玻璃の月

1.青丘せいきゅうの子狐

 太古の昔。
 この四海八荒には、龍族、獣族、魔族、そして人間と様々な種族が棲息していた。
 それぞれの国は仙障によって隔たれ、国家間を跨ぐ移動をする際はそれなりの仙力が必要とされる。
 だから何の霊力も持たない人間の世界では、神仙や魔獣、妖怪の類は夢物語の中に出て来る仮想の生き物でしかなかった。
 しかしごく稀に。本当にごくごく稀に、仙界への入口がひらいてしまうこともある。
 ウェイと言う姓を持つリアン国の将軍もその一人だった。
 敵国との抗争中。撤退を余儀なくされた魏将軍は数名の部下を引き連れ、追撃から逃げていたが攻撃が止むことはなく、部下は一人、また一人と倒れて行った。
 片手ほど残っていた部下も彼一人となり、渓谷に行く手を阻まれた彼は死を覚悟し、このまま捕虜となるよりはと死を選んで激しい流れの中に身を投じた。
 岩石に体を打ち砕かれ、肺まで水を飲み込み、死を覚悟した彼だが、目覚めると彼は暗い洞穴の中の岩棚に寝かされていた。
 薄暗く、ぼんやりとした蝋燭の灯りだけが灯る湿った洞穴だが、入ってくる外気はひんやりと冷たくて、そしてそこはかとなく甘い花の香がする。
 豊かな黒髪と紅く、不思議な目の色をした仙女と見紛う女人がゆっくりと彼の方を振り返った。
「ここは、仙境か───」
 呟きにも似た問いかけを発すると、仙女は姿に見合った美しい声で、「ここは青丘せいきゅう。あなた方人間とは縁遠い、孤族の森よ」
と答えてくれた。
 青丘──。
 霊狐が棲むと言う、あの伝説の?
 そう訝しむ男の傷を介抱し、彼女は彼に食事を与え、魏将軍が動ける様になるまで根気強く世話をしてくれた。
 彼女は青丘の姫で、九尾狐族の長、狐帝の従妹だった。
「きみのおかげで命拾いした。感謝する」
「あなた方のおかげで上流の水が腐った臭いがするわ」
「私は梁国の将軍だ。きみの誠意に感謝し、国に戻ったらぜひ、この礼を」
「結構よ。国に帰ったら、また殺し合いを始めるのね。ならば私があなたを助けた意味はあるのかしら」
「………」
 満身創痍だった彼の体を癒やし、甲斐甲斐しく世話をする。
 人の世ではまず拝むことの出来ない美女から、そんな待遇を受ければどんな男も骨抜きになる。
 そして将軍が国へ帰る日が来た。
 姫は男を帰したくないと思い始めていたが、狐帝からいつまでも人間をここには置いておけないと言われ、仙障の付近まで彼を見送ることになった。
「二度とここへは来ないで」
「きみが共に来てくれたら、私は国を捨て、きみの為に生きても構わない。親や兄弟を捨ててもいい。きみと共に今後の人生を送りたい」
「………」
 将軍の熱意に負けた姫は、人間界の時間で1年に一度、仙障の境で将軍と会う約束を交わした。
 それから十年の月日が経ち、彼らの逢瀬は続けられ、そして二人の間に愛らしい子狐も産まれた。
「この子の名前は嬰だ。私ときみの間に生まれて来たややこ。そして私ときみを繋ぐ嬰の字だ」
「いつかの約束は覚えてる? 私とそしてこの子と共に、国を捨て、三人だけの人生を送るの」
「勿論だ。きみとこの子の為なら、私は将軍職など辞しても構わん」
 魏将軍はそう約束し、青丘の姫もまた青丘の掟を破って狐狸洞から出て行った。
 二人とそして生まれた子どもの三人での暮らしは平穏無事に続くかと思われたが、将軍の祖国、梁の皇帝は国を裏切った将軍の首を取るよう、配下に命じた。
 一族すべて滅ぼせとの命に、将軍も責任を感じ、姫とややこを置いて国へと帰って行ったが、それでも彼は殺され、そして彼の一族全員も処刑されてしまった。
 人間界と言うものは、常に戦と権謀に塗れ、平和な時など続かないものだ。
 将軍の死は政治的な闘争に巻き込まれてのことだと知った青丘の姫は嘆き悲しみ、「こんな国、滅べば良い」と彼女は月に祈り、人間を屠ってその血を飲み、妖狐となってしまった。
 実はこの謀略には人間界に干渉した魔族と天族の争いも秘かに関わっていたのだが、天族はこれを利用し、妖狐となった青丘の姫にすべての責任を押し付けた。
 梁を滅ぼした妖狐を始末しろと青丘に要請して来たのである。
 狐帝が治める獣族の聖地、青丘は、独立国家でたとえ父祖が四海八荒の主と認めた天族──、龍族相手であっても本来なら命令される立場にはないのだが、自身の従妹が人を呪い殺す妖狐と成り果ててしまったことには狐帝も責任を感じていた。
 寄って、狐帝は彼女に死を賜り、永遠に将軍のもとで眠って良いと恩赦を与えたが、同時に今後、孤族としての復活は許さない懲罰も加えた。
 そして彼女と将軍との間に出来た一人息子、魏嬰は狐帝の手に託されることになったのである。
従兄あに様、羨羨を──、この子をよろしくお願いします。出来たら阿羨には、私が何故、死んだか、この子の父親が誰なのかは教えないで欲しいと思います」
「私がお前との約束を守っても、秘密は必ず人の口から洩れるものだ。その点については約束出来んが、息子のことは心配せず、安らかに逝くと良い。お前は罪を犯したが、この子は九尾狐族の子。一族が必ず、家族として大切に守る」
「従兄様、ありがとうございます。夫への愛のために、青丘の恥さらしとなってしまった従妹をどうぞ寛大な御心でお許し下さい」
 そしてそれから三万年。
 梁国を巻き込んだ天界と魔界の争いも下火になり、四海八荒はひとまずの平穏を手に入れたかに見えた。
 魏無羨と名付けられた赤児も成長し、青丘の霊力あふれる自然の中、皆に愛され、天真爛漫な青年へと変貌していた。

 母が望んだ通りにはならず、彼女が人間の国一国を滅ぼした妖狐と成り果てた話は息子である魏無羨の耳にも入っていたが、彼は自身が半人半妖の身であることも、狐帝が母を見限ったことを恨みに思うこともなかった。
 それだけ狐帝が彼に対し、愛情を注いで、自身の子と何ら変わらず接し、伸び伸びと育ててくれた証だった。
 魏無羨もまたそんな養父を心から慕っていたから、尊敬の念を抱きこそすれ、負の感情など持つ筈もなかった。
 ただ一つ。
 天族に対してはあまり良い印象を持っていない。
 青丘の民は誇り高く、唯一、青丘の主である狐帝以外は何者からも支配されない。独立国家なのだ。
 これは魏無羨だけでなく、青丘の民なら孤族でなかろうと誰しもが思うことで、その上、魏無羨は半人半妖とは言え、狐帝の血筋、霊孤の中でもとりわけ霊力の高い九尾狐族の一族だ。
 そんな自尊心の高い孤族に対し、天帝が同族の魏無羨の母を殺せと命じたことは、青丘にとっては屈辱の歴史以外の何ものでもなかった。
 江楓眠が彼女を殺す命を下したのは天族に指示されたからではなく、あくまで自分の民が外界に害をなしてしまったからその責務を全うしただけで、青丘の民ならばそれを疑う者は誰もいない。
 しかし天族はじめ、他の種族は皆、中庸を旨とした狐帝がとうとう天帝に遜ったと、この数万年まことしやかに噂をし合っていた。
 それこそ青丘にとっては屈辱である。
 同じく江楓眠に育てられた狐帝の嫡男である江澄と、その話は度々していて、今度天族をどこかで見かけたら二人で茶化して、迷魂術でも懸け、奴らに木の葉を食わせ、馬の糞尿に塗れた小屋の中で熟睡させてやろうと幾つも悪企みを話し合っていた。
 しかし残念かな。
 天族が青丘の地に足を踏み入れることはめったになく、来たとしてもせいぜいが使いの者ぐらいで、彼らがわざわざからかう旨味も価値もなかった。
 子狐二匹の悪巧みは叶うことなく、彼らも巣立ちを迎える年齢へ近付いていた。
 魏無羨は三万歳。
 そして江澄は二万と八千歳。
 ほぼ同年齢で孤族の中では一番若い彼らも青年の容貌へと変わりつつあったのである。
「師姉、江澄の奴見なかった?」
「確か蓮池の方で魚釣りしてたわよ。今日の晩御飯頑張って釣ってきてって阿澄に伝えておいて」
「わかった、俺も手伝ってくる」
 妖狐の子である魏無羨は黒褐色の和毛と妖しい赤い瞳を持った、親しみやすい快活な笑顔が特徴の陽気な青年で、孤族らしいしなやかですっきりとした長身は青丘のどの種族からも美男子だと褒めそやされる容姿だった。
 そして狐帝の息子、江澄もまた母親譲りの中性的な美貌を持ち、顔立ちだけなら魏無羨にもけして劣らない。
 しかし残念なことに彼はその内面に救いがたい欠点も持ち合わせていた。
 苛烈な母に似て、怒りっぽく、一旦怒り出すと手がつけられなくなり、彼の眉間にはその狭量さを物語る深い皺が消えることなく刻まれている。
 しかしどちらも美男美女揃いの孤族の中でも際立った美貌を持っていたから、青丘のどこに行っても人気者だった。
 孤族の見た目は男女で分かれているが、成熟すると伴侶に合わせて性別を変えることが出来る。
 だから例えば魏無羨が江澄を娶り、二人で青丘を治めることも可能であり、狐帝も含め、青丘の民なら彼らは将来伴侶になると信じ、疑いもしなかった。
「しかし四海八荒の主が天族だなんて、一体、どこの誰が決めたんだ」
 船の上、魏無羨のいつものぼやきに釣り糸を垂らした江澄が肩を竦め、授業で習ったありきたりの答えを返す。
「古典の授業で習っただろう。この世界を作った父祖さ」
 魏無羨にとっては耳だこな話で彼は耳を塞ぎたかったが、それをやると江澄を怒らせるだけだから黙っていた。
「天族は非常に高潔で高邁。霊力も高く、見た目だって龍だから神々しい。あるじに相応しいと父祖が決めたから、天界は彼らの所有となった」
「江澄、だけどその父祖とやらは本当にこの世に存在したのか。龍族が後付けで盛っただけかもしれないぞ」
「魏無羨、不敬だぞ」
「俺はいつだって不敬さ。何しろ妖狐の血を引く半人半妖だからな」
 冗談とも取れない魏無羨の言葉に、江澄は唇肉の薄い口を歪ませ、失笑する。
 獣族は基本的には皆、善良で、単純な資質を持つが、江澄とその母だけはいささか異質だった。
 それと言うのも虞紫鳶も純粋な九尾狐ではなく、彼女の母は魔界を支配する魔族で、その血には魔族の荒々しさが色濃く受け継がれていた。
 怒りっぽく、短気で、自尊心の塊である江澄は、同じ父に育てられた魏無羨のことを多少なりと僻んでいる。
 魏無羨も肌でそれを感じ取っていたが、それなりに江澄にも良い面があった為、義弟として可愛がってきたつもりだった。
 それに将来、彼らは伴侶となる可能性もなくはない。
 どちらも「お前なんかお断りだ」とゲロを吐く真似で囃し合っていたが、父母の命なら多分、結婚するだろうと思っていた。
「魏無羨、いくら天族が悪くても、お前まで妖狐になるとか言い出すんじゃないぞ。俺の手でお前を殺すなんてこと、俺は絶対したくないからな」
「あいや、江澄。お前に俺が殺せるか?」
「狐帝の跡継ぎを舐めるなよ」
「殺れるものならやってみろ」
 人型から狐の姿に変わり、噛み合い、じゃれ合う。
 湖の上から陸へと移り、青丘の草原を駆けていると、彼らはどんな悩みも途端に霧散することが出来た。
 上になり、下になり、転げ回って遊びまくる彼らに、二人の姉である江厭離が呼び掛ける。
 彼女は純白の毛皮を持つ九尾狐でも珍しい白狐で、既に天界の一族である鳳凰族の金子軒に嫁ぐことが決まっていた。
「阿羨、阿澄。二人共ふざけていないで戻って来なさい。父上がお話があるそうよ」
「師姉!」
「姉さんの前だと途端にいい子ぶりやがって」
「ほら、喧嘩しないの。二人共、もう立派な大人なんだから」
 江厭離を間に挟み、三人は狐帝の住処である狐狸洞へ向かう。
 彼らは狐の習性を持つから、湿って暗い洞穴を何より好んだ。
 蝋燭の灯りがともる岩穴の中を進むと、江楓眠とその夫人、虞紫鳶が子どもたちを待っている。
 三人は父母の前に進み出ると膝をついて拱手し、畏敬の念を表した。
「父上、母上、お呼びですか?」
「江おじさん、虞夫人」
「来たな。まあ、座れ」
 狐帝が二人を呼んだ話とは近々天界で開かれる立太子の祝辞についてだった。
 青丘も出席すると聞き、子狐二匹の顔色が血色良くなる。
「立太子?」
「確か天帝には二人の息子がいたろ」
「ああ、兄の方は藍曦臣。そして弟は藍忘機だ」
「ほらほら、私の話をまずは聞きなさい」
 天帝の息子二人は双子のように良く似た外見を持つ兄弟で、その美貌は広く四海八荒にも伝わっていた。
「藍の兄弟は美しすぎて、彼らが歩いて来るだけで絶えず花の匂いがするんですってね」
「一生懸命衣服に香を焚きしめてるんだろ」
「そうだよ、姉さん。男が花のにおいなんてしなくていいってば」
「二人共止めなさい。でも楓眠、立太子と言うことは、とうとうどちらが天帝の跡を継ぐか決まったってことなのね」
「ああ、後継ぎは長子の藍曦臣だ。今生の天帝は運が良い。どちらを跡継ぎに据えても遜色ない優秀さだ」
「ふうん」
 天族の兄弟など微塵も興味はないが、二人共これはようやく訪れた絶好の機会だと思っていた。
 彼らの寝室に戻り、二人で寝台に寝そべって藍の兄弟のどちらに迷魂術をかけるか話し合う。
「それは当然、長子で太子の藍曦臣は、年上の俺が狙うに決まってるだろう」
「馬鹿言え、魏無羨。相手は天帝を継ぐ身だぞ。ならば狐帝の跡継ぎである俺が藍曦臣で、お前は次男の藍忘機だ」
「江澄、藍曦臣、藍忘機兄弟の霊力は父祖の生まれ変わりかと思われるほどの評判らしいぞ。そんな相手にお前の迷魂術が通用するか? 何なら俺に懸けてみろ」
「言ったな」
 江澄が悔しまみれに右手の指をくねくねと折り曲げる。
 迷魂術を懸ける時の印なのだが、どちらもこの術を懸けた後の結果は冗談じゃ済まなくなることは重々承知だから、江澄の瞳が妖しい紫色に変わったところで止めておいた。
 迷魂術とは懸けた相手を意のままに操り、自身の虜としてしまう孤族がもっとも得意とする術だが、半端な力量で相手を虜にしようとすると、術が跳ね返って、自分自身に迷魂術が懸かってしまう。
 この迷魂術を使って天帝の息子二人を騙し、恥をかかせようと二人で画策しているのである。
 魏無羨の隣に寝そべり、江澄は彼の顔をじっと見た。
 視線を感じ、魏無羨がそちらを向くと、すぐに目を逸らし、見て見ぬふりで天井を見つめる彼を見る。
 いつだって素直になれない江澄らしい仕草だなと思った。
「どうした、兄弟ションディー、まさか俺達の婚姻話を本気にしたわけじゃないだろうな」
「いつも言ってるだろ。誰がお前なんかと結婚するか」
「俺だって同感さ。でも江おじさんにお前を託されたら、俺はお前を俺の妻にするつもりだ」
「お前が俺の妻だろう」
「どっちでもいいさ。俺は江おじさんに恩がある。一生賭けても返せないほどの恩がな」
「それじゃまるでお前が自分を犠牲にして俺を娶るみたいじゃないか」
「そうさ。その通り」
 この言葉にぶち切れた江澄が魏無羨の髪をワシャワシャと掻き回す。
「試しにしてみるか?」
「何を」
「そりゃ、恋人同士がすることさ」
「馬鹿言え。気色悪い」
「口付けだけ。予行練習的なもので」
「………」
 どちらともなく顔を近づけ、唇を重ね合ったが、微妙な感じしかせず、やっぱり無理だと悟っただけだった。
「安心しろ、江澄。お前の相手は俺じゃない。俺がちゃんとお前に相応しい相手を見つけて幸せにしてやる」
 魏無羨のその言葉は江澄にどんな感情を齎したのかは不明だが、ひとまず義兄弟への好意だけは失わなかったらしい。
 魏無羨に身を擦り寄せ、鼻を押し当てて目を瞑る江澄を見、兄の目線で可愛いなと思ってしまった。
「魏無羨、約束だぞ」
「ん?」
「俺達はずっと離れない。お前は俺のそばで、俺はお前の主だ」
「はいはい。将来の狐帝様だからな。良いから寝ようぜ。明日から迷魂術の特訓を始めよう」
「うん」
 いよいよ天界へと魏無羨が乗り込む日がやって来た。
 母の仇は討ちたいが、青丘に迷惑はかけられない。
(龍族の兄弟は、真っ白で白兎みたいな外見だといつか聞いたな)
 か弱い兎など、彼ら捕食者にとっては、丸呑みする哀れな犠牲者に過ぎない。
 既に寝入ってしまった江澄の身体を抱き、魏無羨も夢の中へと入って行った。
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