身は無間 心は桃源
お前は本当に役立たずだな!
神とか言ったってお前みたいな様になったら、生きてる意味がねえだろう!
いつ、誰に言われた言葉なのか。
似たような言葉を昔、何度も投げつけられた為、謝憐の心は麻痺して「役立たず」を理解することさえしなくなってしまった。
そして二百年も経つと、もはや彼のことを「役立たず」と呼ぶ者さえ、下界ではいなくなってしまった。
仙楽国の太子殿下。
尊い身であり、天の寵児。
飛翔する姿は神々しく、花冠武神の名に恥じない、天下無双の剣の達人だ。
ごろりとゴザの上に横たわり、謝憐が浮かべた自虐の嘲笑を花城は見逃さなかった。
けしてか弱くはない、八百年もの間、自身が犯した罪を背負い、一人で彷徨う謝憐の背に、花城は手を伸ばしかけて途中で止めた。
「兄さん、風邪を引くよ」
「大丈夫。熱を出したところでどうせ私は死なないから。あ、それとも三郎、きみが寒いのかい?」
「俺が?」
絶境鬼王、血雨探花である花城が何故、夜気を寒いと感じるのか。
そもそも彼は鬼なのだから、死人が寒さなど感じる筈もない。
「寒いと言うなら、心が寒いかな」
「またそんな冗談」
「冗談だと思う?」
ようやく普段の笑い顔になってくれた謝憐を見、花城の口許にも笑みがのぽる。
愛しくて───。
何より気高い、彼が信じる唯一無二の存在だ。
「絶境鬼王、花城の心が寒いのだとしたら、何で埋め合わせればきみの心は温まるのかな」
「別に温めなくても大丈夫。俺の中には何百年と変わらない想いがあるから」
「へえ?」
「兄さんの中にもあるでしょ?」
「私の中かい?」
「──私は衆生を救いたい」
半月がバラしてしまったかつて花将軍が口にした言葉をそのまま言うと、謝憐は悶絶し、手足をバタバタさせて顔を覆ってしまった。
花城がまだ生きて血を流す身体だった頃。
天から落ちてきた子供を救った仙楽国の太子殿下は光り輝いて、眩しく、紅紅児と呼ばれていた子供は目映いのに目を逸らすことが出来なかった。
太子殿下は犯しがたい聖域で、いついかなる時も楚々とした微笑を浮かべ、慈悲深い瞳で紅紅児を見つめ、そして優しく「大丈夫だ、心配いらない」と繰り返し、彼の背を叩いてくれた。
その人がいま自分の前で子供みたいにじたばたと藻搔き、拗ねて、唇を尖らせているのが何とも言えず、おかしくて笑いが込み上げる。
「あ、三郎、笑ったな!」
「笑ってないよ」
「分かってるよ。私だって、自分がどれだけばかばかしいかちゃんと理解している。でもその時、その時、それなりに一生懸命だったんだ。私なりに精一杯やったんだよ」
「知ってる」
花城の「知ってる」には非常に様々な意味合いが含まれていたのだが、何も知らない謝憐は納得せずに唇を尖らせたままだった。
「兄さんは、何でも出来る。誰も兄さんほど立派にやり遂げることなんて出来やしない」
「三郎、きみの口から出たんじゃなければそれって嫌味にしか取れないよ」
「本当だよ。兄さん、俺のこと、信じられない?」
「んー」
謝憐の目は「信じられない」と言い切っていたが、彼の奥ゆかしい性格がそれを口に出すことはしなかった。
(本当に俺は知ってるんだ、兄さん)
天井を見つめる謝憐の横顔を眺めながら、花城は心の内でそっと呟く。
紅紅児が出会ったばかりの頃の謝憐は自信に充ち満ちて、彼自身が自分のことを信じ切っていた。
だからこそ皆、彼に惹かれ、その神々しさに平伏していたのだが、仙楽国の傾きと共に、信者の心は離れ、そして謝憐自身も自分を信じられなくなって行った。
花城はその謝憐の姿を全てではないものの、彼の像が壊され、道観が焼かれるのを見て知り尽くしている。
仙楽太子への人々の罵倒は耳を塞ぎたくなるもので、彼への侮辱を聞く度に、紅紅児はその相手に飛び掛かって行ったが、全ての口を塞ぐことは出来なかった。
身は無間。
心は桃源。
かつて謝憐が口にした言葉だが、一番そのことを後悔しているのは、自身の高慢さに呆れているのは、謝憐に他ならなかった。
そのことが花城は苦しくてたまらない。
「兄さん、自分を不安に思わないで」
「三郎……、私なら大丈夫。ガラクタの神も皆、同じ神だ。心配してくれてありがとう」
「───」
嘘だよね、と花城もそれ以上は言わず、口を噤む。
謝憐に追いつき、やっとその手を掴むことが出来たと思っていたのに、どうやら花城の努力はまだまだ足りないらしい。
謝憐に不安を抱かせず、かつての自信に満ちた彼の姿を取り戻す為に、自分はどうしたら良いのか。
「兄さん」
「もう寝たから話し掛けないで」
「うん……」
忘れないで、と花城は幾度も謝憐の背中に無言で語り掛ける。
あなたに対して、一番誠実なのはこの俺だ。
指先で謝憐の髪の付近をなぞり、その感触を想像し、狂おしい程、愛しくてたまらない背中に熱のこもった視線を送る。
二度と、誰にも、この人を傷つけさせない。
花城の瞳が紅く染まったが、彼が瞼を閉じると共にその熱も引いて行く。
明日は、謝憐の為に花を摘んで来ようと思う。
仄かな甘い香りを放ち、純白の雪のような。
小さな子供が賢明にその花を摘む姿が花城の瞼の裏に浮かんだが、彼は一瞬でその幻を消し去り、今度こそ本当に眠りについた。
謝憐の呼吸に合わせ、深い淵へと降りて行く。
夢の中では彼の手をしっかり握り、そして謝憐の細い身体を自分の懐に抱き締める。
二度とその身が穢れぬ様に。
優しく、力強く。
謝憐を護る盾となり、自身の身体を泡沫に変え、消え去ったとしても未練はない。
それが三郎の──花城の嘘偽りない何よりの願いだった。
終わり
20240504
神とか言ったってお前みたいな様になったら、生きてる意味がねえだろう!
いつ、誰に言われた言葉なのか。
似たような言葉を昔、何度も投げつけられた為、謝憐の心は麻痺して「役立たず」を理解することさえしなくなってしまった。
そして二百年も経つと、もはや彼のことを「役立たず」と呼ぶ者さえ、下界ではいなくなってしまった。
仙楽国の太子殿下。
尊い身であり、天の寵児。
飛翔する姿は神々しく、花冠武神の名に恥じない、天下無双の剣の達人だ。
ごろりとゴザの上に横たわり、謝憐が浮かべた自虐の嘲笑を花城は見逃さなかった。
けしてか弱くはない、八百年もの間、自身が犯した罪を背負い、一人で彷徨う謝憐の背に、花城は手を伸ばしかけて途中で止めた。
「兄さん、風邪を引くよ」
「大丈夫。熱を出したところでどうせ私は死なないから。あ、それとも三郎、きみが寒いのかい?」
「俺が?」
絶境鬼王、血雨探花である花城が何故、夜気を寒いと感じるのか。
そもそも彼は鬼なのだから、死人が寒さなど感じる筈もない。
「寒いと言うなら、心が寒いかな」
「またそんな冗談」
「冗談だと思う?」
ようやく普段の笑い顔になってくれた謝憐を見、花城の口許にも笑みがのぽる。
愛しくて───。
何より気高い、彼が信じる唯一無二の存在だ。
「絶境鬼王、花城の心が寒いのだとしたら、何で埋め合わせればきみの心は温まるのかな」
「別に温めなくても大丈夫。俺の中には何百年と変わらない想いがあるから」
「へえ?」
「兄さんの中にもあるでしょ?」
「私の中かい?」
「──私は衆生を救いたい」
半月がバラしてしまったかつて花将軍が口にした言葉をそのまま言うと、謝憐は悶絶し、手足をバタバタさせて顔を覆ってしまった。
花城がまだ生きて血を流す身体だった頃。
天から落ちてきた子供を救った仙楽国の太子殿下は光り輝いて、眩しく、紅紅児と呼ばれていた子供は目映いのに目を逸らすことが出来なかった。
太子殿下は犯しがたい聖域で、いついかなる時も楚々とした微笑を浮かべ、慈悲深い瞳で紅紅児を見つめ、そして優しく「大丈夫だ、心配いらない」と繰り返し、彼の背を叩いてくれた。
その人がいま自分の前で子供みたいにじたばたと藻搔き、拗ねて、唇を尖らせているのが何とも言えず、おかしくて笑いが込み上げる。
「あ、三郎、笑ったな!」
「笑ってないよ」
「分かってるよ。私だって、自分がどれだけばかばかしいかちゃんと理解している。でもその時、その時、それなりに一生懸命だったんだ。私なりに精一杯やったんだよ」
「知ってる」
花城の「知ってる」には非常に様々な意味合いが含まれていたのだが、何も知らない謝憐は納得せずに唇を尖らせたままだった。
「兄さんは、何でも出来る。誰も兄さんほど立派にやり遂げることなんて出来やしない」
「三郎、きみの口から出たんじゃなければそれって嫌味にしか取れないよ」
「本当だよ。兄さん、俺のこと、信じられない?」
「んー」
謝憐の目は「信じられない」と言い切っていたが、彼の奥ゆかしい性格がそれを口に出すことはしなかった。
(本当に俺は知ってるんだ、兄さん)
天井を見つめる謝憐の横顔を眺めながら、花城は心の内でそっと呟く。
紅紅児が出会ったばかりの頃の謝憐は自信に充ち満ちて、彼自身が自分のことを信じ切っていた。
だからこそ皆、彼に惹かれ、その神々しさに平伏していたのだが、仙楽国の傾きと共に、信者の心は離れ、そして謝憐自身も自分を信じられなくなって行った。
花城はその謝憐の姿を全てではないものの、彼の像が壊され、道観が焼かれるのを見て知り尽くしている。
仙楽太子への人々の罵倒は耳を塞ぎたくなるもので、彼への侮辱を聞く度に、紅紅児はその相手に飛び掛かって行ったが、全ての口を塞ぐことは出来なかった。
身は無間。
心は桃源。
かつて謝憐が口にした言葉だが、一番そのことを後悔しているのは、自身の高慢さに呆れているのは、謝憐に他ならなかった。
そのことが花城は苦しくてたまらない。
「兄さん、自分を不安に思わないで」
「三郎……、私なら大丈夫。ガラクタの神も皆、同じ神だ。心配してくれてありがとう」
「───」
嘘だよね、と花城もそれ以上は言わず、口を噤む。
謝憐に追いつき、やっとその手を掴むことが出来たと思っていたのに、どうやら花城の努力はまだまだ足りないらしい。
謝憐に不安を抱かせず、かつての自信に満ちた彼の姿を取り戻す為に、自分はどうしたら良いのか。
「兄さん」
「もう寝たから話し掛けないで」
「うん……」
忘れないで、と花城は幾度も謝憐の背中に無言で語り掛ける。
あなたに対して、一番誠実なのはこの俺だ。
指先で謝憐の髪の付近をなぞり、その感触を想像し、狂おしい程、愛しくてたまらない背中に熱のこもった視線を送る。
二度と、誰にも、この人を傷つけさせない。
花城の瞳が紅く染まったが、彼が瞼を閉じると共にその熱も引いて行く。
明日は、謝憐の為に花を摘んで来ようと思う。
仄かな甘い香りを放ち、純白の雪のような。
小さな子供が賢明にその花を摘む姿が花城の瞼の裏に浮かんだが、彼は一瞬でその幻を消し去り、今度こそ本当に眠りについた。
謝憐の呼吸に合わせ、深い淵へと降りて行く。
夢の中では彼の手をしっかり握り、そして謝憐の細い身体を自分の懐に抱き締める。
二度とその身が穢れぬ様に。
優しく、力強く。
謝憐を護る盾となり、自身の身体を泡沫に変え、消え去ったとしても未練はない。
それが三郎の──花城の嘘偽りない何よりの願いだった。
終わり
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