玻璃の月

2.碧落の瓏

 藍忘機には、昔から見続けているいともおかしな夢があった。
 崩落する城。天を焦がす勢いで立ち昇る紅蓮の炎。
 逃げ惑う人々の中、一人の少年が母を探して泣きながら彷徨っている。
 逃げ惑う人々に押し潰されそうになりながら、一人だけ別の方向へ走っている幼児の姿が気になって、藍忘機は彼の後を追い続けた。
 転んでしまった少年に手を差し伸べると、彼は泣きじゃくりながらも不思議そうな顔をし、にこりと屈託なく笑って見せる。
 乳歯が抜けてはすっぱになっている笑顔が印象的だった。
 まるで彼がいまいる場所は、国の終焉を告げる地獄絵図の地ではなく、薫風そよぐ清々しい緑地の様に見える。
 きみは、と問い掛けたいのに声が出ず、
「忘機」
と呼ぶ兄の声で現実に引き戻された。
 藍忘機の目の前から、泣き虫の少年は露と消え、焼け煤の匂いも、少年から漂う花の香も彼の周囲には微塵も残っていなかった。

 九重天。
 彩に輝く雲海が乳白色の空へ広がり、静まり返る大気は、髪を揺らす微風さえ感じない。
 厳かで静寂に包まれたこの世界が藍忘機がもっとも身近に感じる場所だった。
 自分と良く似た顔立ちをした龍族の皇太子、兄の藍曦臣が、彼ら龍族が好んで良く着る白く輝く衣に身を包み、惰眠を貪る弟を見下ろし、笑っている。
「生真面目な性分のお前が昼寝とは珍しいこともあるものだな」
「……お出迎えもせず、失礼しました」
「構わん。私とお前は年齢も大差ない、血を分けた兄弟なのだから、遠慮は不要だ」
 弟の白皙に浮かぶ紅潮を見、藍曦臣は更に静かに笑う。
 彼の微笑を見ていると、我が兄ながら本当に気品あふれる美しい人だとしみじみ感じてしまう。
 藍忘機も兄と同じ姿形なのだから、きっと他者から見れば彼も同じ様に見えるのだろうが、不思議と藍忘機は自分の顔に興味がなく、鏡を見ても兄と同じ顔がそこにあるだけだと昔から感じるだけだった。
「式典の準備はお済みなのですか」
「うん。準備と言ってももう二年も前から進めていることだからね。目を瞑っていても何の滞りもなく進行出来る」
「我々、天族にとって、立太子の祝典は大切な行事です」
「分かっている。お前までそんな堅苦しく考えるな」
 何しろ皇子が太子殿下に就任する祝典だ。
 数万年に一度執り行われるかどうかの頻度で開かれる式典だし、前回行われたのは当然、彼らの父帝が太子として擁立されて以来である。
 次にまた祝典が行われるとすれば、天帝となった藍曦臣の子が太子に選ばれるまで待たねばならない。
 兄の藍曦臣が天帝となることは、彼が藍忘機より先に生まれた時点で既に決まったようなものだが、藍忘機はそれについて特に不満も異論も持っていなかった。
 おそらく藍曦臣に子が出来れば、叔父となる彼は兄の子の教育係か、もしくは子の覇権を脅かさない遠い僻地へ飛ばされることになるだろうが、むしろそれこそ望ましいと思っている。
 度々見るあの孤児の少年の夢も、きっと彼の他世界への願望が夢となって表れたものではないかと推測していた。
「忘機、少し、外を歩こうか」
 兄が手を差し伸べて来た為、その手を取り、藍忘機も立ち上がる。
 並んで歩く彼らの姿はまるで光と影、陰と陽のように相反するものの形容みたいで、二振り揃って初めて完成する名工が手掛けた芸術品の様だった。
 途中、行き交う天界の者たちも恭しくお辞儀をし、彼らを見送りながらも通り過ぎた後にはまた振り返り、後ろ姿に感嘆の溜息を漏らすのであった。
 頭上では瑞鳥が彼らの姿を見ることが出来た歓びに舞い踊っている。
「今回の宴には、鳳凰族の他、青丘、そして四海の帝君などがお見えになる」
「魔族からも太子一家が来られるとか」
「ああ。形ばかりの和平とは言え、孤族の姫を犠牲にした以上、良好な関係は保たねばならん。故に、立太子の祝典に呼ばぬわけにも行くまいが、いささか不穏ではあるな」
「私にお任せ頂ければ、兄上の懸念は必要ありません」
「いや、忘機。お前は私の弟、お前も父上の子だ。何かあれば明玦兄上にお任せするのが良いだろう」
 聶明玦を族長とする黒狼族は魔族の中でも天族の彼らと親しく付き合う珍しい一派だ。
 総対数はけして多くないが、人間界では、真神とも呼ばれる彼ら黒狼族の霊力は高く、かつて天界と魔界で世界を二分する戦になった時も、黒狼族には随分と苦しめられた。
 その時、この黒狼族との橋渡しになったのが青丘の狐帝で、以来、魔界に住む住人であっても黒狼族だけは天族と上手くやっていた。
「そう言えば、今回は青丘からも招待客が来ると聞きました」
「ああ。狐帝の一族が自分たちの領土から表に出るのは非常に珍しいからね。九尾狐族に会うのがお前も楽しみか、忘機」
「別に、そんなことは」
 はにかみ、耳たぶを赤らめる弟の様子に藍曦臣は綺麗な目元を細め、笑う。
 彼の弟、藍忘機は、一度剣を振るえば武神と呼ばれる先達までも打ち負かす剛の者だが、こうして普段、静かに過ごす彼の姿からは到底、奥底に眠る荒々しさを感じることは出来ない。
 寡黙でめったに動じず、人と馴れ合うことをしない藍忘機は、度々、冷徹と批判されることもあるが、彼の素顔は至って純真で無垢だった。
 その藍忘機は、兄が自分を見て笑っていることに気づき、ますます顔を赤らめる。
「兄上」
「ごめん、ごめん。お前が度々、見る夢とやらに出てくるのも、青丘の孤児だったな」
「彼が本当に実在するのかは私にも分かりません。妖狐が梁国を滅ぼした時、私も同じく幼かった筈ですから」
「確かに。あの際、私は叔父と共に討伐隊に加わったが、忘機、お前はこの九重天にいた筈だ」
「ええ」
 でも炎の熱さは藍忘機の肌が覚えている。
 あの時、彼は確かにあの場所にいて、あの少年と出会った気がする。
 家族は?と聞くと、少年は
「お母さんがいなくなった」
と話していた。
 彼がお腹が空いたと泣くから、藍忘機は袖の中に隠し持っていた菓子を一つ、少年の手に載せてやったのだ。
「僕の名は、藍忘機」
「俺は魏嬰だよ。お母さんは俺を阿羨って呼ぶんだ」
「阿羨?」
「うん、阿羨!」
 その後、あの阿羨と言う名の少年はどうなったのだろう。
 人界から戻った兄を捕まえ、聞いてみたが、「多分、孤族と一緒に青丘に帰ったんだよ」と返事を貰っただけだった。
 そうであってくれれば良い。
 あの時点で、あの亡国で、一人泣いていた青丘の子狐ならば、きっと彼は妖狐の女狐と関係が深い筈だ。

 兄弟が蓮池に向かう途中、宮女たちがはしゃぎながら小走りで駆けて来て、向こうからやって来るのが皇太子と第二公子だと気づき、慌てて地面に平伏した。
「お前達、宮中で騒ぐとはどこの宮女だ。今すぐ懲罰を受けに行きなさい」
「すみません、青丘の方々が九重天に着いたと聞き、物珍しさから一度は目にして見たいと思いまして」
「青丘?」
「申し訳ありませんでした。罰を受けて参ります」
 ひたすら地面に頭を擦り付ける宮女たちを放免し、藍曦臣と藍忘機は呆れた顔を見合わせた。
「どうやら我々に仕える天界の宮女たちは、皇太子と王子である我々より、美男美女揃いと有名な孤族の方々にご執心のようだ」
「………」
 しかし実を言えば、兄弟もめったに目にすることのない狐帝の一家には興味があった。
「我々も出迎えに行ってみるか」
「はい」
 二人の意見が合致し、揃って孤族が着いたと言う南天門へと向かう。
 皆、考えることは同じようで到着したばかりの狐帝の一家は、珍客を出迎える天界の住人たちの歓迎振りに目を丸くしていた。
 藍曦臣、藍忘機の兄弟が南天門に着いたことに気づき、群がる神仙たちは彼らのために慌てて道を空ける。
「狐帝、江殿。皇太子、藍曦臣です」
「同じく、二王子の藍忘機です」
 兄弟に挨拶をされた江楓眠は親しげに挨拶を返したが、彼の妻の虞紫鳶は頭を下げず、軽く頷いただけだった。それに倣って二人の息子も天族の兄弟に軽い会釈をして出迎える。
「殿下がた、私の息子の江澄に、義理の息子の魏嬰だ」
「太子殿下、二殿下にご挨拶します。此度は太子殿下就任おめでとうございます」
「かたじけない」
 魏嬰───?
 夢の中の少年と同じ名を聞いた藍忘機は不躾なことも忘れ、赤い目をした黒髪の青年の顔をまじまじと見つめてしまった。
(この、瞳───)
 燃えるような赤い瞳は、あの時泣いていた少年で間違いないと確信する。
 てっきり家屋を焼き尽くす炎が瞳に映って赤く見えたのかと思っていたが、眼の前の少年の瞳はまごうかたなき赤だった。
 藍忘機は食い入るように彼を見つめていると言うのに、青年の方は藍忘機に気づいていない様で、怪訝そうに、そして少し不快そうに眉を顰めた。
「忘機」
「あ、はい」
 藍曦臣に呼ばれ、そちらを振り返る。
 兄はいつもと変わらぬ微笑を浮かべていたが、その瞳には彼をからかうような色が浮かんでいた。
「青丘の方々を宮殿へご案内しなさい」
「承知しました」
「江殿。手狭では御座いますが、一族の方が休める宮殿をご用意しております。不足な物があれば何なりと給仕の者にご命じください。後ほど父とともにご挨拶へ伺います」
「太子殿下、お気遣い、感謝致す」
 さすがは青丘の一族だと見物人からひそひそ話が聞こえて来る。
 天帝の息子で天族の第二殿下がわざわざ道案内を命じられるのだ。
 こんな高待遇、青丘でなければあり得ない。
 江楓眠の後へ続く二人の子狐たちは得意満面で群がる神仙たちを見回した。
「江澄、天族っても大した事ないな」
「当たり前だ。我々、孤族以上に優れた一族なんているわけがない」
 藍曦臣の命で青丘の一家を案内する間、藍忘機は江澄とそんな会話を交わす魏無羨の存在が気になって仕方なかった。
 今回、娘の江厭離は鳳凰族である金子軒との婚姻が間近と言う事もあり、祝辞には参加せず、青丘で一人留守番をしているらしい。
 初めて訪れる九重天が珍しいのか、狐帝の息子二人はあちらを指差し、こちらを指差しては、二人でずっとこそこそ笑い合っていた。
 着飾って来た二人の姿はさすがは美男美女で知られる九尾狐族の名に恥じないものだった。
「おい、江澄、見ろよ。あの木々の葉っぱ、七色だぞ」
「七色がなんだ。色が多ければ良いってもんじゃないぞ。葉っぱはやはり緑が一番美しい。青丘の森の方がずっと活き活きして綺麗だ」
「確かになぁ。ここには花の香りがしない」
 そう言えば、と二人も気がついたようだった。
 藍の兄弟が歩いた後には花の残り香がするらしい。
 クンクンと鼻を鳴らし、またお喋りに励む間も二人はずっと手を繋ぎ合い、口付けしそうなほど顔を寄せていた為、藍忘機の心中は穏やかではなかった。
(たかが、きつねだ───。考えるほどの価値もない)
 獣族は単純で、性質は子供っぽく、善良ではあるが、龍族の彼らからして見れば未成熟で野蛮である。
 こんな者を三万年も思い続けていたのかと思うと、自分の愚かさを呪いたくなったが、しかし、魏無羨の愛らしい二重の瞳は藍忘機の目を釘付けにした。
 その彼が藍忘機の視線に気付いて、にこりと笑う。
 彼に向けられ、差し出された片手の指先が踊りを舞うようにくねっと動き、蠱惑的な目線を送って来た。
 途端に身体がかっと熱くなり、魏無羨の目から視線が外せなくなる。
(迷魂術だ)
 それとすぐに気が付いた藍忘機は片手で避塵を抜き、柄の部分で弾き飛ばす。
 どうやら狐帝も養子の無礼に気がついた様で、「こらっ」と叱咤の声を飛ばしたが、魏無羨と江澄はまったく堪えていないようでまだクスクス笑い合っている。
「ごめんな、藍二公子。これは俺達孤族の挨拶、みたいなものなんだ。なあ、江澄」
「ああ。龍族の高潔なお坊ちゃんには、少々、失礼に当たったかもな」
「やめなさい、二人共。二殿下、申し訳ない。案内は宮女の者にさせる故、殿下はどうぞお戻りを」
 狐帝からそう言われた為、藍忘機は彼らのもとを離れたが、魏無羨と江澄の二人は明らかに挑発的な目線で彼を送り出していた。

「僕は、藍忘機」
「俺は魏嬰だよ。お母さんは阿羨と呼ぶんだ」

 そう自己紹介し合ったのは単なる夢だったのだろうか。
 阿羨、と藍忘機の唇がその名を呟き、そして深い溜め息が人知れず洩れる。
 青丘のいたずら子狐二匹は互いの肩に寄りかかりながらまだクスクス笑い続けていた。
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