花憐短編

花城のひよこ


 花城が鶏を二羽抱っこして菩薺観を訪れた。
 どうして鶏?と問えば、「だって、兄さんが卵を食べたいと言ったから」と答える。
 謝憐自身さえ覚えていないような戯言を本気にし、鬼王閣下自ら、バタバタ動く鶏を二羽も抱えて彼のもとを訪れてくれたらしい。
 嘴で手を突かれているし、花城はまるで痛みを感じていないようだが───。
 何ともご苦労さまなことだ。
 そう思うと急に笑いが込み上げた。
 でも確かにいつもの食卓に卵がのぼれば変化のない日々にも彩りが加わる。
 菩薺村は呑気でのどかな田舎町で特産の白慈姑は豊富に取れるが、見方を変えれば、村人が持ってきてくれるお供え物も白慈姑が大半を占める。
 贅沢は言わない謝憐だが、「たまには卵が食べたいなー」と呟いてしまったのも無理もないだろう。
 それにこの単調な暮らしに、鶏二羽と言う同居人が加わるのは大歓迎だった。

「三郎、そんなに大きな木をどうするつもりだ?」
「まあ、見ててよ」

 得意満面に花城は口角を持ち上げて笑うと、紅い衣を脱ぎ、白衣だけの姿になって早速、手際良く一本の大木を木材へと切り分ける。
 板状にした材木をとんてんてんと軽快な音を立てて、釘を打ち付け、あっという間に鶏のための柵が庭の一画に完成してしまった。
 これには謝憐も思わず拍手喝采してしまい、心なしか、片方の眉を持ち上げる花城も得意げに見える。
 菩薺観を修繕した時もそうだったが、彼は本当に鬼にしておくのが勿体ない。
 とは言え、絶境鬼王で天界でも怖れられている彼が突然大工になど転職したらそれこそ驚天動地の事件に発展してしまうだろう。
 彼の多才な才能を大工のような俗な仕事で埋没させてしまうのはそれこそ宝の持ち腐れだ。
 自分はどうかと言うと謝憐も苦笑いしかないが、紆余曲折経た今はきらびやかな仙楽太子でいるよりもがらくたの神として人界で人と触れ合い、のんびり暮らす方が性に合っていた。

「兄さん、また変なこと考えてたでしょ」
「違うよ。三郎、きみは私の心が読めるのか」
「読めるさ。ねえ、それよりここ」
「ん?」

 花城は悪戯っぽく笑って手招きし、今しがた作ったばかりの柵を指先で叩いて指し示す。

「ここで鶏を飼うんだよ。世話は兄さんに任せたからね」
「勿論だ。あ、でも私は家を空けることが多い。何日も餌をあげなければこの子たちが死んでしまう」
「鶏二羽ぐらい、誰かに頼んで世話をして貰えばいいでしょ。大丈夫さ、産んだ卵は好きにして良いと言えば、喜んで面倒見てくれるよ」

 それもそうか。
 花城に「大丈夫」と言われると本当に何でも大丈夫な気がしてくる。
 うん、うんと頷く謝憐の様子に彼もにっこりと鬼らしからぬ陽気な笑顔を見せた。

「安心して。確かに私は少々、おっちょこちょいだが、きみから貰った鶏は大切に育てる」
「兄さんは誰にでも公平でどんな些細な命だろうと大切にする。礼儀と礼節を重んじる高潔な太子殿下だ。信用しないわけがない」
「うーん、馬鹿にされている様に聞こえるのは気のせいか」
「そう? だとしたら謝るよ、ごめん」
「ち、違うよ、三郎。冗談だってば。だってほら、私は三界の笑い者で、慕情と風信なんてあの調子だし」
「だとしたら俺がそいつらと落とし前をつける」
「三郎……、参ったな」

 どうも彼に「太子殿下」と呼ばれるのは慣れなくて擽ったい。
 やっぱり彼には太子殿下のよりも、兄さんと気さくに呼んで欲しい。

「兄さん?」

 また心を読まれた訳でもないだろうに花城に「兄さん」と呼ばれ、謝憐は驚いて頬がかーっと熱くなってしまう。
 照れくささを隠すために後ろを向いたのだが、その謝憐の肩を花城がつんと小枝で突いた為、振り返ると顔面近くに鶏の巨大な顔があった。
 ものすごい近距離で「コケコッコー!」と鳴かれ、謝憐はもうあたふたと狼狽えてしまい、腰を抜かして尻餅をついてしまった。

「もう、三郎!」
「はは、ごめん、ごめん」

 絶対、こんな顔で笑う絶の鬼なんて存在する筈がない。
 謝憐がムキになって立ち上がった為、花城はさっさと観念して白旗を揚げ、謝憐に両の手のひらを向けて見せた。
 これでは怒れない。

「兄さん、鶏に名前をつけてよ」
「鶏鳴と而起(鶏の鳴き声と共に起きる)」

 どうやらこの冗談は受けずに滑ったらしい。

「だったら三郎がつけて」
「じゃあ、紅紅と憐憐」
「鶏に私の名前をつけるのか。じゃあ、雌鶏を紅紅にするよ?」
「兄さんの好きな方で」

 何がおかしいのかクスクス笑う花城を睨むと彼が頬に口付けをする。
 どうにもこう言う行為に慣れない謝憐は咄嗟に身を引いてしまい、彼を傷付けたかと思ったが、花城の反応はいつもの彼だった。

「大切に育ててね」

などと呑気なことを言っている。
 謝憐は先程の口付けだけでそわそわと落ち着かない気分で居たたまれずにいるのにあんまりだ。

「うん。三郎のおかげで明日から卵が食べられるな。きみに感謝するよ」
「俺に感謝はいらない。ねえ、兄さん。鶏はすぐにたまごを産まないかも知れない。長めの針はない?」
「針? 裁縫でもするのかい?」
「ちょっとこいつをね」

 鶏を指差す花城に疑問符を抱きながら、謝憐は道観の中から糸と針を探し当てる。
 ここでは何もかも自分でやらねばならない為、繕い物も当然、自分でやるが謝憐は自慢ではないが針仕事も苦手だ。

「繕い物があるのなら私がやろう」
「違うって。まあ、見ててよ」

 またそれか。
 しかしまたもや花城は多才振りを発揮し、雌鶏の背に針を何本か突き刺し、卵を産む為のツボを刺激し始めた。
 本当に彼は物知りだ。
 一体、こんな知識までどこから仕入れて来るのか真剣に疑問に思う。

「三郎、きみと鶏の図は、意外と絵になる」
「そう? じゃあ兄さんが俺を描いてくれる時は、この鶏のことも忘れないで」
「うん、うん。何なら明日にでも描いてきみに贈ろうか」
「それは嬉しい」

 ふふふ、と笑う花城を可愛いと思ったのは、彼には秘密だ。
 謝憐はまだ彼への想いを整理しきれないでいる。
 好きな気持ちは確かにあるが、恋人の様に振る舞うのは多分、この先何年かけても謝憐には無理なことだと思うのだ。
 花城もそんな彼のことを良く理解してくれるから、けして無理強いはしないし、謝憐に触れる時もすごく慎重になっているのが良く分かる。
 それが申し訳なくて、一層、どんな反応をして良いのか分からなくなってしまうのだ。

「疲れたな、兄さん。ちょっと休もうか」
「えっ?」
「だってほら、大工仕事を熟したし」
「ああ、じゃ、じゃあ、お湯…、お湯を沸かしてくるよ。体の汚れを落とさなきゃね」
「その前に心の疲れを癒したい」
「─────」

 おいおいおい、と心の中で突っ込みを入れたが、どうやらこの場を逃げ切るのは容易ではないようだ。
 謝憐が一歩、下がると花城も近付き、駆けて道観まで逃げたのに、悠々と歩いて来た彼に掴まって、寝台の上に転がされてしまった。
 ぎしっと音を立てて、謝憐の体の上に花城の重荷がのしかかる。
 間近で見る彼の朱色の唇に惹きつけられ、自分の欲情を垣間見てしまった謝憐は、恥ずかしさで花城の胸元に顔を埋めるよりなかった。

「兄さん、口付けをしても良い?」
「………」

 嫌だと言ったら止めるのか。
 当然、嫌だとは思わないし、かと言って、「全然大丈夫!」とも言えないしで、謝憐はやはり花城の胸に顔を押し当てるしかなく、返事がないのを同意と受け取ったのか、彼の指で顎を持ち上げられ、そしてふわっと軽く、優しい口付けをされた。
 それだけで気持ちが昂ぶって来てしまう。

「三郎……」
「もっと呼んで。兄さんの声で永遠に呼ばれたい」
「そんな…、永遠なんて重すぎるよ」
「そう? 俺は兄さんを、この先もずっと思い続ける。あなたの為に生きると決めたからね」
「三郎、それはもう止めろってば」

 あれは謝憐のとんだ勘違い時代で彼にとっては恥ずかしさ以外のなにものでもない。
 でもそれで救われる命があったのも事実で、あの一言が彼と花城を永遠に結び付けた。
 再び、花城の唇が触れ、今度は深く舌が入り込み、謝憐の息を飲みこみながら、しっかりと縺れ合う。
 衣服が脱がされ、肌に冷たい指が這う。
 我慢しきれずに声が洩れ、何かに縋りたい気持ちから花城の紅い衣服をぎゅっと握り締めた。

「兄さん」

 行為の間中、花城はいつも「兄さん」としか声を発しない。
 でもその呼び名の中に彼の想いのすべてが詰まっていて、謝憐の耳に届く度に、胸が締め付けられる。

「三郎……」

 そう呼び返すと行為の同意と受け取ったのか、熱く、猛々しいものが体内に入ってきて、謝憐はもう何も考えられずに思考を手放した。
 このまま彼と融けて一体になってしまいたい。
 時間も空間もすべて無と化しても構わないから、永遠に彼とだけ抱き合っていたかった。

 行為のお疲れでぐっすりと寝ていると、突然、外からけたたましい叫びと激しい羽音が聞こえ、謝憐は慌てて瞼をこじ開けた。
 一体、何がと確認する間もなく、隣で寝ていた花城が薄衣だけの姿で外に走って行く背中が見え、謝憐も慌てて乱れた衣服を身に着ける。

「三郎、何が?!」

と外に飛び出して見ると、花城が一匹の狼の喉元に爪を立て、忌々しげに舌打ちをしていた。
 足下には鶏の羽根が飛び散っている。
 何があったのか聞かずとも大体予測はついた。

「三郎、離してやりなさい。その狼は糧を得ようとしただけだ」
「………」
「三郎!」

 少し語気を強めると、花城は狼の死体を森の奥へと放り投げ、そして謝憐の顔が見られないのか背中を向けてしまった。
 多分、せっかく謝憐の為に持ってきた鶏がこんな早くに死んでしまったことに自責の念を感じているのだ。

「三郎、私なら大丈夫だから」

と声を掛けてやると、彼は握り拳を作り、やり切れなさに声を上げ、森の奥へと入ってしまった。
 仕方がないから紅紅と憐憐の亡骸を抱え、二羽の為の墓を作って埋めてやる。
 ふと囲いの中を見るとどうやら憐憐が卵を産んだ様で、小さく茶色い殻を被った丸い球体が地面に転がっているのを見つけてしまった。
 囲いの中へと入り、小さな卵を手の中に収める。
 白慈姑だけでは味気ないから、卵があればと思っていたが、親鳥の亡骸を埋めたすぐ後でこれを食糧にする気も失せ、花城が戻ったら彼に見せようと卓の上に置いて彼の帰りを待った。

「ごめん、兄さん。俺の考えが足りなかった」

 帰って来るなり、悄げて、ぼそりと反省の言葉を口にする花城に、謝憐は卓の上の卵を指差して教えてやる。

「きみの針治療が効いたんじゃないかな。憐憐が卵を産んでくれたみたいだ」
「雌鶏は紅紅じゃなかったの?」
「どっちでも良いよ。その卵はきみにあげる」
「兄さん」
「きみが連れて来てくれた子たちだから。きみが食べてあげて」

 そう謝憐が言うと、花城は子供の様に泣きそうな顔を見せたが、卵を手の中に入れるとそっと懐の中へと大切にしまい込んだ。
 そんな場所に入れては割れてしまうのではないかと心配だったが、どうやらその心配は無用のようだった。
 それからひと月程経っただろうか。
 花城は謝憐のそばを離れず、あの卵を温め続け、ある日突然、彼の衣服の中で小さな命がピヨピヨと産声を上げた。
 ちょうど謝憐手製のクソ不味い朝食を二人で食べていた時で、花城の袖から聞こえてくる雛鳥の鳴き声に、二人とも顔を見合わせ、大喜びしてしまった。

「良かったね、三郎。きみの雛鳥だ」
「これは兄さんのひよこだよ。今度こそ、野犬や狼に襲われない小屋を用意してあげなきゃな」
「うん」

 小さな命が無事生まれたことが喜ばしいのは勿論だが、花城は別の意味でもすごく喜んでいるようだった。
 鬼の彼の手から、新しい命が生まれたのだ。
 まるで謝憐との子供が生まれたかの様に花城は喜んで、幾度もひよこに口付けをしていた。
 そんな彼が愛しくてたまらない。
 ひよこと花城を見ている謝憐も幸せいっぱいだった。


終わり
20240310
[newpage]鬼の口付け


 八百年、成長がない、か───。
 いつだったか威容に言った自分の言葉を謝憐は思い返していた。

「私も人のことなど言えないな。八百年、何をしていたんだ」

 幼児を抱いた母親の死骸を埋める穴を掘っていると、黒い影が月の光を遮り、謝憐に訪問者の来訪を告げた。
 振り返らずとも何となく、彼だと思った。

「三郎?」

 姿を見ずに誰かか当てた謝憐の呼び掛けに、眼帯をした碧眼の鬼は嬉しそうに笑う。
 彼は謝憐が初見で会った少年とはまるで違う見た目だが、こうした笑みを見る度、三郎と花城の違いが分からなくなる。
 どちらも彼で、どちらも謝憐にとっては「三郎」だ。

「いま手が離せないから少し待っててね」
「そんなこと、俺にやらせれば良い。兄さん、穴から上がって」
「駄目だよ。この親子が亡くなったのは、私の責任だ。だからせめて亡骸だけでもちゃんと葬ってやらなきゃ」
「兄さんが殺したわけじゃない」

 謝憐は優しすぎる。
 母親に乱暴しようとした男を殺すことは出来ず、気絶させたままで道端に放置したままだ。
 あの男が気が付いて、背後から謝憐を襲ったらとか、彼はそんなことはまったく考えない。
 そのことが花城を苛つかせたようで、彼は軽い舌打ちをしてみせると、謝憐が掘る穴に降り、そして問答無用で彼から穴掘り用の枝を奪い、謝憐の体も穴の外へ出してしまった。

「三郎…!」
「兄さんはそいつが起きないか見張ってて。何なら、殺しちゃっても良いのに」
「それは───、」

 出来ないんだろう?
 肩を竦めた花城の目はそう代弁し、笑っていた。

「兄さん、もう自分を責めたりしないで」
「きみの気持ちは嬉しいけど、私がもう少し早く、悲鳴に気が付いて駆け付けることが出来ていたら」
「では兄さんに質問するけれど、この女の悲鳴が聞こえたから、兄さんは駆け付けた。でも悲鳴が聞こえなかったら?」
「────」
「兄さんが駆け付けなくてもこの女は死んでいた。兄さんが知らないところで今も別の誰かが死んでいる。そのすべての死に対して兄さんは罪を背負って贖罪して回るつもり」
「それは言い過ぎだよ、三郎。自分だって分かってる。でも目の前で死んだんだ。責任を感じて当然だろう」
「俺は何も感じない。この女の人生も、赤ん坊の人生も俺にはどうでもいい。いや、どうにも出来ないことだからね。兄さんは優しい人だけど、欲張りでもあるんだ」
「欲張りか。確かにそうかも知れないね」

 目に映る者すべてを救いたいなんて烏滸がましいと。
 そう花城は言いたいのだ。
 そんなこと帝君の君呉でも無理なことだし、謝憐以外の神官は八百年もかけずともとっくにその辺の折り合いはつけている。
 謝憐もさすがに救えない命があることの諦めはつくようになったが、それでも目の前で死者が出れば無感情ではいられなかった。
 花城は親子の埋葬をし終えた様で、手にした棒を放り投げ、地面に座る謝憐の隣へと立つ。
 ついでに気絶している男の命も葬ってやった様で、謝憐が気が付いた時には男から生気はまったく感じられなかった。
 これが花城の決着の付け方だ。
 殺したことで今後、この男に襲われる女を救えたし、男も自分の命で罪を償った。
 多分、正解は彼のやり方なのだろう。
 しかし謝憐は何百年経とうと、人の改心を諦めきれず、善人、悪人問わず、衆生を救いたい、そう思い続けている。

「あの男の墓も作ってやる? 兄さん」
「きみが嫌味を言うなんて。私のことが余程愚かに見えたんだろうな」
「まあね。でも、それが兄さんだ。兄さんのやりたい様にすれば良い。俺はいつも兄さんの味方だし」
「別に良い。どうせ三界の笑い物だ。天で嗤われ、人界で嗤われ、鬼のきみにも嗤われる。もう慣れたよ」
「兄さん」
「大丈夫。伊達に八百年も生きていない。少し嗤われたぐらいじゃ落ち込んだりしないし、親子が亡くなったのは哀しかったけど、きみが葬ってくれたし、この件には踏ん切りがついた。もう良いよ。解決だ」
「この男の死体は?」
「そのまま土に還らせる。生きて罪を贖うことがないのなら、せめて動物の糧となれば良い」
「さっきまで衆生を救いたいと言っていたのに」
「知らないのか、三郎。神の所業は時にとても残酷なんだ。そして私は三界の笑い物、疫病神でガラクタの神だ。私に関わるとろくなことにならないってことさ」
「兄さんの言う残酷なんて全然残酷のうちにも入らないけどね。俺ならどうすると思う?」
「きみなら千年の生き地獄に堕として死んだ後も苦しめるかな」
「まさか。残念ながら、さすがの俺でも死者の魂までは弄れないよ。だからそうだなぁ、凌遅刑で少しずつ肉を削いでいくやり方で殺すかな。でも兄さんがいたおかげであの男は意識を失った丸あの世へ逝けた。兄さんのおかげだよ」
「三郎、きみって本当に」
「ん?」

 本当に、口が達者だと言いたかったのだが、花城が身を屈めて、謝憐に顔を突き付けて来た為、慌てて逸らしてしまった。
 普段はちょっと手が触れただけでもすぐに離すくせに、自分から顔を近付けるなんて反則だ。
 彼の髪が謝憐の頬を掠め、その感触が残って頬に赤みが挿してしまう。
 さっきまで人の死を悼んでいたと言うのに、これだと自分でも呆れてしまった。

 そんな謝憐の気持ちを読んだのか、三郎は彼の指先に自分の指を少しだけ触れさせ、見上げてくる謝憐の瞳を見てくすりと笑う。
 ほんの少しの視線の交わりと肌の触れ合いだけだが、謝憐にとってはまるで彼に愛の言葉を囁かれ、甘い口付けを受けたように感じられた。
 花城にとってはどうなのだろう。
 そう思うと恥ずかしさが込み上げて来るが、居たたまれずに謝憐から視線を外すと、彼もちょっとだけ傷付いたようで触れた指を離してしまった。
 追いかけたい気持ちを抑えて、謝憐は花城に笑いかける。

「私の愚痴を聞いて、駆け付けてくれたんだろう? 三郎。きみって本当に私に対して過保護すぎる」
「兄さんが俺を呼んだからだよ。兄さんに呼ばれればどこへでも現れる」
「私が? 呼んでいないぞ」
「そう? なら俺の聞き間違えかな」

 ひょっとしたら。
 心のどこかで花城を呼んだのかも知れない。
 人は心が行き詰まると一番信頼出来る存在のそばに駆け寄りたくなるものだから。

「私にとっての三郎は、そんな大切な人なのかな」
「それは兄さんの心に聞いて。俺には答えられない」
「物知り三郎でも知らないことがあったんだね」
「うん。兄さんの心の奥は、探りたくても探れない。三千世界を合わせたよりももっと深く、広い」
「大袈裟だよ」

 破顔する謝憐を見て、花城の顔にも安堵の笑みが浮かぶ。
 どうやら彼は本当に花城を心で呼び、彼に助けを求めたようだ。
 きっと謝憐の心の叫びを聞いて花城は居てもたっても居られずに駆け付けてしまったのだろう。
 懇意にしてくれる彼へは本当に感謝しかなく、謝憐は思い切って彼に手を触れ、後ろへ下がろうとする花城に「行かないで」と厳しめの声で制し、留まらせた。

「ここに居て、三郎」

 いま少し。
 もう少しだけで良いから、彼と共にいたい。

 うん、と頷いた花城が恐る恐る手を伸ばし、謝憐の手を握り締めると、息が出来なくなり、謝憐は思わず瞼を閉じた。

 唇に冷たくもあり、温かくもある感触が触れ、花城の匂いに包まれる。

 鬼の唇は意外にも柔らかい。
 自分が融けてしまいそうで、謝憐はぎゅっと彼の紅衣を握り締めた。

20240308
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