣にも言われたが、それでも藍忘機は諦めきれずに一人でも妙華鏡へ通い、念を送る日々を過ごし続けた。
 そうしてとうとう妙華鏡を作動させることに成功したのである。

「江澄! こっち来いよ! ここにたくさん魚が泳いでる!」
「魏無羨、勝手に先へ行くなよ。本当にお前って奴は……!」

 信じがたい想いだった。
 とっくに死んだと思っていたあの少年は生きており、狐帝の息子、江澄とそう変わりない年頃の青年へと成長していた。

「魏嬰───」

 藍忘機が呼び掛けると、聞こえた筈もないのに、魏無羨が眩しそうに目を細めながら天を眺める。

「今日は本当に良い天気だな! 見ろよ、お天道様があんなに眩しいぜ」
「そりゃ太陽が眩しくない昼なんてないからな」
「江澄、お前ってさあ。そう言えばお前に話していなかったか。俺を拾って江おじさんの元へ届けてくれたのは神様で」
「どうでもいいから手を動かせよ。お前が今日はナマズを食いたいって言ったんだろうが!」
「あいよーっ!」

 魏嬰が笑い、愉快そうに喋り、水の中で江澄と戯れている姿を見ていると、藍忘機の目から自然と涙が溢れてしまった。
 彼の心に自分も生きている、そんな実感を魏無羨の笑顔がもたらしてくれた。

「魏嬰───」

 あの小さかった手を握り締めたい。
 鏡面に向かい、手を伸ばしたが、藍忘機の手に触れたのは妙華鏡の冷たい感触だけだった。
 それにしてもただの人の子が何故、百年もの間、老いることもなく、生き続けているのか。
 彼との再会が嬉しすぎてそのことに藍忘機が疑問を抱いたのはそれから十日後のことだった。
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