夢中の蝶は何を想う

 花城が放つ剣は持ち主の手を離れてもまるで剣自体に意志が宿ったかのように自在に動く。
 それも縦や斜め、直線や弧を描いたりと奔放過ぎて、藍忘機は目で追い、避けるのが精一杯だった。
 その上、足場が血溜まりで滑り、木の根や転がった死体などに幾度も躓き掛けた。
 藍忘機の腕でなければとっくに斬り殺されていただろう。
 とは言え、彼もここまで屈辱的な勝負をしたのは生まれて初めてで、藍忘機の白い頬は怒りで上気し、薄桃色に色付いていた。
 藍忘機の身のこなしの素早さは、鬼王をそれなりに愉しませたようで、本当にぎりぎりのところを攻めてくる。
 薄皮一枚、衣に裂き傷をつけるだけで、湾刀はまた弧を描き、離れて行く。
 まるでいたいけな猫をいたぶって殺すような彼のやり方に本当に腹が立った。
 やむなく、
「待て」
とようやく声を発す。
 これ以上逃げ続けてもそのうち体力が尽きてしまうし、藍忘機は彼の命懸けの遊びに付き合う気は毛頭ない。
 魏無羨を助けねばならないのだ。
 彼の制止に花城は陽気に首を傾げ、両手を天に向けて肩を竦めて見せる。
 ますます屈辱を覚えたが、今は我慢するよりない。
「貴殿の名は?」
「俺に名を尋ねて生きている者はいない。ついでに教えてやると、質問をする権利もない」
 何と傲慢な男か。
 そう思ったが、姑蘇藍氏の平常心を思い出し、藍忘機は一息吐いた。
「私の名は藍忘機。訳あって止むなくこの地に足を踏み入れた。貴殿と敵対するつもりはない。人を助けに行かねばならないのだ。どうか攻撃を止めて欲しい」
「それはつまり逃がして欲しいと? 面白いね。ならばもう少し俺と遊んでくれるかい? 暇なんだ」
「……っ!」
 やぶ蛇だ。
 こうなったら、と藍忘機は地面に避塵を突き刺し、袖の中にしまった錦嚢から、忘機琴を取り出した。
 特に琴が珍しい訳でもないのだろうが、姑蘇藍氏の秘儀弦殺術を知らない花城は何の演し物が始まるのかと嬉々として眺めている。
 姑蘇藍氏の秘術。
 琴による弦殺術は他の雅楽器と違い、殺すことを第一の目的とした姑蘇藍氏にしては珍しい殺傷能力の高い武器だ。
 藍曦臣が得意とする簫は、鎮め、治めることを目的としているが、開祖藍安が生み出し、藍翼が殺傷力を強めた琴は、姑蘇藍氏の中でも実力があり、尚かつ、強靱な自制心を保てる者だけが学ぶことを許される。
 そうでなければただの殺人道具と化してしまうからだ。
 中でも藍翼から直接受け継いだ一品神器忘機琴の破壊力は他の琴の比ではない。
 藍忘機は指先が白くなるほど自分の気を一点に集中させると、勢い良く弦を弾いた。
 忘機琴から発せられた音は青白く輝く光のさざ波となって花城を狙う。
 これだけの念を込めて放たれた気を一身に受ければ、並みの人間なら肉片に変わるし、波状的な攻撃を躱すのは至難の業でもあるのだが、花城は当然、並みの人間ではないから、避けることもなく藍忘機の放った衝撃波を片手で受け止め、そして笑って握り潰した。
 可憐でか弱く、珍しいこの虫をどうやって殺してやろうか。
 花城が嗤いながら、目の前に置いた拳を脇に寄せ、藍忘機がいたところを再び見た時、そこに既に彼の姿はなかった。
 ただ黄色く輝く呪で描かれた蝶の群れが舞っているだけだった。
「はっ、逃げたのか? 藍の公子」
 藍忘機は次男だから藍二公子なのだが、花城がそんなことまで知る筈もない。
 それよりこんな子供騙しの術に引っかかったことが新鮮で面白く、込み上げる笑いが止まらなかった。
 藍忘機が放った蝶を素手で握り潰し、玩具が去ってしまったことを残念がった花城だがすぐに藍忘機のことなど忘れてしまった。
 鬼王は暇とは言え、そこまでただの人間に執着は見せないものなのだ。

 あわよく、花城の目を逃れた藍忘機は、跳躍を続け、地を駆け抜ける。
 御剣で飛ぶことは考えなかった。
 空では万が一、またあの人ならざる者に見つかった時、防御が鈍ってしまう。
 途中、何体も鬼が彼に向かい、爪や牙を剥いてきたがそれらは藍忘機の敵ではないからすべて斬り殺し、大量に湧いた鬼どもは忘機琴で一掃した。
(あの男────っ)
 藍忘機の生涯でこれ程屈辱を覚えたことは早々ないだろう。
 最初の一回は魏無羨だ。
 彼の読んでいた本に春画を隠し、狼狽えた藍忘機を歌は笑い、揶揄った。
 あの時に等しい羞恥心が身の内から湧き上がる。
 あの頃はまだうら若い少年だったからすぐに屈辱を忘れることが出来たが、今の彼にとってさっき受けた屈辱は死にも等しいものだった。
 先程の無力感を思うと唇を噛みたくなるが、何はともあれ、魏無羨だ。
 彼を見つけ、無事に送り届けた後に、あの男と再度決着をつける。
 藍忘機の目は激しい怒りに燃えていたが、この時の彼は戦った相手が負けても仕方ない相手なのだとまったく気付いていなかった。
 それにしても──。

 藍忘機のことを忘れ、歩き出した花城だったが、ふと彼が着ていた白の胴衣がある存在を思い出させることに気が付いた。
 あの少年──藍忘機は既に四十に近い年齢だったが、数百年生きる花城にしてみれば赤児も同然だ。
 藍忘機と名乗った彼の穢れのない魂と、体から漂う白檀の香りは、花城がずっと心に留めているとある人物と重なった。
 高貴で高潔で、純真な魂の持ち主。
 仙楽太子、謝憐は、どことなくさっきの少年に面影が似ていた。
 鬼界に人が紛れ込むのはけして珍しいことではない。
 陽の気が入り込んだことは、きっと外の鬼も気が付いただろうし、話しでなくとも別の鬼が彼を殺しに行くだろう。
 ここ、鬼界は邪気に充ちている。
 人が長居をすれば、わざわざ手を掛けずとも、邪気に染まり、やがて鬼に変ずる。
(あの白い衣が穢れるのか)
 そう心の片隅で思いはしたが、たかが人間一人。
 鬼王花城にはどうでも良いことだ。
 ただ、彼が誰かを彷彿とさせなければ。
「───面倒な」
 立ち去ろうとした花城だったが、やはり気懸かりになった。
 白く穢れなき者が闇に染まり、地に堕ちるのは、かつての謝憐をそこに見るようで、どうにも我慢ならなかったのだ。

 そして、魏無羨の意識もぼんやりと戻りつつあった。
 見慣れぬ地で目覚め、そして自分が置かれた状況に戸惑っていた。
 どうやらここは廟のようだ。
 しかし先程まで藍忘機たちと一緒にいた廟とは少し趣が違う。あの廟に祀られていたのは仙楽太子と言う聞き慣れない神様だったが、目の前にある像は太子像より一回り大きく、厳つい男神だった。
 突然ズキリと頭が痛む。
 多分落ちた拍子に頭を打ってしまったのだろう。
 痛む患部を撫でようとして、魏無羨は気付いてしまった。
 髪の結い方がいつもの結び方と違う。
 それどころか、今まで彼が結ったこともない髪型で、しかもかんざしまで挿していた。
 鏡がないから確かめようがないが、細やかな鎖が揺れる彫りも繊細なこのかんざしは女性のものだろう。
 赤い蠟燭が灯る暗い室内の中、目を凝らして自分の両腕を見下ろして見た。
 暗がりでもはっきりと判る。
 赤く染められた、豪奢な刺繍が施された絹の衣装は見紛うことなく花嫁の衣装だ。
 一度しかこの目で見たことはなかったが、彼の師姉が嫁ぐ時に、魏無羨の前でひらりと回って見せてくれた。
 薄くて軽やかで、まるで天女の様な──。
 絹で作られたそれは間違いなく、正真正銘の花嫁衣装だった。
「どうなってんだ?」
 なんで花婿じゃなく、花嫁なんだよとも思ったが、問題はそこじゃない。
 意識がはっきりしてくると、辺りを漂う、ただならぬ臭気にも気付いてしまった。
 噎せるほど強く漂っている香と、そして肉の腐ったの臭い。
 腐臭が酷すぎて耐えられなくなった魏無羨は少ない金丹を使い、鼻が臭気を感じ取れない様にした。
 莫玄羽の身体はけして修位が高くない。
 魏無羨が日々、鍛錬に励んでいるおかげで当初より強くはなったが、それでも藍忘機に守ってもらわねば自分の身も守れないから、無理は禁物だった。
(ずっと藍湛に頼りっきりだったからな。サボったツケをここで一気に回収されそうだ)
 それでもこの状況で、にやりと不敵に笑う。
 どんな事態でも楽観的でけして落ち込まないのが魏無羨だ。
 さて────。
「一体、二体、つか数えるのも面倒だな。八対が二列でそして一体余りってことは十七体の花嫁か」
 彼女たちは明らかに生きていない。
 腐臭は彼女たちの身体から放たれていた。
 可哀相に、これから花婿の元へ無事、辿り着けたとしてもおそらく、面紗を取る前に「死体はお断り」と実家に返されてしまうだろう。
「俺も藍湛と結婚式を挙げてないからな。と言うか、俺たちも結婚式を挙げるべきなのか?」
 花婿と花婿で手を取り合って、女媧様にお祈りしても、女媧様は快く受け入れてくれるのだろうか。
「ん?」
 辺りに漂う邪気に反応したのか、腰に差していた陳情が小刻みに震える。
 何故、震えるのか疑問に思う前に、魏無羨は陳情が手許にあったことに喜びを見い出した。
 陳情さえあれば莫玄羽のひ弱な体で弱々しい体術に頼らなくても、この場に充ちた邪気を利用し、死鬼を呼んで操ることが出来る。
 何よりご都合主義的に、既に利用出来る花嫁の死体が十七体いる。
「この魏羨羨も含めて十八体よ!」
 暗がりの中でばっと花嫁衣装の裾を翻し、決めて見たが、勿論、観衆などどこにもいない。
 せめて江澄がいれば「死ねよ馬鹿」と突っ込んでくれるのに、魏無羨の目の前の死体たちは黙りを決め込んでいた。

「さて、お嬢さん方。きみたちもいつまでも死体の姿でこんなところで固まっていたくないだろう? 俺もそうなんだ。ここに留まっていたら、また身も心も邪気に染まる。と言うことで、皆で逃げだそう」
 口元で呪を唱え、パチンと指を鳴らす。
 その音が合図となり、花嫁たちは突然揃って両腕を上げ、ぴょんと大きく上へ跳ねた。
 魏無羨の命に従ってくれるのだ。
「さあ、向かうぞ、明るい陽光の下へ」
 陳情を吹き鳴らすと、地面からわさわさと地霊や鬼たちが湧いてくる。
 彼らは魏無羨を担ぎ上げ、鬼の言葉で陽気に燥ぎながら、一斉に堂の外へと飛び出す。
「花嫁さん、どこへ向かえばいいんだい?」
「そりゃ勿論、花婿のところに決まってる」
「あんたの花婿が誰か知らんのに、どうやって運べばいいっててんだ」
「鬼王花城のところに決まってるだろう」
「そうだ、鬼王だ!」

──鬼王、花城?

 魏無羨を担ぎ出す鬼たちは一斉にその名を声に出している。
 ならばこのまま花城のところへ運ばせればこの場所から出られる道が見つかるかも知れない。
 どこぞの国の笛吹きの様に鬼たちに担がれながら、笛を吹いていた魏無羨だが、突然、黒煙が彼をその輿から振るい落とした。
 くるんと空中で一回転し、無事に着地出来たが、魏無羨が呼び寄せた鬼たちは悉く、その黒煙に蹴散らされ、瘴気を上げて消えて行く。
「臨兵闘者皆陣裂在斬!」
 指先で幾つかの呪を結びながら即席の九字護身法を唱えてみたが案の定吹き飛ばされ、効果はなかった。
 黒霧が竜巻の様に渦巻いて彼の体に衝突し、魏無羨の身体は再び、廟の中へと弾き飛ばされてしまった。
 陳情を剣の代わりに持ち替え、盾にして身構える。
「姿を現せ」
 その言葉に答えた訳でもないのだろうが、黒霧はゆらゆらと形を変え、人の姿を模していった。
 魏無羨と同じ花嫁姿へと変貌し、その顔は彼が懐かしむ顔へと変貌していった。
「止めろ! それは余りにも卑怯だぞ! 止めるんだ!」
 彼の叫びなど構わずに、黒煙に包まれた顔は目が凹み、口が裂け、やがて人の顔へと変わっていく。
「阿羨」
「師姉……」
 白い指先は彼を手招きし、「見て」とあの日の様にくるりとその場で回って見せる。
 金色に輝くかんざしが彼女の動きと共に揺れ、紅い花嫁衣装もふわりと裾を翻して、まるで天女の様な輝きを見せる。
 あの日、江澄と共に金子軒に嫁ぐ前の姿を見せに来た江厭離そのものだった。

「師姉……」
 頭の片隅では違う、これは幻影だと分かっていながら、魏無羨は込み上げる懐かしさに抗うことが出来なかった。
「阿羨、会いたかったの。ずっと、あなたと話したかった」
 うん。ごめん、師姉。
 本当にごめん。
 もう言葉が出て来ない。
 魏無羨はひたすら涙をこぼしていた。
「俺…、俺は……、金子軒を殺すつもりなんてなかったんだ。本当だよ、師姉…。なんであんなことになったのか、俺にも分からない。本当に師姉に申し訳なさすぎて、俺が死んでしまいたかった」
「分かってる。全部分かってるから、もう泣かないで、阿羨」
「師姉……っ!」
 いつもの冷静な魏無羨なら、「子供騙しだ」と笑って歯牙にもかけないつまらない幻影だが、江厭離は彼の唯一の弱点だった。
 彼女の消失だけは、藍忘機の愛情でも埋め合わせることは出来ない。
 彼女と藍忘機はまったく別物だった。
 魏無羨の中の罪の意識が、彼女の呪縛から逃げることをいまだに許さずにいて、そのせいで藍忘機は魏無羨がまだ蓮花塢に固執することを本心では望んでいなかった。
「阿羨。これからはあなたと私、それに阿澄はいつも一緒よ。ずっと離れない。ずっとずっと一緒に居るの」
「うん」
 彼女の腕に抱かれ、魏無羨は幼子の様に目を閉じる。
「ごめんね、師姉。俺のことを許してくれる?」
「勿論よ、阿羨」
 何と心地良い。
 しかし心地良いからこそ、これは罠なのだ。
 涙でぐしゃぐしゃになった彼の顔に安らぎが広がる。
 魏無羨の目にはその鬼は江厭離の姿で映っていたが、実際はまったく別の物だった。
「阿羨、せっかくのお化粧が崩れてしまったわ。私が直してあげる。綺麗な花嫁衣装が台無しだもの」
「師姉、俺は男だから、誰にも嫁がないよ」
「そう? あなたの花婿が待ってるんじゃないの?」
「藍湛?」
───本当に藍湛だろうか?
 魏無羨があの穴に落ちて行く時、藍忘機はあと僅かで手が届くと言うのに、後ろへ下がってしまった。
 藍曦臣に引っ張られたせいなのだが、落ちていく魏無羨には藍忘機を引っ張る藍曦臣の姿は映っていなかった。
 穴の向こうで藍忘機は魏無羨が落ちていくのを見つめ、そしてどうしただろう。
「藍湛はお前に何をしたんだい?」
「藍湛は、俺に」
 江厭離と別の声が魏無羨にそう語り掛け、彼は再び夢魔に囚われていた。
「藍湛は、笑ってた」
「そう。酷いね」
 藍忘機だけじゃない。
 藍曦臣も、江澄も。
 皆で墜ちて行く魏無羨を見て笑っていた。
「どうして笑ったんだと思う? 奴らはお前が妬ましいのさ」
 違う。
 藍湛は俺を憎んだりしない。沢蕪君だって。
 頭の隅では分かっているのに、魏無羨の理性は黙りを決め込むつもりのようだった。
「だって、魏無羨。お前は夷陵老祖だ。お前が居るべき場所はここ、この鬼界だ。お前は鬼の王になるのに、如何して人の世界で生きられる?」
「俺が、鬼の王に───?」
 魏無羨が何かを言い掛けた時、不意に扉が開いて、明るい陽光が差し込んだ。
 江厭離を形作っていた物が絶叫を上げ、苦しみに顔を歪める。
 彼女の身体は瘴気となって溶け出し始めたが、魏無羨の目には江厭離が苦しんでいるようにしか見えなかった。
「師姉! 師姉!」
「阿羨、助けて───っ!」
 消え失せる彼女の幻影から目を離し、魏無羨は闖入者の方へきつい目線を投げかける。
 その目は鬼火が燃え盛る様な、紅い血の色をしていた。
「彼を幻影で惑わせるのは止めるんだ、[[rb:宣姫 > シュエン・ジー]]将軍!」
 宣姫将軍──?
 首を傾げて、魏無羨──夷陵老祖は入って来た男を見る。
 まるで太陽の権化の様な目映い光を放っているのは、仙楽太子。魏無羨はまだその名を知らない、謝憐だった。
「宣姫、きみは天界で囚われている筈。どうして鬼界に舞い戻った」
 何度呼ばれようと、魏無羨にとって彼女はあくまでも江厭離である。
 花嫁衣装を着た魏無羨を鬼と判断した謝憐は、魏無羨の瞳が紅く輝くのを見て、手首に巻いている[[rb:若邪 > ルオイエ]]を解き放った。
「[[rb:若邪 > ルオイエ]]、縛れ!」
 謝憐の命に従って、白の綾布がシュルシュルと伸びて魏無羨を縛ろうと彼に襲いかかる。
 しかし突如として吹き鳴らされた笛の音で、謝憐の若邪は急に精気を失ったかの様にへなへなと床に落ち、そしてただの布へと変わってしまった。
 鬼笛陳情を吹く紅い目をした花嫁は、禍々しい笑みを浮かべながら、邪気が籠もる曲を奏で続けている。
 ようやく謝憐に追いついた江澄と藍曦臣も、魏無羨の変貌振りを見て驚きの声を上げた。
「魏無羨?!」
「彼女がきみたちの友人か!」
「女? いや、魏無羨は男だ!」
 江澄からそう聞いて、謝憐は目を擦り、再び魏無羨を凝視したが、何度見ても花嫁衣装を着た女性にしか見えなかった。
 鬼に施された化粧がそれだけ完璧と言うことだろうか。
「そんなことよりも、あの禍々しい音を立てる横笛を止めさせないと」
 ポコポコと地面から鬼が何体も湧き出て来る。
「若邪、守れ!」
と謝憐は江澄たちを庇うように綾布に指示を出したが、江澄は「無用!」と紫電を光らせ、湧き出る鬼たちを根こそぎ薙ぎ払った。
「なかなかやるね」
「しかし魏無羨に笛を止めさせなければ無限大に湧いてくるぞ! 決起大会の二の舞だ!」
「決起大会?」
 謝憐が知らなくても仕方ない。
 それは過去の話で、そしてここは鬼界だ。
 鬼笛陳情を操る魏無羨にとって、従わせる鬼には不足しない極楽のような土地だった。
 この笛の音を止めねば魏無羨が正気に戻ることはない。
 そう踏んだ藍曦臣は「阿澄、私をしばらく守ってくれ」と彼に身辺を頼み、自身は裂氷を取り出して地面にしゃがみ込んだ。
 鬼笛陳情とは出自が違うため、比較は出来ないが藍曦臣の裂氷も忘機琴同様、一品神器である。
 魏無羨の調べに同調し、曲調を合わせながら併奏して、その邪気を押さえ込もうとしたのだが、何千、何万体もの生きた魂を吸い取って来た陳情と競うことはやはり出来なかった。
 血を吐き、倒れる藍曦臣に「沢蕪君!」と江澄が慌てて駆け寄る。
 仕方がない、と謝憐は魏無羨に向かって、再び若邪を放った。
 同時に江澄も魏無羨目掛け、紫電の一撃を食らわせる。
 魏無羨ではなく、陳情を狙ったつもりだったのだが、彼は笑い声と共に、花嫁たちと消えていた。
「大丈夫か、沢蕪君」
「大丈夫だ。邪気のせいで体内に少し悪血がたまったようだ。吐けばすっきりする」
 江澄が藍曦臣の介抱をしている間、他にやるべきことがあった謝憐は、早速、天界にいる霊文に連絡を取り、宣姫の状態を確かめた。
 彼女の答えはこうだ。
「宣姫でしたら、今後千年、山に閉じ込められて出られる筈がありませんが」
 しかし確かに謝憐は宣姫を見た。
「この目で見たんだ、霊文。間違いない」
「奇妙ですね。霊文殿でも調査を始めてみます」
 彼女の様子から天界は常の様に平穏で、宣姫が逃げ出していないことははっきりと見て取れた。
 いささかすっきりしないが、謝憐は江澄たちの元へ戻り、ことの顛末を説明する。
「つまり、その宣姫って鬼が、魏無羨を引き摺り込んだってのか?」
「それが分からないんです。先程も説明した通り、宣姫は天界に囚われている。分身を送ることもままならない筈だし、別の誰かがなりすましているか」
 それとも、強大な力を持つ誰かが手助けをしているのか。
「鬼王花城って奴が手助けしているんじゃないのか? 絶の鬼だが何だか知らないが、鬼の中で最強なんだろう」
「そうですが──。花城は彼女に興味がないと断言出来ます」
 何を根拠に、と言いたげな江澄に、謝憐は苦笑を浮かべながら首を振る。
 花城でないことは、謝憐が一番良く分かっている。
 何故、過去の出来事を繰り返し、人を鬼界に攫って来なければならない。
 そんなことをしなくても花城の配下は無限だし、そもそも彼は単独を好み、誰の助力も必要としない。
 鬼同士で殺し合い、最終的に生き残るのが絶の鬼へと昇格するのだ。
 そんな花城が一体、誰の助力を必要とするだろう。
「江殿」
 しばし考えた後、謝憐はそう江澄に呼び掛けたが、少し待ってくれと拒まれてしまった。
 どうやら藍曦臣の傷付いた原神を治したいらしい。
「思ったより深く傷付いている。手当てをしなければ」
「ああ、そうだね」
 藍曦臣のことは字しか聞いていないが、江澄が幾度となく彼をそう呼ぶため、謝憐にも藍曦臣=沢蕪君と言うのは何となく伝わっていた。
 謝憐は血の気が失せて更に白くなった彼の横顔を眺める。
 人の子にしては美しい。
 花城が彼の弟を見て感じたことと同じことを思ったとは露知らず、謝憐は藍家の男の美しさに感嘆していた。
「江殿。きみは口は悪いけれど、優しい人だ」
「黙れ。紫電で打ち殺すぞ」
 そんなことを花城が聞いたら大変だが、運の良いことにここには彼はいない。
 謝憐は自分自身への好意には鈍いが、他人の機微には聡い。
 だから道中、共に歩いて、江澄と藍曦臣の関係にも薄々気が付いていた。
「彼のことが好きなんだね」
「好きとか、そう言う感情は違うと思っている」
「どうして?」
 むすっとした顔をした江澄を見、彼は本当に慕情にちょっと似てると感じてしまう。
「私は雲夢江氏宗主の身で、この人は姑蘇藍氏宗主だ」
「それは何度も聞いたよ」
「あんたには分からないだろうが、私たちはそれぞれ守らねばならない家がある」
「あー、なるほど」
 某氏やらと世家の名を言われても、五大世家? 何それ?の謝憐にはいまいちピンと来なかったが、要するに彼らの家は名家で、家を継ぎ、跡継ぎも残さねばならない。
 そう言う立場だと言うことだ。
「私もかつて仙楽国の太子だった」
「その話も、もう聞いた」
「しかし人間だった頃の私は、国王である父の跡を継ぐことは余り意識していなかった。当時の私は若すぎて、衆目を救いたい、ただそのことだけを考えていたんだ」
「衆目を救うだって?」
「笑っちゃうよね。でもあの時は真剣にそう考えていたんだ。私のこの命は[[rb:衆目 > かれら]]に捧げる為にある。家柄や王を継承することは、当時の私にとって余り意味のあることではなかった」
「ご立派なことで。しかしあいにく私は俗物ゆえに家名に拘るし、祖先の偉業を後継に繋げたい。この人も同じだ。姑蘇藍氏宗主としてのこの人の誇りを穢したくないし、彼の務めを邪魔したくもない。沢蕪君は俺が知る限り、この世で一番高潔で信頼に足り、尊敬出来る人物だ。そんな人の名を俺の名で穢したくない。彼の名節を守りたい」
「それがきみの本音なんだね、江殿」
「なんであんた相手にこんな話を」
 照れくさいのか、江澄は眉間に皺を寄せ、藍曦臣の手当てに再度没頭する。
 こんなことを三郎に言ったのを謝憐は思い出していた。
「きみが物乞いでも好きだし、嫌いになれば皇帝でも嫌いだ」「───」
「とある人に言った言葉だ。きみにとってその雲夢江氏と言う家は特別な意味を持つのだろうけど、きみはきみであって、家名を受け継ぐ為だけに生まれてきたんじゃない。きみのご両親だって、家を継がせる為だけにきみを育み、愛おしんだわけじゃない。別の生き方も出来るし、家を失ったからってきみたちの何が変わるわけでもないんだ。勿論、ご両親から受け継いだ名と家が大切なのは理解出来る。ただそれに縛られて、本心を隠し、好きな相手に嘘を付き続けるのは苦しくないのかい? 私はそれが心配だよ」
 余計なことだけど、と最後に付け加えた。
 江澄は黙って聞いていたが、溜息を吐いただけで、否定も肯定もせず、藍曦臣の手当てを終える。
 多分、謝憐の助言は余計なことだと思っただろうし、江澄自身が一番理解しているだろう。
 改めて神官である自身の立場は、人として生きるよりもずっと気楽で自由なのだと謝憐は感じた。
「ありがとう、阿澄。きみを守ると言いながら、かえって迷惑を掛けた」
「別に構わない。それに迷惑でもない」
「うん」
 お互い、相手が傷付けば助け合うし、庇い合う。
 それが迷惑と思うことなどある筈がないのだ。
「そんなことより、魏無羨の奴。またとち狂ったのか、あの馬鹿は」
「そうそう。魏無羨。さっきのあの花嫁のことだね。彼はきみたちの友人で、魏無羨と言う男性で間違いない?」
「ああ、そうだ」
 謝憐は魏無羨が何故鬼を操れるようになったのかを知らない。だから江澄が鬼笛陳情を持つことになった経緯や、あの笛の力を大雑把に説明してやった。
 陳情は魏無羨がかつての戦乱の地、乱葬崗で拾った禍々しい力を持つ神笛だ。
 その神が悪であるか、善であるかは明確になっていないが、魏無羨はともかくあの笛と自ら作り出した陰虎符で修士を三千人とも、五千人を殺したとも言われている。
「三千人? それって凶の鬼より最悪じゃないか!」
「あんたらが言ってる絶とか凶はつまり鬼の格付けみたいなものか?」
「うん。鬼厲凶絶の四つで、鬼と呼ばれる存在は、人一人を殺すことが出来る。そして厲は一族を滅ぼすことが出来、凶は都市まるごと一つ潰すことが出来る。さっき私が口にした宣姫はこの等級に当たる。そして一番格上とされる絶は、彼らが誕生しただけで、国と民に災いをもたらし、世の中が大きく乱れる。花城もその一人だ」
「つまり魏無羨は鬼なら」
「凶の宣姫以上だよ。彼女が二百年の間で殺したのは百人程度だ。一晩で三千や五千人殺すなら」
「────」
 絶と並んでもおかしくない。
 魏無羨が鬼と変化すれば間違いなくその格まで昇格すると言うことだ。
「あいつはただの馬鹿だ。そんな国を滅ぼす鬼になんて」
「ともかく、きみたちが言うその鬼笛陳情は名の通り、もしかしたら由来はこの鬼界にあるのかもね。魏殿がこの地に引き込まれたのも、その笛が原因なのでは?」
 それも有り得る。
 しかしあの時の魏無羨は完全に正気を失っていた。
 まるで過去の因縁が繰り返されるようだった。
「夷陵老祖、魏無羨、か。良く天界に通報されなかったな」
 それと言うのも修真界はある意味閉ざされている。
 修士や仙子は人を寄せ付けたがらないし、彼らの間の協定で、仙力を使って人を殺めることは重罪とされている。
 そのかわり修士が修士を殺しても、相当数殺さなければ単なる腕比べと片付けられて取り沙汰されないのだ。
「誰か来る」
 藍曦臣の一言で、江澄は中指に嵌めた紫電をいつでも揮える様に身構える。
 しかし現れたのはすらりと背の高い、どこか飄々とした紅衣を着た少年で、紫電を構えた江澄も出鼻を挫かれてしまった。
「兄さん」
とにっこりと少年が笑いかける。
「[[rb:三郎 > サンラン]]!」
 謝憐に三郎と呼ばれた少年は彼に歩み寄り、ちょこんと首を傾げて顔を覗き込む。
 彼が間違いなく謝憐だと確認し、安心したようだ。
 そして江澄を見、最後に藍曦臣を見て「あれ?」と眉を持ち上げた。
「そっちの白い人はもしかして兄さんのお友達?」
「ああ、藍殿は、彼の弟とその友人を探して鬼界を訪れたんだ」
「弟? もしかして白い鉢巻きをして、同じ様な白い法衣を身に着けて、妙に無愛想な人?」
 藍忘機の特徴を見事に表現したことに江澄は苦笑したが、藍忘機の身を案じる藍曦臣はそれどころじゃなかった。
「忘機と会ったのですね」
と三郎の腕を掴もうとして、咄嗟に彼がスッと後ろに下がる。
 どうやら余り触れられるのはお好みではないらしい。
「兄さんのお友達が困っているのなら、僕も手を貸してあげるよ」
「ありがとう、三郎。あ、彼が先程話していた花城だよ」
「は? こいつが花城?!」
 江澄のみならず、藍曦臣まで呆気に取られて惚けてしまったのも無理はない。
 何しろ絶の鬼、花城は誕生だけで国を滅ぼし、破滅をもたらす。そして彼は鬼の王だと聞いていたのに───。
 謝憐の隣でヒラヒラと手を振る美少年をどう歪んだ目で見たら、この世に大災害を巻き起こす最強の鬼に見えるのか。
 江澄は彼を指差し、「これが、鬼王か?」と失礼なことを言ってのけたが、途端に三郎の瞳にゆらりと浮かんだ凶行の焔に藍曦臣と揃ってゾッとした。
 本能か、それとも無意識か、藍曦臣が江澄を庇って自身の後ろに引き寄せる。
「彼が、鬼王、花城殿だと?」
「うん。私は三郎と呼んだ方が馴染み深いのだけど」
「それより兄さん、さっき言ってた凶の鬼以上に凶な鬼って、誰のこと?」
 先程話していたのは魏無羨のことだ。
 果たして話して良いのかと二人は思ったが、警戒心の薄い謝憐がペラペラとさっき起こった顛末のすべてを語ってしまった。
「へえ、鬼笛陳情か。一晩で三千人殺すなんてなかなかだね、その人」
 謝憐から鬼笛陳情と夷陵老祖として名を馳せた魏無羨の過去の話を聞いた三郎はにっこりと笑う。
 笑うところかよと江澄は突っ込みたくてうずうずしたが、またあの怖気を奮う目で見られては堪らない。
 藍曦臣の後ろに隠れてなるべく彼の視界に入らないようにした。
「花城殿」
「花城殿なんて呼ばれたのは初めてだ」
「貴殿は先程私の弟と会ったとおっしゃいました」
「そうだね。あなたに良く似た、ちょっと面白い子だ」
 やはり藍忘機のことだ。
 身を乗り出す藍曦臣に、三郎は再び微笑んでまた彼の背筋を寒くさせた。
 どうやら許可なく話し掛けられるのもお好みではないらしい。
「あの子は忘機と言うのか」
「あの子って、藍忘機はもう四十だぞ。どう見たってあんたの方が子供に見える」
「さっきからきみ、誰に話し掛けているか分かってる? 僕がきみを殺そうとすれば指先一本で足りるのだけど」
 やはり江澄。
 考えなくても嫌味が出てしまい、また三郎と目が遭って、あの嫌な怖気が背筋を走る。
 こんな奴に怯えるものかとキッと見返してやったが、藍忘機の消息が気懸かりな藍曦臣が彼を遮り、三郎に先を説明する様、謝憐に促した。
「忘機は、私の弟は無事なのですか?」
「三郎、彼の弟はどこに行ったんだい?」
「とりあえず僕は殺していない」
「三郎」
「最後まで聞いて、兄さん」
 謝憐にめっと𠮟られ、三郎はシュンとしながら、「殺してないよ」と再び繰り返す。
「少し遊んでやるつもりだったんだ。でも逃げちゃった。彼を見ていたら兄さんを思い出したから、他の鬼に殺される前に人間界に戻してやるつもりだったのに、逃げ足が早くてね」
「すぐに忘機を探しに行かないと」
「藍殿。弟御が気懸かりなのは分かりますが、ここは鬼界です。三郎と共に行動した方が良い。きっと彼が見つけてくれる。ねえ、三郎?」
「うん。兄さんの頼みならね」
 本当にこんな鬼をたよって大丈夫なのだろうか。
 藍曦臣と江澄の顔に不安が過ったが、魏無羨は鬼と共に去ってしまったし、藍忘機は行方知らずだ。
 仕方がないから、三郎と共にまずは藍忘機を追うことにした。
2/4ページ
スキ