風信✕慕情

「お前はこの人が零落れればいいと思ってるんだろう!」

 これまで何度も誹りは受けてきたし、それが風信なら本当に数え切れない程の罵倒を浴びせられて来たが、この一言は慕情の心に突き刺さり、彼のことを、そして発端となった謝憐のことを本気で憎んでしまった。
 慕情を侮辱したのは風信で謝憐はまったくのとばっちりだが、慕情と風信と言う相性の悪い二人を引き合わせてしまったのは謝憐だ。
 彼が三度目の飛翔を果たすまではまだ良かった。
 風信は下界で過ごすことが多かったし、会わずにいようと思えば殆ど顔を合わせずに済んだ。
 それが謝憐が再び、天界に戻って来たおかげで何かと神武殿にて招集がかけられ、必然的に風信と顔を合わせる頻度も上がってしまった。
 すっかり気分が腐ってしまった慕情は部下に「少し出て来る」と言い置くと、そのまま天界の門へと続き、下界へ飛来した。
 九天には昼と晴天しかなく、久し振りの夜空を眺めながら地上へと降り立ち、そよぐ風の心地好さに生きている実感を受ける。
 降り立った先は謝憐のおんぼろな道観のそばだった。
 特に願ったわけでもないのだが、ひょっとしたら落ちていく間、ずっと昔のことを考えていたせいかも知れない。
───本当に疫病神だな
 などと考えながら、道観の方へと一歩近付いた慕情だが、不意の殺意を感じて咄嗟に跳ねると銀色の光りもまた彼を追って方向を変え、切っ先を慕情に向けて飛び掛かって来た。
 花城の愛刀、湾刀厄命だ。
 寸でのところでひらりと躱し、二戟目は自身の剣ではじいたが、キンッと鳴った音が室内にも聞こえたのか、道観の扉が開き、灯りに照らされた謝憐の白い姿が浮かび上がった。
「兄さん、どうかした?」
 白々しい花城の声が中から聞こえる。
 どうやら運の悪いことに、たまたま訪れてしまった謝憐の道観に、これまたたまたま運の悪いことに花城もいたらしく、こうして湾刀厄命の歓迎を受けている。そう言うことらしい。
(まったく、太子殿下、あなたと言う人は本当に疫病神だ)
 そう吐き捨て、慕情は剣戟が謝憐の耳に届かないところまで厄命を引きつけ、そこで花城の操る刀に応戦し始めたが、腹の立つことに刀の持ち主がこの場にいないにも関わらず、厄命の攻撃を受けるのがやっとで応酬などしている余裕がなかった。
 大体、操り手がこの場にいないのに、どうやってこの刀を止めれば良いのかも分からない。
「三郎、どこからか剣戟の音が聞こえないか? 近くで誰かが襲われてるのでは?」事情がわからない謝憐の間抜けた質問も腹立たしい。
「剣戟? 俺には聞こえないけれど。それに闘っているなら、怒声や野次が聞こえても良さそうじゃない?」
「そうだけど……」
「風邪を引くから、扉を閉めよう」
 どこまでも白々しい花城の言い草に慕情は厄命を直に掴んで彼の元へ突き付けたくなったが、そもそもこの刀を掴むことさえ彼には無理だ。
「……つ…っ……!」
 とうとう厄命の攻撃が慕情を捕らえ、彼の衣服ごと肌を掠め、血の雫を暗闇に花のように散らした。
 攻撃で態勢を崩し、木の枝から落ちそうになった慕情に鬼王の刃が躊躇うことなく向かって来る。
 眼球狙って飛び込んで来る厄命の白い光りに目を凝らし、落ちながら剣を持ち替えた慕情だが、意外なところから救出の手が差し伸べられた。
 金色に輝く鋭い矢が宙を裂き、慕情へ迫る厄命の刀身を弾き、弓矢の攻撃で逸れた厄命が再び狙いを慕情へ変える。
 盾、と呪を唱えかけた慕情の身体は誰かに掴まれ、そして天高く抱え上げられた。
 風のように万里を奔り、さしもの厄命も届かない場所へと連れ出された慕情は、ようやくその捕食者の腕から解き放たれる。
 無情に岩場に彼の身体を投げ落とした救出者とは──。
 慕情が気分を害し、気分転換に天界を抜け出すきっかけを作った当人、風信だった。
「何を考えている」
「そっちこそ」
 開口一番、喧嘩腰で文句を言い出す風信に、慕情もついつい売り言葉に買い言葉で喧嘩腰で返してしまった。
 おそらく風信も慕情との口論で謝憐のことを思い出し、彼の道観を覗いて見ようと言う気になったのだろう。
 慕情と風信は性格の相性は悪いくせに、謝憐に対しての思考回路はどうも似通っているようで、かつての上司絡みだとこうして会いたくもない相手としょっちゅう顔を合わせてしまう。
「殿下はお前になど会いたくない筈だ」
「俺がそうならお前だってそうだ」
「俺は違う」
「何が違う」
 いがみ合ったところで、彼らは鬼王よりも謝憐から歓待されやしない。
 二人ともそれがわかっているからこその腹立たしさを互いに罵り合うことで埋め合わせていた。
「何故、血雨探花が謝憐と共にいる」
「太子殿下だ。お前が呼び捨てにして良い人じゃない。誰のおかげで点将出来たと思っている」
「自分自身の力だ! 確かにお前も俺もあの人に恩義はある。昔の恩義のことなら、その分の献身は充分に果たしただろう。俺は俺自身の力で天劫を乗り越え、今の地位を得た! 殿下の世話にはなっていない!」
「殿下から修行の場を奪い、得た力でだろう! 大体、殿下を裏切ったお前が何故、あの人の道観を訪ねて来る」
「お前が言えた義理か!」
 とうとうまた殴り合いを始めた慕情と風信だが、慕情の顔面を殴った風信は彼の衣の袖が切れて肌が見え、出血していることにようやく気が付いた。
 殴り返そうとする慕情の手を止め、「斬られてるじゃないか!」と慌てて傷の手当てに入る。
 サッと掠めただけと思っていたが、さすがは花城の刀である。
 傷口は深く、血を止めようにもなかなか傷口は塞がってくれなかった。
「奴とやり合ったのか」
 そう問う風信の質問に慕情は苦笑で応える事しか出来なかった。
 果たしてあれをやり合ったと言えるのか。
 刀を操る当人は道観で謝憐と談笑しており、遠方にいる襲撃者を片手間に相手にしていたに過ぎない。
 武官の慕情相手にそんなふざけた対応なのだから、鬼王閣下とやらの実力は計り知れず、慕情からそれを聞いた風信もさっきの喧嘩の勢いはすっかり萎えてしまっていた。
「大体、なんで殿下の道観を訪ねようなんて」
「別に。あの人がどんな顔であの崩れ落ちそうな道観で過ごしているのか見たかっただけだ」
「お前は相変わらず──」
 慕情の捻くれた物言いは今に始まったことじゃない。
 謝憐なら彼の性格は心得ているし、右から左に聞き流すことも出来るが、生真面目で融通の効かない風信はそうも行かず、何かと反論してくる為、彼らの間の喧嘩は絶えなかった。
 とは言え、風信も慕情の腕前は認めてはいるから、その彼が為す術もなく、厄命に追われ、危うく命を落としかけたことを他人事とも思えないのだろう。
 慕情の傷口の応急手当を済ませると、彼にしては珍しく慕情が立ち上がる為に手を貸してくれた。普段の慕情ならすかさずその手を払うところだが、今晩は素直に好意を受けとめることにした。
「南陽」
「ん?」
 色黒の、濃い眉の下にある瞳が、慕情を真っ直ぐに見つめる。
 彼らの関係は八百年前も変わらず、そして八百年経った今も変わるどころか悪化し続けている。
 風信の目にあるのは慕情への蔑視の感情だし、きっと慕情の目の中に映る感情も風信への苛立ちしか見えないに違いない。
 不毛すぎるこの関係に慕情は溜息しか出て来ず、風信は風信でそれを自分への不満と受け取って唇をへの字に曲げた。
「──お前は何故、それ程までに俺を憎む」
「お前を憎んでいるわけじゃない。お前の態度の問題だ。いつもいつも俺や殿下を馬鹿にした様な口を聞くが、お前はそんなに偉いのかといつも言ってるだろう」
「では逆に聞くが、俺はいつまで殿下の下働きの扱いを受けねばならん。百歩譲って、殿下が俺に対し、苦言を呈するなら我慢するが、お前の立場は昔から俺と変わらんだろう」
「────」
「都合が悪くなると黙りか。自分は人を見下し、卑下しているくせに、俺がお前に頭を下げねば非礼だと難癖つける。お前こそどれだけ偉いつもりなんだ」
「……」
 まったく、風信相手だと殴り合いでは互角でも、口喧嘩は全然面白くない。
 そもそも風信の語彙力が足りなすぎて慕情の相手になどならないのだ。
「──傷の手当てには感謝する」
「手当てだけか? 湾刀厄命から救ってやったことは帳消しか」
「───」
「お前こそ、都合が悪くなると黙りじゃないか」
「黙れ」
「玄真」
 呼び止められたが慕情は振り返らずに風信を置いてこの場を去ろうと思っていた。これ以上彼といたってお互い苛ついて心が燻るだけだ。
 しかし風信が
「慕情」
と呼んだ為に、慕情の足は自然と止まってしまった。
「さっきの話。俺は上手く伝えることが昔から苦手だから、お前にそんな感情を抱かせていたのなら、済まなかった。そんなつもりでお前と接してるわけじゃない」
「───」
「殿下のことも──。俺たちどちらにも非があり、殿下自身にも非があったと思ってる。お前だけを責めているつもりはない。そう思わせたのなら済まなかった」
「────」
 せっかく風信が歩み寄ってくれているのに慕情は彼に返事をすることが出来なかった。
 風信の性格を考えれば非を認めるなんて相当自分を抑えて口にしたと思う。
 それなのに───。
(都合が悪くなると黙りか)
そう慕情は自分自身へ突っ込んでしまう。
「風信」
「なんだ」
 感謝の言葉は口に出来なかったが、代わりに「礼は返す」とだけぽつりと伝えて置いた。
 それが慕情の精一杯の謝罪で、精一杯の好意だ。
 おそらく風信もそれに気が付いているから、「礼などいらん」と言い、二人は同じ天界に帰るのにまったく別の方角から帰って行った。
 帰り際、慕情は懲りずに菩薺観へ寄って見た。
 灯りの消えた道観の前に花城が立っており、近寄る事は出来なかったが、今度は厄命が慕情に襲いかかって来ることもなかった。
「さっさと天界へ帰れ」
 慕情の姿は花城に見えていない筈だが、宵闇に向かって彼が話し掛けて来る。
「血雨探花。お前こそ、さっさと鬼界へ帰れ。ここはお前の様な絶の鬼が来るべき場所じゃない」
「殿下がそう言うなら従うさ」
「殿下? 随分と馴れ馴れしいんだな」
「そりゃあんたらよりは、俺の方があの人に対して誠実だからな」
「なっ……」
 ムカッときたが、慕情のその手を誰かが掴んだ。
 去ったと思った風信だった。
「帰るぞ」
「───」
 菩薺観を後にし、月に向かって飛翔する彼らに下界から花城がひらひらと調子良く白い手のひらを振っている。
「いい加減、離せ」
「誰が掴みたくて掴んでると思ってる。玄真、俺に感謝する件がもう一つ増えたな」
 さっきは慕情と呼んだのに、今度は玄真、かと。
 慕情の手を握る風信を見つめながら思ってしまった。
 それは別として風信に少しでも自分を気遣う気持ちがあったのかとこそばゆい様な、そんな奇妙な感情が慕情にも湧いて来た。

「なあ、南陽。お前はどう思った」
「何がだ」
「謝憐だ」
 懲りずにまた名で呼ぶかと眉間に皺を寄せる風信は気にせず、慕情は腕を組み、考える。
「俺も殿下も同門の修行を受けている」
「それがなんだ」
「謝憐と血雨探花がどんな関係かは、敢えて口にしない。が、俺もあの人も穢れを知れば法力が落ちる」
「は?! そ、そ、それをなんで俺に聞く」
 別に。ふと疑問に思っただけだ。
 問うた慕情だって答えが知りたいわけじゃない。
 風信は憤って自分の殿へと帰ってしまったが、彼の後ろ姿を目で追いながら慕情は考える。
 明るい陽射しに全てを晒されるより、闇の中の方が心地良く感じることもある。
「───殿下、あなたの心に闇はあるのでしょうか」
 慕情の心の中には闇はある。
 長い付き合いだがおそらく風信にはわからないだろう。
 むしろわからなくて良い。
 そう思った慕情は無意識に笑みをこぼし、腐れ縁の相手の馬鹿正直さを笑い、そして風信に掴まれた腕をそっと撫でさすった。

20240515
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