夢中の蝶は何を想う

──最初にお詫び──
 まず一つは[[rb:宣姫 > シュエンジー]]が殺した数。
 正しくは100年で200人でした。
 そして1の本文中で謝憐が江澄を見て明光殿がどうとか言いましたが、これも間違えで[[rb:玄真 > シュエンジェン]]将軍の[[rb:慕情 > ムーチン]]です。
 アニメの[[rb:裵宿 > ペイシュウ]]/[[rb:阿昭 > アーチャオ]]との区別がまったくついていませんでした(´`:)
 [[rb:扶遥 > フーヤオ]]は明光殿から来た神官なのに裵宿を悪く言うなんて変だなあと思ってたのです(汗
 良く見たらちゃんと玄真殿って言ってるのに
 申し訳ない……[newpage] [[rb:三郎 > サンラン]]、[[rb:三郎 > サンラン]]と後ろから呼び掛ける声がする。
 考え事をしていても、それが自分への呼び掛けでなくとも、三郎にとってその声は何を於いても興味を惹かれる、愛しい者の声だった。
 すぐに笑顔を作り、「なあに、兄さん」と振り返る。
 わざわざ作らずとも謝憐の存在はそれだけで彼に歓びをもたらす。
 少し眉根を寄せ、困ったような顔をしている彼を抱き締めたくてなるが、謝憐の穢れのなさは、同時に自分の姿を映し出す鏡でもある。
 歓びと躊躇い、そして自己憐憫をもたらすもの。
 それが三郎にとっての謝憐だった。
「どうかした、太子殿下?」
 こちらに伸びてくると思われた手が三郎の背後に回り、後ろで腕を組むのを謝憐はジッと見つめていた。
 彼の顔には屈託のない笑みが浮かんでいて、謝憐に触れようとして躊躇った様子など見られない。
 謝憐は三郎に触れたければ触れるし、彼を咎めもしないのに、何故、三郎は自分に遠慮があるのか彼はまったく分からなかった。
 だって彼の物言いは時に謝憐を揶揄い、優しい声音の奥に隠しきれない高慢さを滲ませた、およそ躊躇いとは無縁の人物だと思っているのに、ふとこうした簡単に壊れてしまいそうな表情を見せるから、謝憐も三郎が分からなくなる。
 とりあえず三郎の複雑な心は置いておき、目の前の疑問に取りかかる。
「その呼び方は止めてくれって言ってるだろう。だったら私もきみを花城と呼ぶぞ」
「ごめん、ごめん。続けて」
「さっきから気になっているんだ」
「ふうん? 何が兄さんを悩ませているの?」
 謝憐が気に掛かっているもの。
 それは先程見た宣姫の存在だ。
 彼女が鬼花婿として人間界で花嫁を誘拐し、騒ぎを起していた時、謝憐が鬼花婿の正体を明かし、明光将軍の孫、裵宿に引き渡している。
 宣姫は明光将軍の裴茗とかつて深い仲にあり、彼にいとも簡単に捨てられたことを恨みに思い、鬼と化して、幸せそうな花嫁を拐かし、呪い殺していたのだ。
「そのシュエンジーと言う鬼を僕は知らないけれど」
「本当に知らないのかい?」
「うん。ごめんね。興味ない」
「そうか」
 三郎は血雨探花。絶の鬼の中でも彼に匹敵する力を持つ鬼はいない、鬼界の王だ。
 そんな彼が興味を惹かれるとすれば同じ絶の位を持つ同等の鬼だろうし、天界の神官たちのことさえその殆どを本気でどうでもいいと思っているに違いない。
 宣姫を従えていた青鬼[[rb:威容 > チーロン]]でさえ、花城の影を見ただけで怯えて逃げ出すぐらいなのだから。
「きみが花嫁に扮した私を救いに来てくれた時。あの時、私は鬼花婿の調査をしていた」
「ああ。そうだったね。でもあれはたまたま兄さんがそこにいることに気が付いただけだけど」
 三郎の言葉はどこからどこまでが本当で嘘なのか不明だ。
 謝憐は彼らの出会いはもっとずっと前。
 太子殿下として信者を多く抱え、彼が神として尊ばれていた頃まで遡ることをまだ知らない。
 謝憐にその頃のことに気付いていないのを残念と思うべきなのか。それとも自身の正体が明かされず、安堵するべきなのか。
 三郎にはどちらとも言えない葛藤があった。
「三郎、きみが死霊蝶を使い、私を宣姫の元まで案内してくれた」
「あれは僕の分身ではあるけれど、必ずしも僕の意志で動いているとは言えない時もある。それで兄さんの疑問と言うのは、その宣姫と言う鬼を天界へ送った筈なのに、何故、また今度は鬼界に現れたってこと?」
「ああ。宣姫は明光将軍、裴茗を恨み続けている。彼女の魂魄がある限り、裴茗を恨み続けることは止めないだろう」
「明光殿を受け継いだ裵宿が放逐されたせいで逃げ出したんじゃなくて?」
「だから、裵宿が左遷させられても、裴茗が自分の不名誉の元である宣姫を自由にする筈がないんだ。でも私が見たのは間違いなく宣姫だった」
「ひょっとして兄さんは僕を疑ってるの? 宣姫を天界から攫い、鬼界に置いたと?」
「それも考えた」
「でも今は違うんだ」
「三郎が彼女を知らないと言うのなら、きみは本当に関心がないのだろう」
「そうだね」
と呆れた時の癖で、三郎は両手を天に向け、ひょいと肩を竦める。
「僕は誰よりも兄さんに誠実だ。兄さんに嘘をつく筈がない」
「じゃあ、さっきの宣姫は、幻影?」
「どうだろう」
 三郎は何かを嗅ぎ取っているようで、ふふふ、と口元で笑う。
 一瞬、彼の素顔が見えた様な気がしたが、三郎が謝憐に向かって手を差し伸べた為、謝憐は迷うことなくその手に手を重ねた。

 神官と鬼の王が肩を並べて歩く間、江澄はずっと警戒を怠らない目で花城を監視することを止めなかった。
 彼らから少し距離を取り、江澄と藍曦臣は不気味な鬼界の道を歩んで行く。
 一見すると何の変哲もない、ただの森だが、暗闇に幾つもの目が光り、薄気味悪い笑い声を立てている。
 花城が彼らの先導を取っていなければ、今頃、江澄と藍曦臣は鬼たちに囲まれていただろう。
「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ、阿澄」
 張り詰めた江澄の緊張を感じ取ったのか、藍曦臣がくすりと笑う。
 先程、魏無羨の笛で元神を傷付けられたわりに、顔色は大分、回復したようだ。
 彼の微笑で緊張が解れたのか、江澄もいつものムッとした表情に戻る。
「沢蕪君、あいつらが信用出来ると思うか?」
 あいつら──、主に花城だ。
 江澄らが仙力を持たない普通の人間ならば、多分、三郎を見ても綺麗な顔をした物腰の柔らかい少年だとしか思わなかった筈だ。
 しかし仙力を持ち、人よりは神官に近い修士の彼らは、あの柔和な笑顔の下に三郎が潜ませている闇の力を嫌でも嗅ぎ取っていた。
 魏無羨が決起大会で陰虎符を開放し、その場にいた各世家の修士たちを虐殺をし始めた、あの夜に感じた臓腑が締め付けられる畏怖や嫌悪とまったく同じものだ。
 三郎の背を睨みつける江澄の手を取り、藍曦臣はぽんと軽く彼の手の甲を叩く。
 彼の存在は不思議なもので、藍曦臣の身振りや手振りは容易に江澄の気持ちを鎮めてくれた。
「今は彼らを信用するしかない。忘機と魏公子を探さねば」
「そうだけど」
 俺はこの人を守れるだろうか。
 江澄はそのことが気懸かりでならないのだ。
 藍曦臣の修位はけして低くない。
 魏無羨の金丹を受け継いだ江澄とて同じだ。
 しかし二人が力を合わせても、あの花城に一太刀でも浴びせられるかどうか───。
 彼の恐怖を感じ取ったのか、中指に嵌めた紫電が稲光を光らせ、三郎が彼らを振り返り、フッと嗤いを洩らした。
「これから行く先を教えてあげるよ」
 そう彼は言う。
 どうやらこれから鬼界の鬼市が開かれるらしい。
「鬼市?」
 市と言うからにはたくさんの鬼が集まるだろう。
 藍曦臣と顔を見合わせ、ますます江澄は警戒を強める。
「そこに行けば藍忘機がいるのか?」
「いるかどうかは分からない。誰か、別の鬼に捕らえられていれば、彼の死体はそこにあるかも」
 江澄の手に重ねられた藍曦臣の手が強く彼の手を握り締める。
 口元の笑みは消えてはいなかったが、藍忘機の死体と言われ、確実に気分を害したようだ。
 笑みを浮かべはしても、目には珍しく怒りが燃えている。
 三郎にもそれが見えたのだろう。
 例えばの話だよ、と茶化して、謝憐にまた「三郎!」と𠮟られている。
「お前たちまで守る気もないから、出来れば僕から離れず、歩くべきだ。僕のそばにいれば、誰も襲って来ない。面倒は避けたいだろう?」
 確かに。
 江澄と藍曦臣は頷き、不承不承、謝憐たちと距離を詰める。
 江澄の指先で稲光を発している紫電に興味を惹かれた様で、三郎はしきりに紫電の由来について聞いて来た。
「その指輪からは特別な力を感じる。人に持たせるにはもったいない神器だね」
 それもその筈。
 紫電は奪捨で奪った者の正体さえ暴くし、剣を通さない堅い鬼の肌でさえ、一撃で粉砕する威力を持つ。
 虞家に伝わる法器だが、彼女亡き今、紫電は江澄のみを持ち主と認め、三郎の視線をも拒んでピリピリと赤紫色の光りを放っていた。
「おかしなことをすれば、紫電でお前の正体を暴いてやる」
「うん。大丈夫。兄さんがきみたちを殺せと言わなければ、僕がきみたちを傷付けることはないよ」
「三郎!」
 やがて歩み続ける彼らの視線の先に、街の明るい光が見え始めた。[newpage] 喧噪。野卑な叫び声。
 周囲の物音を聞くだけで、ここに集う連中がまともな思考回路を持たないことが手に取る様に分かる。
 花城の元を逃げ果せた藍忘機だったが、幾らも進まないうちに、彼は無数に湧いてくる鬼にたかられ、身動きを封じられて囚われの身になっていた。
 麻袋に詰められ、長い間運ばれてやっと地面に下ろされた場所がこの耳を劈く喚き声に満ちた狂瀾の場だった。
「どこからか人間のにおいがする!」
「本当だ! 血のにおいだ! 食わせろ!」
と叫ぶ彼らの前に姿を現せば幾ら藍忘機の身のこなしと太刀筋があろうと逃げるのは至難の業だろう。
 とりあえず彼を麻袋に詰めた鬼はそれなりに力もあるらしく、誰もこの鬼から藍忘機を奪おうとはしなかったのが幸いだった。
「知ってるかい、新しい鬼王が現れたんだってさ」
「新しい鬼王?!」
 鬼の世界でもこうした世間話と言うものが存在する様で、人間の習性とさほど変わりないのがおかしかった。
(とは言え、鬼も元を辿れば人の魂が転じたもの──)
 それならば人間同様に噂話もするし、その話が誰かの不幸や揉め事に発展しそうなことなら、一層、愉しんで燥ぎたてるだろう。
 どうやら鬼王は花城と言い、彼の高慢さに我慢ならない鬼も少なからずいるようだった。
 施政者はいつの時代でも民から疎まれるものなのだ。
 それ故に、姑蘇藍氏では、高慢、驕りを悪とし、清貧を旨とすることを幼少期から叩き込まれるが、藍忘機らの叔父の藍啓仁とて、彼が愛する貴重な書物や雅な湯呑み茶碗には目がないのだから。
 本当に欲を律することなど、どんな賢人でも難しいことだと、藍忘機は自分が置かれた状況も忘れて笑ってしまう。
 そう言う彼とて、十七年間、ずっと欲とは無縁の生活を続けて来たのに、魏無羨と言うたった一人の男の為に、彼の長年の修行も無に帰してしまった。
 今は何よりも魏無羨が愛おしいし、彼が世界を敵に回すのなら、藍忘機も辞さず、協力を進み出るだろう。
 彼の為ならば例え肉親であろうと手に掛けるだろうし、世間が藍忘機に与えた高潔、高徳の士などと言う賛辞はお笑いぐさでしかない。
 ありがたいことに魏無羨は悪事を良しとしないし、彼が体を張るのはせいぜい天子笑を手に入れることぐらいだから、藍忘機も悪事に荷担せずに済んでいる。
 しかし藍忘機の頭にあるのは、常に、一糸まとわぬ魏無羨の淫靡な姿だし、彼が達する時にのみ聞くことの出来る甘い愉悦の声だ。
 いついかなる時でも魏無羨を[[rb:腕 > かいな]]に抱いて、彼を喘がせ、藍忘機の身体にしがみつかせていたい。
 彼の肌を吸い、体液を飲み干して、そして自分の精が尽きる程、魏無羨のあの細い腰に注ぎ込みたい。
「藍湛、許して──、も…う、無理だって……、尻が壊れちゃうよ」
と懇願の声を上げる魏無羨など、魏無羨本人も知る由もないし、藍忘機だけがこの世で見ることが出来る特別な彼だ。
(早くきみを助けねば──)
 脳裏に浮かんだ不埒な考えを消し去り、藍忘機は昂ぶった精神を落ち着かせる。
 どうやらこの地は人の邪気を好むらしく、考えたくなくとも思考を不埒な方向へ勝手に持って行ってしまう空気が満ちているようだ。
 藍忘機は何よりも魏無羨を愛しているし、常に彼を抱きたいと考えているが、それでも普段は自制し、魏無羨の裸体は思考の奥深くにしまって表には出ない様、苦慮している。
 その彼の努力もどうやらこの地では無効のようで、また淫靡な姿の魏無羨が藍忘機に向かってにっこりと微笑みかけていた。
 露わな肢体を覗かせ、脚を広げ、「俺が欲しくないのか、藍湛」と自分のものに手を添え、指で蕾も押し広げ、紅い粘膜を見せつける。
 魏無羨が藍忘機を揶揄う時にする仕草で、藍忘機が興味のない振りを装っていると、魏無羨の自慰行為は更に深く、ねっとりしたものに変わり、大体、我慢しきれなくなった藍忘機が彼に襲いかかって、魏無羨の喉から愉しげな笑い声が洩れる。
(止めるんだ、藍忘機──。魏嬰を救うことだけを考えろ)
 このままでは魏無羨の幻影から逃れることが出来ない。
 止むなく、藍忘機は指先を唇に当てると、血が出るほど強く肉を噛みきった。
 痛みで幻影を鎮めるつもりだったが、これが悪手だった。
 途端に藍忘機が入れられた麻袋に鬼が群がり、彼の血肉を巡って、鬼たちが取っ組み合いの喧嘩を始める。
 右に左にと麻袋を放り投げられるうちに、藍忘機の身体は袋から外に飛び出してしまい、彼は真っ向から鬼たちと対峙する羽目に陥った。
「人間がいるぞ! 人間の肉がそこにあるぞ!」
 自分のものだ、いや、俺が食うと、更に争いが激化する。
 藍忘機は避塵を抜き、襲いかかって来る鬼の手を容赦なく薙ぎ払った。
 跳躍し、鬼の頭上をまるで池を渡るように軽やかに跳ねて行ったが、脚を掴まれ、地面に振り落とされる。
「美人な姉ちゃんだな! 俺のものを突っ込んでから美味しく頂いてやる!」
「俺のものだって言ってんのに、手を出すんじゃねえ!」
 襲いかかる鬼の首を一太刀で斬り、右方から迫る腕も叩き斬る。
 じりじりと逃げ場を失い、避塵を構え、周囲を睨め付ける藍忘機の前で、突如として鬼の一団の首が一瞬で吹き飛んだ。
 くるくると弧を描いて戻ってくる湾刀は再び、群がる鬼の首を幾つも薙ぎ払い、そして再び軌道を修正して戻ってくる。
 その湾刀は藍忘機も見覚えがあった。
「お、鬼王だー!」
と散り散りに叫んであれだけいた鬼たちが一瞬で消え去っていた。
 藍忘機の視線の先に、一番出会いたくない相手、花城がいる筈だったが、そこに立っていたのは花城ではなく、美しく、柔和な顔をした少年だった。
「やあ、また会ったね」
と少年は首を傾げ、笑ったが、藍忘機はもはや逃げられまいと覚悟を決め、避塵を今一度構え直す。
 その彼の表情が緩んだのは、藍忘機がこの世でたった一人、全信頼を寄せられる相手、彼の一番の理解者の藍曦臣の姿を見たせいだった。
「忘機!」
「兄上……!」
 駆け寄ってくる兄の手を取り、気力が尽きた藍忘機は藍曦臣の腕の中で蹌踉めく。
「無事で良かった、忘機! いや、怪我をしているな」
「これは、自分でつけたものです。私なら大丈夫です。それより兄上、魏嬰は?」
 兄の目を見上げ、真っ直ぐに藍忘機はそう尋ねたが、藍曦臣らも今この鬼市に着いたばかりで魏無羨の情報は何も掴めていなかった。
 そんなことより───。
「兄上、この者は──」
「ん?」
 謝憐の隣でぼんやりと立つ三郎に向け、藍忘機は避塵を掲げて警戒する。
 先に出会った眼帯男とは見た目は違うが、感じる邪気は同じものだった。
 藍忘機の敵意に気が付いた謝憐が慌てて間に入って仲裁する。
「まあまあ、とりあえず我々はきみの敵じゃない。私は謝憐。そして彼は三郎だ。魏殿ときみを探すため、きみのお兄さんとそこの江殿を連れてここまで案内してくれたのが三郎だ」
「───」
 しかしあの奇怪な森で藍忘機を襲ったのも彼だろう。
 姿は違えど、湾刀は見間違えようがない。
「この者は、私を殺すつもりでした」
「殺しはしない。珍しい蝶々が舞い込んだから、ちょっと捕まえてみるつもりだったんだ。でも、兄さんの知人なら、もう攻撃しないよ」
「うん。三郎はきみのことを知らなかったから、攻撃しただけで、彼に悪意はないんだ」
 剣を向けられて悪意がないと言われても。
 言った相手がのんびりした謝憐じゃなければ怒鳴りつけてやりたいところだが、藍曦臣が藍忘機を宥め、そして江澄も止むなしと肩を竦めた。
 お人好しの藍曦臣はともかく、疑り深い江澄も彼らを信用し、行動を共にしているのなら大丈夫だろうと藍忘機もようやく避塵を鞘に戻す。
 それを見た藍曦臣はようやく安堵の溜息を洩らし、ここに来るまでに魏無羨を見たことと、彼の陳情が鬼界の邪気に反応し、魏無羨を抱き込んでしまったことまでを告げた。
「陳情が?」
「ああ。あの時の魏無羨は、昔の奴に戻ってしまった様だった」
「昔のとは──」
 藍忘機は江澄に質問を投げかけたが、彼が答えずともその先は分かっていた。
 そして藍忘機が先程麻袋の中で聞いたあの噂話──。
「鬼たちは、新しい鬼の王がやって来たと」
「新しい、鬼の王?」
 謝憐の目が三郎を追い、彼の笑顔を見てその先を躊躇う。
「どうしたの、兄さん?」
「いや……。ひょっとして、その新しい王って、きみたちが探している魏殿では?」
 誰もそれには返事をしなかったが、おそらくそうだろうと皆が思っていた。
 三郎ただ一人が無関係だと言いたげに口元に微笑を湛えている。
「どうやら僕の頭を挿げ替えたいものが後ろにいるらしいね。どうしたものかな、兄さん」
「どうって、逆に聞きたいよ、三郎。きみはどうするつもりなんだ」
「そりゃ、挑戦されたら、受けなきゃならない。その魏と言う彼を僕が殺しても良い?」
「三郎……」
「そっちの三人は不服そうだ」
 当たり前だ、と江澄が舌打ちし、藍忘機は再び避塵を握り締めた。
 藍曦臣は二人を宥め、そして謝憐に助けを求める。
「謝殿。魏公子は巻き込まれただけです。過去はどうあれ、彼は悪事に加担する様な男ではない。陳情を手に入れた経緯も、彼が陥れられただけで、自分の身を守るために止むなく取った選択だった」
 勿論、謝憐とてはなから魏無羨を三郎に殺させる気などない。
 三郎の腕を掴み、彼がそれを避けようと、無理やり掴んで、自分の瞳を見るように引っ張った。
「三郎、魏殿を助けるんだ。いいね?」
「兄さんは僕のことはどうなってもいいの? 鬼王花城が鬼の王の座を奪われても?」
「そうは言っていない。魏殿は鬼界の者ではないんだ。元いた世界に戻してあげよう」
「兄さんの頼みなら何でも聞いてあげる。僕の命だってあげても構わない。だから鬼の王の座なんて進んで兄さんにあげるけど、兄さんが僕よりその魏と言う者を気に懸けているのが気に入らない」
「そうじゃないよ、三郎!」
 しかし三郎は謝憐が手を伸ばすより早く、銀の蝶に変わって姿を消してしまっていた。
 三郎がいなくなってしまった今、この場に留まっていては彼らが幾ら修位に優れていても無尽蔵に湧く鬼たちに捕らえられ、殺されてしまう。
「三郎の後をすぐに追おう。こっちだ、ついて来て!」
 三人も謝憐の言うとおりにするしかないから、鬼が群れる市の合間を潜り抜け、花城が管理する賭博へと向かって行った。
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